日本文化を探る
「六郷満山」とは
大分県の国東半島一帯に広がる寺院群を総称して「六郷満山」と呼ばれています。その歴史は古く、「神仏習合の発祥の地」としても知られています。中でも今でも残る石窟や石仏の数々は、国の名勝にも指定されるなど、歴史的にも貴重な遺物として多くの観光客が訪れています。また国東半島における仏教発展のルーツを考える上でも、非常に特徴的といえるでしょう。
国東半島の山々は、中心部にそびえる両子山に近づくにつれて、尾根が険しく高くそびえる地形となっています。そうした道なき道の山を切り開き、トンネルを掘削する最先端の土木技術は、仏教の教えと共に朝鮮半島や中国からもたらされました。その後、山全体を一つの信仰対象とする山岳宗教が発展。多くの修行僧が集団生活を送るようになり、寺社が形成されていきます。
国東半島は、かつて、中国や朝鮮半島といった大陸と日本列島を結ぶ重要な交通上の要衝でした。遣隋使や遣唐使の時代、大陸を出発した船は博多に到着して、瀬戸内海を経由して奈良や京都の都に戻っていきました。その際の寄港地として国東半島が重宝されていたそうです。結果的に、国東半島にもいち早く仏教や最新の技術が持ち込まれ、平安時代末期には隆盛期を迎えます。
国東半島は、かつて、中国や朝鮮半島といった大陸と日本列島を結ぶ重要な交通上の要衝でした。遣隋使や遣唐使の時代、大陸を出発した船は博多に到着して、瀬戸内海を経由して奈良や京都の都に戻っていきました。その際の寄港地として国東半島が重宝されていたそうです。結果的に、国東半島にもいち早く仏教や最新の技術が持ち込まれ、平安時代末期には隆盛期を迎えます。
神仏習合の出発点にあたるのが725年に創建され、全国にある4万社余りあると言われている八幡様の総本社発祥の地である宇佐神宮です。八幡神は、応神天皇を神霊としてお祀りするとともに、宇佐氏の崇拝する海神としても知られています。その功徳は絶大で、航海の無事を願うだけでなく、後に国家の一大事には、「宇佐使」が訪れ、ご神託を賜った場所と言われています。代表的な人物として、孝謙天皇の指示のもと、宇佐神宮で神託を受けたことで孝謙天皇の側近だった道鏡を告発して流罪になった和気清麻呂公が有名でしょう。この八幡神と仏教のつながりを示すエピソードとしては奈良の大仏の建立が挙げられます。745年に聖武天皇が奈良に大仏を鋳造する際に、八幡神の「われ天神地祇を率い必ず成し奉る」という宣託を受け、開眼にまでこぎつけたと記されています。歴史の大きな岐路ではたびたび宇佐神宮の神託が重視され、国家鎮護のために大きな影響力をもっていたことがわかります。
このように宇佐神宮は、仏教が日本に伝来したかなり早い時期から仏教を取り込んで、神仏習合が進む基点となりました。これが「神仏習合発祥の地」と言われるゆえんです。その結果、誕生したのが、宇佐神宮の境内に創建された弥勒寺です。弥勒寺は廃仏毀釈で明治には廃寺となりますが、今も宇佐神宮の境内に礎石だけ残っています。ご本尊として祀られていた八幡様は八幡大菩薩と呼ばれ、国東半島を寺領として、宇佐神宮と共に大きく栄えました。
このように宇佐神宮は、仏教が日本に伝来したかなり早い時期から仏教を取り込んで、神仏習合が進む基点となりました。これが「神仏習合発祥の地」と言われるゆえんです。その結果、誕生したのが、宇佐神宮の境内に創建された弥勒寺です。弥勒寺は廃仏毀釈で明治には廃寺となりますが、今も宇佐神宮の境内に礎石だけ残っています。ご本尊として祀られていた八幡様は八幡大菩薩と呼ばれ、国東半島を寺領として、宇佐神宮と共に大きく栄えました。
六郷満山の開基は718年。奈良時代に活躍した仁聞菩薩という僧が、国東半島に入って法華経の巻数に合せて28カ寺のお寺を建てて整備。その後、一大組織を作り上げました。最盛期には800もの寺院が共存共栄を果たしてきました。
仁聞菩薩は国東半島を6つの里(来縄・田染・伊美・国東・武蔵・安岐)に分けて、「本山」「中山」「末山」の3つに、それぞれの役割を決めてグループ分けをしました。本山は、僧侶が学問をする場所。中山は修行をする場所。末山は布教をする場所という区分けをしたばかりか、それぞれに山側に開創された本寺と海側に近い末寺を割り当て、組織化することで、六郷満山が大きな寺院勢力として、広く認知されるに至ります。また仏像も、法華経の全文字数に匹敵する約6万9300体を造立しお祀りしたことからも信仰が非常に篤かった地域だったことがうかがえます。
仁聞菩薩は国東半島を6つの里(来縄・田染・伊美・国東・武蔵・安岐)に分けて、「本山」「中山」「末山」の3つに、それぞれの役割を決めてグループ分けをしました。本山は、僧侶が学問をする場所。中山は修行をする場所。末山は布教をする場所という区分けをしたばかりか、それぞれに山側に開創された本寺と海側に近い末寺を割り当て、組織化することで、六郷満山が大きな寺院勢力として、広く認知されるに至ります。また仏像も、法華経の全文字数に匹敵する約6万9300体を造立しお祀りしたことからも信仰が非常に篤かった地域だったことがうかがえます。
六郷満山はとりわけ天台宗との関係が深く、その原点は伝教大師最澄の時代にまでさかのぼります。最澄は、桓武天皇の勅使で遣唐使に選ばれ、803年に難波(大阪)を出発します。ところが、航海途中で暴風雨に遭い、九州で足止めを受けます。その時に宇佐神宮にて渡航安全の祈願をして無事に唐に渡り、天台の教えを持ち帰ることに成功します。そのお礼として中国から持ち帰った仏具や経典を宇佐神宮に納めました。
その中には最も重要なお経である「法華経」を宝殿に納めて、最澄が教えを説いたと言われています。その儀式は今も「法華八講(三問一答)」として、天台宗の御座主は必ず一度はお参りする歴史的な行事として重要視されています。『天台大師和讃』にも宇佐神宮に関する記述があることから、最澄と宇佐神宮は、かなり強い結びつきがあったと推定されます。最澄が後に六所宝塔の場所のひとつとして宇佐の地を選んだことからも、かなり思い入れのある土地だったのではないでしょうか。
その中には最も重要なお経である「法華経」を宝殿に納めて、最澄が教えを説いたと言われています。その儀式は今も「法華八講(三問一答)」として、天台宗の御座主は必ず一度はお参りする歴史的な行事として重要視されています。『天台大師和讃』にも宇佐神宮に関する記述があることから、最澄と宇佐神宮は、かなり強い結びつきがあったと推定されます。最澄が後に六所宝塔の場所のひとつとして宇佐の地を選んだことからも、かなり思い入れのある土地だったのではないでしょうか。
古くからの祈りの伝統を今に伝える六郷満山ですが、その神仏習合の祈りのありようは、地域に今も根ざしています。大分県の民家では、必ず床の間が備え付けられ、小柱を挟んで左側には神棚が、右側には仏壇が祀られています。全国的にも非常に珍しい神仏の飾り方ですが、廃仏毀釈が吹き荒れた明治以降に一般化したお堂として、今も毎日、朝晩に手を合わせる家庭が多いと言います。1300年の時間が経過してもなお、庶民の素朴な信仰心が、息づいている地域といえるでしょう。
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