日本三文殊の一つ「文殊仙寺」を訪ねる
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いろり端

探訪「1200年の魅力交流」

日本三文殊の一つ「文殊仙寺」を訪ねる

海に囲まれ山が連なる国東半島には、仁聞菩薩により六郷満山が開かれる以前から、山岳信仰が盛んな地域として、多くの修行僧が研鑽を積んできました。中でも今回案内していただいた「峨眉山 文殊仙寺」は、648年に修験道の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)が開基した古刹として知られています。

江戸時代には文珠仙耶馬として、2018年には、国の名勝に指定されるなど、その風光明媚な景色が今も昔も変わらず遺されています。奥の院から、青雲に向かってそびえる文殊岩や、その堂々とした存在感が際立つ達磨岩などの絶景を間近に見ながら、約330段もの参道を登りきると、言いようのない達成感が得られるのは、古代の山岳信仰の修行者から、ご本尊である文殊菩薩の功徳にあやかろうと訪れる現代も受験生も同じ心持ちに違いありません。

まず、山口光俊師に奥の院を案内していただきました。
「これまでも六郷満山のお寺を訪ねたと思いますが、共通するのは、それぞれの寺院が、比叡山のような一山みたいな形式になっていること。文殊仙寺ですと、まず参道の階段に差し掛かる手前に、石造の仁王像が出迎えてくれると思います。その後、山門をくぐって階段を220段ほど上ると本堂に、さらに110段ほど登りますと、奥の院である本殿の文珠堂にたどり着きます。

昔はこの文殊山一帯の境内に、中之坊や福寿院、向坊(むかいぼう)、東の坊があって、江戸時代の最盛期には200余名の僧侶がこの地に住んでいたと言われています。今でも本殿の奥には神仏習合のなごりである六所権現という神様をお祀りするお宮さんもありますし、役行者堂はご覧のように、洞窟になっています。その洞窟の中で役行者さんも修行してお寺を開いたといわれています。洞窟の中央にあるのが役行者像です。
役行者とのつながりで言えば、奥の院に隣接する洞窟から湧き出てくる『知恵の水』はご利益のある霊水として、汲み上げたお水を参拝者にお分けしています。今現在はコロナもありますので、霊水の提供は中止していますが、また事態が収束すれば、再開できればと思っております。水というのは生きていくうえでとても大切なものです。おそらく役行者様も水が湧き出てくるこの場所を修行の地に選んだのも偶然ではないでしょう。一説には、ご本尊の文殊菩薩様も役行者様が中国から持ち帰られたとも言われています。是非、この霊水を飲んでいただいて、文殊菩薩様の知恵を持ち帰っていただきたいですね。
寺院の名称にもなっているご本尊の文殊菩薩像ですが、正式には『文殊師利菩薩』という名称です。残念ながら秘仏で、卯年の守り本尊として12年に一度の卯年の春・秋大祭においてのみ御開帳をいたしております。本殿のさらに奥に小さいお堂がありまして、その中に祀られています。細かなデータは不明ですが、制作された年代は、1200年~1300年くらい前に中国で造られた青銅の仏像ではないかと言われております。高さは30センチほどでそんなに大きくないです。台座は後から持ち込まれたらしく、室町時代に造られたと見られています。
いずれにせよ、仁聞菩薩が六郷満山を開基されたのが718年ですから、それよりも70年以上前からこのお寺があったと伝わっています。おそらく単立であった寺院がその後、六郷満山に合流したと思われます。国東半島では、かなり古い部類の寺院だったようです。

ご存じの通り、文殊菩薩といえば智慧の仏様ということで、受験のシーズンともなると、合格祈願で学生さんや父兄やおじいちゃんおばあちゃんも護摩焚きの御祈願、絵馬を書いたり、合格の御守りが買ったりされて忙しくなってきます。霊験あらたかなお水をいただく人も後を絶ちません。ただ、とかく知恵というとイコール学業と考えがちですが、文殊菩薩は生きるための知恵もお参りした方に授けてくれます。
よくお年寄りの参拝者が『ボケ封じに来ました』とおっしゃられます。文殊仙寺では『ボケ封じでのご祈願は受けない』とお断りさせていただいています。なぜなら小さい赤ちゃんでも100歳過ぎのご年配のおじい様でも、文殊仙寺に足を運んでいただいてお参りをすれば、知恵を授かることができるからです。つまり、年齢性別を問わずに知恵を授かるのでボケることはありません。文殊菩薩様の前では、わざわざボケ封じをする必要はないわけです。お守りもボケ封じはありません。知恵守りはございます。また『三人寄れば文殊の智慧』という言葉がありますが、ここがその発祥じゃないかとも言われたりしております」
六郷満山と言えば、鬼とのつながりが強いことで知られています。天台宗でも「鬼大師」として護符にもなっている元三大師良源が有名です。六郷満山では、元三大師像が現存する寺院はわずか2つのみ。ここ文殊仙寺と、現在は堂宇がない満徳寺だけです。片や満徳寺の元三大師像は地元の宇佐博物館に預けられていますが、文殊仙寺の元三大師像は、18年から一般公開されるようになり、手を合わせる参拝者が跡を絶たないと言います。

「実は現在、護摩堂の奥の院の内陣の中でお祀りしている鬼大師像は、以前は本堂に祀られ厨子の中に入れられていて、あまり顧みられることはありませんでした。ところが、2017年の六郷満山の1300年祭の時です。1300年祭にあわせて、2017年に九州国立博物館で『六郷満山展』が開催。その際に元三大師像が初めてお寺から博物館に出ることになった。そこで改めて調べてもらうことで、この元三大師像が鬼大師という名前だとわかったのです。『鬼』と言えば、六郷満山とはきっても切り離せない関係ですから、このご縁を機に一般の方にもお参りできるように、奥の院で祀るようになったのです。護摩焚きのご祈願をされた方には奥の院にお参りをしていただいているので、鬼大師のご功徳も得られるはずです」
文殊仙寺では春と秋に大祭が催されます。中でも秋季大祭として毎年11月の第3週の土曜日から日曜日に一昼夜かけて執り行われるのが「八千枚大護摩供」です。朝の9時から翌日の午後3時まで、ぶっ続けの不眠不休で僧侶が炎の上がる窯に向かって、祈願護摩木を梵焼する荒行として知られています。

「2021年の八千枚大護摩供は、11月20日21日に秋吉文暢住職が執り行いました。八千枚の祈願護摩木を住職が2日間焚き続けるという行ですから、精神的にも肉体的にも非常に厳しい行です。当然ながら準備は欠かせません。まず、行に入る3週間ほど前から五穀塩断ちを行います。五穀の内訳は「お米、大豆、小豆、大麦、小麦」になります。さらに、同時に塩断ちもいたします。そうすると『何を食べるのか』と聞かれますが、野菜中心の食事になります。具体的にはキュウリやトマトとか。主食のごはんとみそしるは勿論いただけません。
行の期間中は、二日間断食断水不眠で行います。ずっと火があがっている中で『ごはんを食べない、水を飲まない、寝ない』で炎の前に座っているのです。住職の体調の面でお話をすると不臥はしないので、お堂の横にある控室で休憩することはあります。

秋吉住職によれば、食事をとらないので眠気がこないというメリットはあるようです。むしろ一番キツイのは、水がとれないことだそうです。水をとらないと、そのうちに、血液が固まってくるのがわかるそうです。そうなると数秒で辿り着けた控室から護摩行の場所まで10分も15分もかかるほど動くが鈍くなるそうです。そうした行が年に1回ありますが、多くの方の御祈願が集まるので、気合も入るようです。
ちなみにこの護摩行で用いられる火は、2017年の六郷満山1300年の際に、比叡山根本中堂の『不滅の法灯』から分灯していただいたものです」
国東半島の中でも早い時期に創建された文珠仙寺の歩みは、波乱万丈そのものでした。六郷満山の末山本寺として、布教のみならず修行の地としても地元の人々のみならず、有力者からの庇護によって、江戸時代に最盛期を迎えます。

「文殊仙寺も山の中にありますが、六郷満山では末山にあたります。海岸線沿いの岩戸寺さんも末山です。大分空港の方にあたる国東半島東側の海岸線のあたりは、布教活動の拠点である末山というお寺が非常に多くなってきます。文殊仙寺の奥の院で標高300メートルほど。山内ぐるりと回ると洞窟がたくさんありますし、少し登ると風神岩があり風神様が祀られていますし、僧侶たちが修行をしながら勉強をして尚且つ布教活動もしていたということです。

かつて文殊仙寺は、杵築藩を治めた松平家と関係が深く、江戸時代には杵築藩の家紋である雪持ち笹紋という紋をつけた灯篭なども献上されています。松平家の当代の祈祷場だったそうで、非常に栄えて、僧侶たちが自分達でお米を植えて稲刈りをして、自給自足の形で寺院を運営していたようです。かつては、僧兵も自前で擁していたそうで、兜鎧などもそのまま保存して残っています」
栄枯盛衰を経て廃れていった寺院も多い中、今もその命脈を保っている文殊仙寺。その陰には、「信仰に篤い檀信徒からの支えが欠かせなかった」というのは、秋吉文隆名誉住職です。

「鐘楼門の下に見えるのが、樹齢1000年以上と言われているけやきの木です。周りが8m~9mからの岩の上に生え映えていて、境内全体が大分県指定の天然記念物に指定されています。昔の人はよくもこんな所に山寺を建立して、地域の人達が篤い信仰で護って来られたのですね。お寺もお殿様の保護が非常に大きかったのかなとも思います。
私の元にも日本全国から色々な方が訪ねられてこられます。すると、必ず言われるのが、大分空港から入って国道筋にお寺の標識が多いこと。国宝を有するお寺のみならず、霊場巡りに含まれるすべてのお寺に道路標識が冠されているので、皆さん驚かれます。

国東半島の天台宗が擁する六郷満山。さらには宇佐神宮を含めた三十一の霊場巡りに含まれるお寺に標識が密集しているのは、京都以上かもしれません。国東半島の信仰がこのような形で今も昔のままの姿を残しているのは、誇ってよいことではないでしょうか」

参加大学生の感想

今回、文殊仙寺にお邪魔させていいただいた。お話を聞く中で印象的だったことがある。伝教大師最澄が灯し、1200年間消えることなく灯され続けてきた不滅の法灯が、比叡山延暦寺から文殊仙寺に分灯されたことである。この分灯は六郷満山開山1300年を記念して行われた。

六郷満山は718年に仁門菩薩によって開かれたようだが、文殊仙寺はそれより前の648年に修験道の開祖である役小角が開いていたようで、文殊仙寺の洞窟で修行していた。実に1300年以上もの歴史のある寺院である。その寺院に不滅の法灯が延暦寺から分灯されたことは重要な意味があると思う。もともと伝教大師が灯した不滅の法灯には、お釈迦様の次に仏として地上に生まれられる弥勒仏の時代まで仏教、天台の教えという灯を消してはならないとの願いが込められている。その願いの込められた法灯が文殊仙寺に分けられたということは、文殊仙寺あるいは六郷満山を中心として九州の地に仏教や天台の教えをより強く根付かせ、国家やあらゆる人の安泰を願うことを任された重要な寺院であると思う。

そのお寺の住職である秋吉文暢住職は仏教離れ、お寺離れが急速にすすむ現代でも、文殊仙寺や六郷満山の魅力を伝えようと積極的に様々な活動をされている。今回の六郷満山の訪問でもご尽力されて感銘を受けました。秋吉さんのされている活動を通して一人でも多くの人が文殊仙寺や六郷満山を訪れ、天台や仏教とはどんなものなのかを感じ取っていただきたい。
文殊仙寺
〒873-0646 大分県国東市国東町大恩寺2432

六郷満山お寺巡りの様子(記事)