何げない日常に潜む日本の文化 ~「いただきます」「ごちそうさま」編~

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~「いただきます」「ごちそうさま」編~

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「いただきますって言った?」
「あ! いただいています…」
空腹のあまり食欲が勝ってしまった最近の筆者と母の会話です。
子供の頃から親に食事の前には手を合わせて「いただきます。を言いなさい」と言われ、習慣となっているこの言葉。空腹のあまり時々忘れてしまう筆者ですが、近所の3歳児に、そして愛犬にまで「いただきますしようね」「はい。ごちそうさま」と、話しています。
お行儀として教えられてきた言葉ですが、その意味を考えたことはありますか。

-「いただきます」の語源とは

「いただきます」は、「もらう」や「受け取る」の謙譲語で、相手を敬うときの表現として使われますが、その相手とは、いったい、誰なのでしょうか。
「いただく」は、神様にお供えした食料を食べるとき、また貴人(身分の高い人)から物を受け取るときに、頂(頭の上)に掲げたことから、「食べる」「受け取る」の謙譲語として使われるようになったそうです。
古代から日本では、この世の中にあるすべての自然物や動物・植物、自然現象までも霊威や霊魂が宿っていると考えてきました。これをアニミズムと言いますが、台風や日照り、洪水などで農作物が傷つかないように神様に祈ったり、豊作になるとそれをもたらしてくれた神様に感謝したと日本史の授業で習った気がします。そのようなアニミズムの精神が、およそ1万年前から脈々と私たち日本人のDNAに受け継がれているのでしょうか。

-「いただきます」の意味を考えてみる

「いただきます」には2つの気持ちが込められているそうです。一つは、食事に携わってくれた人たちへの感謝。もう一つは、食材への感謝です。私たちは、肉や魚、野菜や果物にも命があると考え、それらの命をいただき、私たちの命に代えさせていただいているという感謝の気持ち。こちらが本来の意味だと考えられているようです。
ふと、こんなことを思い出しました。筆者が幼稚園児だった頃、一口ほど残したご飯を見て祖母が「お米、一粒の中に88人の神様がいるから、残したら罰が当たるよ」と。幼心に88という中途半端な数の神様が、こんな小さなお米の中にぎゅうぎゅう詰めの状態で入っているんだなと思いましたが、罰が当たるのは嫌なので、一生懸命食べた記憶があります。お米という文字は「八十八」と書きます。大人になって知りましたが、お米を作るには昔から「八十八」もの手間暇がかかるということから「米」という漢字が作られたそうです。祖母は漢字の成り立ちを幼稚園児の私に教えたくて言った言葉ではもちろんありません。多くの人が携わり私たちの食卓にあがっているのだから、残さず、そして不平を言わず、ありがたくいただきなさいということを88柱の神様に例えたのだと思います。

-では「ごちそうさま」の意味を考えてみましょう

「ごちそうさま」は漢字で「御馳走様」。「馳走」とは、奔走するという意味で、冷蔵庫もない時代に、お客様のためにおいしい食べ物を用意するために奔走した様子を表しています。大変な思いをして食事の準備をしてくれた人への感謝と敬意を込めて「馳走」に「御」と「様」が付き、食事を終えた後に「御馳走様」というようになったと言われています。
実は「馳走」という言葉は仏教用語でもあるそうです。「韋駄天(いだてん)」という足の速い神様が、お釈迦様のために駆け回って食材を集めてきたという話に由来するとも言われています。


海外では、食前に神様に感謝をするという習慣はあるようですが、命(いのち)に対して、また、食事に関して関わった人への感謝の気持ちを伝える言葉は見られないと言います。いつでも好きなときに好きな物を簡単に食べることができることは、とても幸せなことです。そんな時代にあって食べ物の向こう側にいる生産者や製造者、ましてや食材にまで、なかなか思いを馳せることは難しいですが、ほんの少し考えてみるだけでも物のありがたさや、感謝の気持ちを持つことができます。

一滴の水にも、天地の恵みを感じ、一粒の米にも万民の労苦を忘れず、「いただきます」「ごちそうさま」。6文字の言葉にたくさんの意味や気持ちが込められているんですね。
「いただきます」と「ごちそうさま」は、対になった言葉ですが、どちらが先に誕生したのでしょうか。「いただきます」がアニミズム(神道)の精神、「御馳走様」が仏教用語からとするならば、「いただきます」という言葉が先だったのでしょうか? 気になりますが、今回はこの辺で。
ライター:惣元美由紀
画像素材:PIXTA