修正鬼会を伝承する「天念寺」を訪ねる
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いろり端

探訪「1200年の魅力交流」

修正鬼会を伝承する「天念寺」を訪ねる

今回ご訪問した豊後高田市に位置する天念寺は、長岩屋川の流域に伽藍を構えているお寺です。参道の入り口側から山側を臨むと、切り立った崖が屹立する名勝、「天念寺耶馬」と評されています。「耶馬(やば)」とは、江戸時代の思想家、頼山陽(らいさんよう)が現在の大分県にあたる山国谷を訪れた時に、その景色を気に入って中国風の文字をあてて「耶馬渓天下無」と漢詩に詠んだことにはじまり、凝灰岩や溶岩などの侵食によってできる奇岩の連続する景色を「○○耶馬」と呼ぶようになり、その名が一般的に広がりました。切り立った岩山のこの上ない絶景のことを「耶馬」と呼びます。
また江戸時代の思想家の三浦梅園はこの地を訪れて漢詩を詠み「仰夫神徳天門之道」(霊験あらたかな天への道)と表現しました。文字通り、天念寺の「耶馬」は山号にある25メートルほどの長岩屋が一直線に並んだ麓に、お堂や坊舎が整然と佇む様子もまた名勝とされる所以でしょう。実際、平成29年(2017年)には天念寺耶馬と尾根伝いに行者の回峰行として往き来してきた無動寺耶馬が国指定の名勝にも指定されています。

天念寺は、他の六郷満山を構成するお寺と同じように養老2年に仁聞菩薩によって開かれたと伝えられています。平安時代や鎌倉時代には幕府や国家の為に数多くの加持祈祷が行われ、六郷満山を構成する3つの寺院群のうち修行を専門的に行う寺院群である「中山」の本寺のひとつとして、長岩屋川流域の東西3キロほどにわたる広大な伽藍を営み、大いに栄えていたそうです。


ご案内いただいた住職の松本量文師にお話しを伺いました。

「元々は天念寺にも住職がいらっしゃったのですが、跡を継ぐ方がいらっしゃらず私のように近所の寺の住職が兼務しています。以前は本堂の周囲には僧侶の住む坊がたくさんありました。そして多くの国宝級の仏像もありましたが、すべて水害で流されてしまいました。この地域は昔から水害に悩まされていました。」
度重なる水害の影響を色濃く残すのが、天念寺の門前を流れる長岩屋川にある「川中不動」です。巨岩に刻まれた不動明王は安土桃山時代の作とされ、その高さは3.7メートルを誇ります。

「古来より長岩屋川は大雨のたびに氾濫を繰り返し、川に直面していた天念寺に幾度となく被害を与えてきました。川中不動はそんな天念寺の水害除けに刻まれたものと伝えられています。今でこそ上流にダムができましたが、昭和16年の時点ではなかったことが悔やまれます」


天念寺は、昭和16年(1941)に大きな水害に襲われてしまい、本堂などの建物が流されてしまいます。しかしながら、いくつもの災害を乗り越え数多くの文化財が現在まで伝わっています。その代表的な例が天念寺に隣接している「歴史資料館 鬼会の里」に展示されている木造阿弥陀如来立像です。もともとこのお像は現在の天念寺の裏手の岩山にある小両子岩屋(こふたごいわや)に祀られ、後に天念寺本坊の国宝堂とよばれた建物に安置されていました。
大正8年(1919)になると国東半島を代表するお像であることから帝室博物館(現在の国立博物館)に寄託・展示されていました。しかしながら、昭和16年の大規模な水害の復興のため昭和36年(1961)に売却され、天念寺の地から離れていました。天念寺の地に帰還されたのは平成15年(2003)のことでした。天念寺の地を離れた大正8年から数えるとおよそ84年ぶりに帰還されたそうです。像高が198 cmもあるこの大きなお像に相対していると、数々の災害や困難に見舞われながらもそれらに打ち勝ってきたこのお像の力強さや迫力を肌で感じました。


古来より修行を専門的に行う寺院群である「中山」の本寺として大いに栄えた天念寺の背後にそびえ立つ岩山「天念寺耶馬」をのぞむと岩場の間に橋が架かっていることがわかります。この橋は無明橋といい、国東半島で10年に1度行われる峯入り修行の際に行者の方々がこの橋を渡るそうです。

六郷満山を開基した仁聞菩薩が山岳修行をしてきた足跡を巡る「峯入り修行」。855年には「峯入り」が行われていたとの記述もあることから日本でもかなり古い時代の回峰行とされています。急こう配の長岩屋を登る峯道は険しく、その道中には岩窟が信仰の場としての歴史を物語っています。天念寺耶馬の麓にある「歴史資料館 鬼会の里」において、無明橋をわたる際のVRを体験しましたが、地面からの高さで足がすくむとともに、このような岸壁を生み出した自然に対する畏怖の念を覚えました。

「峯入りですが、仁聞菩薩の足跡をたどって183か所の岩屋や奇岩、御堂などといった霊場を縦横に巡る行です。現在、私たちは遥拝(遠くからの礼拝)を含めて廻っておりますが、4日間でだいたい50~60くらいのお寺、史跡を巡っていきます。
天念寺耶馬から無動寺の耶馬は、遠くから見るとそれほど大きく感じないかもしれないですが、岩を縄に伝って登りながら見ると、やはり大きく感じますね」
最後「修正鬼会」の中心舞台でもある講堂をご案内いただきました。

天念寺は、天念寺耶馬に代表されるような景観でも有名ですが、国東半島を代表する宗教儀式である「修正鬼会」が毎年執り行われる場所としても有名です。修正鬼会は、8世紀初頭に、天念寺を開いたと伝わる仁聞菩薩が六郷満山を構成する28か寺の僧侶を集めて「鬼会式」を授け、国家安泰・五穀豊穣・万民快楽を祈る法会を行ったことから始まったと伝えられています。

天念寺では、境内の講堂にて旧暦の正月7日に毎年執り行われています。午後3時ごろから読経などが行われる法会が行われ、その後に有名な立役(たちやく)が始まります。その中で登場する「災払い鬼(さいばらいおに)」と呼ばれる赤鬼は、仁聞菩薩の弟子で宇佐神宮の神宮寺であった弥勒寺の初代別当を務めたと伝えられている法蓮という僧侶や愛染明王の化身とされ「荒鬼(あらおに)」と呼ばれる黒鬼は、行者を守る不動明王の化身と考えられているそうです。一般的には、鬼と言えば災厄を運んできて、私たちに害をおよぼす存在として認識されていますが、国東半島では祖先が姿を変えた存在と伝えられているそうです。
「天台宗では、五穀豊穣や玉体安穏を祈念する修正会という法要があります。一方、国東半島では鬼会という祖霊神信仰がありました。その地区の祖先が、鬼の形になって安全や豊穣を願ってくれるという行事です。この両者が融合したのが、この地に独特な『修正鬼会』という形態をとるようになったと言われています。ですから、鬼というのは悪い鬼ではなく良い鬼です。修正鬼会は宗教行事ではあるのですが、一方で地区との関わりが非常に大きく、また地区の先祖が鬼の形をして現れる祖霊信仰とも言えるのではないでしょうか。国東半島の鬼は、怖いとか悪事を働く鬼ではなく、家族や地区を守るようなイメージです。

講堂の脇に置いてあるのが、実際に使用する松明です。講堂の脇のスペースにあるのが、火床といって火を起こす場所です。中に入るとわかると思いますが、鴨居や柱は、松明の火で焼けてすすけて真っ黒になっています。天井はすべて取っ払って、梁の部分に葦を代わりに敷いて、修正鬼会の前に水を撒いて火事を防ぎます。床も同様に水を撒いて、終わってから再度水を撒くことにしています。いずれも防災のための対応策で、当日は一切、水をまくようなことはしません。火に直接水をかけると、そのまま火の勢いが増してしまい、思わぬ火事を引き起こすからです。細心の注意を払います。」

修正鬼会が執り行われる天念寺の講堂の中に入ると、鬼会で実際に使用された松明などが展示され、「歴史資料館 鬼会の里」では、実際の修正鬼会の様子を映像で見学できます。そのような実際の資料に触れると、修正鬼会という儀式が厳かな宗教儀式という側面だけではなく、同じ時代に生きる人々や過去の先人達と時を超えて楽しく交流する場でもあるということを強く感じました。
天念寺を訪問し、様々な人々や時間、宗教などが複雑に絡み合うことで国東半島独特の文化が形作られているということを感じました。私たちがどのように周囲の人々や環境と交流しているのか、どのような文化を私たちが形作っているのか、何気ない日常の中でふと立ち止まって考えてみると捉えどころない文化というもののおもしろさを感じることができるのではないでしょうか。


天念寺
〒879-0731 大分県豊後高田市長岩屋1152

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