何げない日常に潜む日本文化~日本酒~

日本文化を探る

何げない日常に潜む日本文化
~日本酒~

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数年前から「日本酒ブーム」と言われ、酒店に行くとどれを選んでいいかわからないほどの銘柄と種類が並んでいます。
「親の意見と冷や酒は後で効く」「酒は憂いの玉箒」「酒は飲むとも飲まれるな」「酒は百薬の長」「酒池肉林」など、お酒にまつわることわざや故事が多くあり、私たちの文化や生活と関係が深いお酒ですが、日本ではいつから飲まれるようになったのでしょうか。

-飲酒の始まりは縄文時代?

日本でお酒が飲まれていたのではないだろうかと思われる最も古い痕跡が、縄文時代の遺跡(青森県の三内丸山遺跡や長野県の池内遺跡など)から見つかり、エゾニワトコを中心にサルナシ・クワ・キイチゴなどを発酵させた果実酒が作られていたのではないかと言われています。大量の種とともに発酵したものに集まるショウジョウバエのサナギも出土したことが、その裏付けだそうです。ということは、日本で最初に作られたお酒は、日本酒ではない可能性もあります。

日本酒の原料はお米ですから、当然、稲作が伝来してからということになると思いますが、実は日本酒がいつ誕生したかに関しては、はっきりとわからないそうです。日本では縄文時代後期・晩期には中国伝来の稲作が行われていた可能性が高いと言われていますので、もしかすると縄文時代の晩期にはすでに日本酒らしきものが存在していたのかもしれません。

-書物に登場するお酒

日本にお酒が存在することを示す古い書物のひとつに中国の歴史書『魏志倭人伝』があるというので、原文をネットで探してみました。そこには「喪主哭泣、他人就歌舞飲酒(=喪主は大声をあげて泣き叫び、ほかの人たちはお酒を飲んで歌い踊る)」「父子男女無別。人性嗜酒(=親子男女の差別がなく、お酒をたしなむ)」とあり、私たちのご先祖様は卑弥呼様の時代から、お酒をたしなみ、歌い踊っていたということが書かれています。しかし、どんなお酒を飲んでいたかについては記載がなく不明でした。
日本でお米を原料にお酒を作ったとわかる文献上の初見は『大隅国風土記(713年以降)』で、「口噛みノ酒」というものが登場します。これは、加熱した米を口の中でよく噛んで、唾液に含まれる酵素で糖化させ、酒専用の容器に吐き入れておくと、野生酵母によって発酵が進み、お酒になるというものです。お酒の香りがしたころが飲みごろだそうです。

それはさておき、お酒造りを「醸(かも)す」というのは、この「噛む」が語源だと言われています。
また、奈良時代に編纂された『古事記(712年)』や『日本書記(720年)』にもお酒に関する多くの記述がたくさんあります。素戔嗚尊がヤマタノオロチを酒(八塩折之酒)で眠らせ退治する場面や、崇神天皇の記事の中には“ミキ”“ミワ”“ウマザケ”などの文字、応神天皇の記事の中には、大陸から酒造りのプロフェッショナルがやってきたというような内容があり、お酒の記述探しをしてみるのも楽しいかもしれません。

-奈良時代や平安時代は、酒作りも朝廷の仕事

奈良時代になると醸造技術も進み、朝廷には宮内省の直属の部署として、お酒造り専門の部署“造酒所(みきのつかさ)”が設けられています。実際に平城宮跡の東側に井戸があり、この井戸周辺から発掘された木簡にはお酒に関する内容が多く記されていたそうです。そういえば、長屋王の邸宅跡からも何種類かのお酒のレシピが書かれた木簡が出土していますね。当時は、貴族たちが嗜むためや儀式などで使用するお酒を計画的に造っていたといいます。

平安時代になるとお酒の造り方も豊富になり、『延喜式』には、朝廷における酒造法が細かく書かれているそうです。その後、平安京の官庁の衰退により、作り手が民間へ流れるとお酒造りの中心がお寺へと移ります。寺院で作られたお酒は「僧坊酒(そうぼうしゅ)」と呼ばれ、なかなかの評判だったそうです。なかでも、奈良の寺院で作られるお酒は「南都諸白(なんともろはく)」と呼ばれ、室町時代に至るまで高い名声を保ったといいます。特に、正暦寺(しょうりゃくじ・奈良県奈良市)で造られたものは“良い酒”だと大人気だったとか。正暦寺で開発された清酒の原型となる「諸白造り」という製法は、現在のお酒造りの元になったといいます。正暦寺での酒造技術は非常に高く、室町時代の酒造記『御酒之日記』や江戸時代初期の『童蒙酒造記』にも記載されているそうです。

-鎌倉時代以降、酒は「ケの日」にも飲まれるように

朝廷で多様化した日本の酒造りは、寺院でさらに進化し、鎌倉時代になると民間に広まり、販売用の酒造りが盛んになります。これまでは「ハレの日」にしか飲めなかったお酒が、このころから「ケの日」にも飲まれるようになりました。

酒蔵が増えると当然、お酒の消費量が増えるわけで、酔っ払いによるトラブルや体を壊す者、生活が苦しくなるなどの弊害が多発。そこで、鎌倉幕府は1252年に「沽酒禁令(こしゅきんれい)」を出し、酒造を制限し、一家に酒壺は一つのみとし、残りの壺は壊してしまったそうです。「沽酒禁令」が出されるなか、経済の発展によって、商人たちや職人たちが始めた「酒屋の酒」が全国的に進出します。なかでも、京の都では室町幕府が財源として酒屋を重要視したこともあり、洛中洛外の「酒屋の酒」は342軒にも登ったといいます。

-出来の悪いものは江戸には下らない

江戸時代に入ると、一大消費地は江戸に移ります。江戸で飲まれていたお酒のほとんどは「下り酒」の諸白。初期は「南都諸白」が人気だったそうですが、諸白の産地が摂津の伊丹や池田、富田に移り日本最大の清酒造りの中心となっていきます。
さらに、灘(兵庫県)で、酒造りに最適な「宮水」が発見され、それ以降は、灘が清酒造りの中心地に。これらの地域で造られたお酒は江戸へ運ばれたことから「下り酒」と呼ばれ、この「下り酒」は海上輸送中に味の変化が生じ、さらに旨味が増したそうです。出来の悪いお酒は江戸に下ることができなかったので、価値のないもの、とるにたらないことを「くだらない」というようになったと言われています。

-お酒は神様をもてなす最高のご馳走

寺院でお酒が造られていたというお話をしましたが、古くから神社でも酒造りが神事として行われていました。しかし、明治8(1875)年以降、お酒が課税対象となり、さらに、酒造免許の取得が義務付けられたことから、自由に造ることができなくなりました。これにより、いち早く酒造免許を取得したのが、奈良の春日大社と大神神社だそうです。現在ではそのほとんどが神社での酒造りを諦め、全国で清酒の酒造免許を持っている神社は、たった4社。そのひとつに皇室の祖先神であり、日本国民の総氏神でもある天照大御神をお祀りする“神宮”があります。神宮のお祭りでお供えされる御神酒は、白酒・黒酒・醴酒(一夜酒)・清酒の4種があり、清酒を除く3種は今でも内宮にある忌火屋殿(いみびやでん)で担当の神職により醸されています。

「御神酒上がらぬ神はなし」ということわざがあるように、日本酒は神社の祭祀に欠かせないものであり、人が神様をもてなす最高のご馳走でもあります。
日本酒の起源は定かではないようですが、日本酒は日本の豊かな自然の恵みと日本人の智恵の結晶が生み出したものであることは確かです。神様もこよなく愛する日本酒は、私たちの人生の節目や季節にも密接に関わっています。年末にはお正月用の日本酒を用意し、元旦にはお屠蘇で邪気を払い無病息災を祈り心身を清めます。結婚式では新郎新婦が杯を交わす三々九度、両家の家族たちも御神霊が宿った御神酒で互いを結びます。新築祝い、誕生祝い、長寿祝いの贈り物として、そして、さまざまなお祝いのセレモニーでは鏡開き(鏡割りとも)が行われ彩りを添えてくれます。花見酒、月見酒、雪見酒などといった言葉もあるようにお酒とともに季節を愛でるという日本人の感性の豊かさを象徴するお酒の楽しみ方もあります。ちなみに、燗してもよし、冷やしてもよしという、世界的にも珍しいお酒だそうですよ。太古の昔から私たちの喜怒哀楽に寄り添ってきた日本酒。筆者は飲み専門でしたが、歴史や文化的な背景をちょっと知ると、もっと日本酒について知りたくなりました。みなさんはいかがでしょうか。
ライター:惣元美由紀
画像素材:PIXTA