慈覚大師円仁により創建された山寺「立石寺」を訪ねる(奥の院編)
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探訪「1200年の魅力交流」

慈覚大師円仁により創建された山寺「立石寺」を訪ねる(奥の院編)

立石寺に参拝すると、登山口の階段を上った場所にある根本中堂を起点として、山頂近くの奥の院まで1000段を越える階段を登らなければなりません。今回参加した学生たちは、総勢5名。真夏の山登りとなると、体力的にもきつい面もありますが、休憩をはさみながら登り切った学生たちからは一様に、どこか晴れ晴れとした表情を見せていました。
ある学生も当日の様子を次のように振り返ります。
「山頂の奥の院を目指す際、山を登ることは大変な面もありましたが、一方で、自分の日々の雑念を忘れ、奥の院に着いた頃には一定の疲労を感じながらも、達成感と共に心がほっとしたような安心した気持ちをいだきました。」
今から約320年前に出版された松尾芭蕉が著した「奥の細道」でもまた立石寺参拝時の気持ちを文章に綴っていますが、同じような清々とした感慨を持っていたことがわかります。

「山形領に立石寺といふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、ことに清閑(せいかん)の地なり。一見すべきよし、人々のすすむるによつて、尾花沢(おばなざわ)よりとつて返し、その間七里ばかりなり。日いまだ暮れず。ふもとの坊に宿借りおきて、山上の堂に登る。岩に巌(いわお)を重ねて山とし、松柏(しょうはく)年ふり、土石老いて苔(こけ)なめらかに、岩上の院々扉を閉ぢて、物の音聞こえず。岸を巡り岩をはひて、仏閣を拝し、佳景寂寞(かけいじゃくまく)として心澄みゆくのみおぼゆ」
やはり、時代が経過しても人々の素朴な自然を愛でる気持ちや信仰心というのはあまり変わらないのかもしれません。立石寺の案内に同行していただいた清原正田貫主も「立石寺は昔から庶民信仰の場であった」と説明します。
「立石寺あるいは奥之院にあたる如法堂は、このあたり一帯の庶民の信仰の場として、長き期間にわたって多くの参拝者を集めてきました。特に如法堂は、慈覚大師(※前編参照)に由来する修行道場としてもさることながら、先祖供養の道場にもなっていました。そこでは、宗派を問わず先祖崇拝のために登ったわけです。芭蕉さんが来た時にも奥の院を目指したのは、当時の山寺参拝においては、奥の院に上がってお参りするという風景が江戸時代には一般的になっていました。
そこで松尾芭蕉が、『静かさや岩にしみいる蝉の声』という俳句を残します。『奥の細道』は俳句集であると同時に、長大な紀行文でした。『何月何日 どういうことがあった』という風に、事細かに記録しています。立石寺の項では、『こと清閑の地であり。人々のすすむるによりて』とあります。『景色のいいところだから行ってみなさいよ』と皆さんに言われて、立石寺にくるのですね。そして、夕方の3時半か4時ぐらいに、山にたどり着いてひとまわりして、ここの麓におりて、俳句を残します。おかげさまで立石寺のことに気に入ったようで、心が澄み渡ると好意的に書いてくれています。今でも高校の古文の教科書では、俳句を学ぶ際にはまず『奥の細道』が取り上げられるそうですが、必ずと言っていいほど、山寺の項が紹介されます。ありがたいことに、立石寺の名前が全国的に知られることになりました。」

立石寺の参道のあちらこちらで、芭蕉ゆかりのスポットを訪ねることができます。根本中堂横にある宝物館の向かいで出迎えてくれるのは、平成元年(1989年)に立てられた芭蕉像と随行した曽良像です。ほぼ等身大の先人の像を眺めながら参道を登っていくと、山の中腹の芭蕉が俳句を詠んだと言われている場所に、「せみ塚」がひっそりとたたずんでいます。これは芭蕉が山寺訪問から62年後に、句をしたためた短冊を埋め、その地に記念碑が建立したことからこの名前がついています。
くしくも蝉時雨が最盛期となる夏の山寺を訪れれば、芭蕉と同じ景色に迷い込んだような錯覚に陥るかもしれません。昔も今も変わらない景色が、立石寺の大きな魅力のひとつです。

さらに歩を進め、開山堂や経堂を横目に、切り立った岩場を抜けると、五大明王が祀られ天下泰平を祈念する道場である「五大堂」に。参拝者にとっては、奥羽山系を一望できる絶好の展望スポットとして、とても人気のある場所です。

五大堂から奥羽山系を望む

いよいよ五大堂から5分ほどで、山頂にあたる奥の院へ。奥之院の横には、昭和になって建立された大仏殿もあり、多くの参拝者が手を合わせます。
「山を登ってきて、右手にあるのが、先にもご紹介した如法堂。左手にある大仏殿は丈六の阿弥陀様が昭和になってできたのでそれを入れるために作ったお堂です。元々、立石寺は奥の院を中心に造られたという話もあります。如法堂は、通常ですと、この前に経机を出してここで三礼の行をして経を写します。満願の日には、内陣に入ってそこでお参りをするのです。毎年11月28日の『写経納経忌』の時は、ここから行列を作って納経堂まで、朝6時に向かいます。この行の特徴的なのは、石の硯に、蓬の茎を筆にして写経しますから、ほとんど判読が不可能なことです。このお堂の裏から水が湧くので、そのありがたいお水を使って墨をすります。ここでは『独鈷水(どっこすい)』と呼んで大事にしています。立石寺で行われる修行としては、最高の行として非常に重要視していまして、今も変わりありません。他にも4年に1回は法華経の経巻の部分を書いてお納めするなど、僧侶にとっても日常に欠くことのできない修行の場所です。」

大仏殿に祀られている阿弥陀如来像は、先祖供養のために、昭和に鋳造されました。平成になり、大仏殿が改築され、現在の場所にお祀りされているそうですが、地元の民間信仰を伝える先祖供養が、今も綿々と続いています。
「このお堂は、宗派を問わずにご供養できます。奥の方に結婚式の絵が描いてある絵馬がありますね。これは若くして亡くなったお子様の供養のための絵馬です。この立石寺のある山形県の村上地方では、結婚式のことを『むさかり』と呼んでいます。この世ではご縁がなくて若くして亡くなってしまったが、あの世ではいいご縁がありますように…とご両親が考えるのは自然なことです。『今、子供が生きていたらこういう風な結婚式にしたかったなあ』という願いを絵馬に託したもので、それをお納めして供養していただくという村上地方の昔からの風習です。かつては専門の絵師もいたようですが、今は花嫁人形だとかありますが、意味合いは同じです。このように、供養することで気持ちの整理をされている方々も大勢いらっしゃいます。」

この後、一行はお経をあげて、先祖と仏さまに手を合わせて大仏殿を後にしました。訪れた学生の多くが、初めての東北地方の訪問。立石寺が地元・村上地方の信仰の拠点として今も息づいていることが、様々なお堂から感じられる貴重な機会になったようでした。

参加大学生の感想

「立石寺が、付近に住む一般住民の方の信仰によって、支えられてきた側面もあることをお伺いした点は興味深かったです。私自身、魅力交流委員会の活動を通じて、歴史の教科書に出てくるような有名な人だけが歴史や文化を支えてきたわけではなく、その背後にいる多くの人々の日々の生活や考えを通じて、歴史や文化は受け継がれてきたのではないか、と考えるようになりました。立石寺も地域の人々のよって支えられてきた側面もあるというお話を伺った時、時の為政者たちだけでなく周囲の多くの人々によって支えられてきたからこそ、これだけの長い歴史がつながってきたのかなと思いました。他にも、なぜ慈覚大師はこの地を選んで山を開かれたのか等、関心を惹かれる点がたくさんありました。ぜひまたお参りをさせていただいて、長く受け継がれてきた歴史や教えの一端を、少しでも自分の中で感じられるようになりたいと思います。改めまして、この度はお忙しい中お話をいただき、誠にありがとうございました。」

前編では、延暦寺から立石寺に伝えられた3つの遺産に迫ります。

前編はこちら

立石寺
〒999-3301 山形県山形市山寺4456-1

山形県お寺巡りダイジェスト映像(約19分)

山形県お寺巡りの様子(記事)