木造千歳山大佛、修復中の「平泉寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

木造千歳山大佛、修復中の「平泉寺」を訪ねる

 大仏といえば、奈良や鎌倉が有名ですが、かつて山形県にもあったことをご存じでしょうか? しかも江戸時代に制作された大仏の頭部が残されているのが、山形県山形市の平清水地区にある「千歳山平泉寺」です。かつて「千歳山大佛」と呼ばれた巨大な釈迦仏は、江戸時代の寛文12年(1672年)に時の山形城主である奥平昌章公が、山形城下の護りとして、東の方角に造立されました。大きさは、三丈二尺(約9.6メートル)の威風堂々たる姿で、現在の千歳山公園内の敷地に、六角の大仏殿に納められていたそうです。ところが、天保三年(1832年)に火災に遭い、全焼してしまったといいます。
では、なぜ「平泉寺」には、今も「千歳山大佛」の仏頭が残っているのでしょうか。その由来を含め、山の麓にあるお寺を訪ねて、御住職に話を伺いました。

「この『平泉寺』の開創は、天平9年(737年)に行基菩薩により現在地より奥の高い場所にお堂が造られたようです。それから時節を経て、仁寿2年(852年)に慈覚大師が、この地にお堂を下ろして以来、天台宗のお寺として存続しています。この『平泉寺』の名前の由来は、ご本尊の大日如来にお水を差し上げようとして、水をこの地にお求めになり、そこで錫杖で地面を衝いたところ、白い蛇が出てきたそうです。昔から白い動物は吉兆で、ほどなくして、コンコンと水が湧き出したといいます。

これが、現在ご覧になられる池で、今も千歳山山頂からの水が湧き出でおり枯れることはありません。この池から寺号が「平泉寺」となり、この地域が「平泉水(かつては平白水、白と水を組み合わせると泉になる)と呼ばれるようになったとの説が有力です。池の水質自体は、ザリガニの繁殖により、水草が切られてしまったことで濁っている時期も多いようですが、雨が降った直後には池の水が澄みわたり、水辺の水芭蕉も相まって、古の景色に思いを馳せることもできる日もあるといいます。」


この伝説の池を眺めつつ、杉の林を登っていくと、目の前に忽然とご本尊の大日如来が納められた「覚王殿」、通称「大日堂」が現れました。事前の情報では、このお堂の中に、ご本尊の大日如来と千歳山大佛の仏頭も祀られているといわれているので、百聞は一見にしかずと堂内に入ると、その天井からは「大日如来」と書かれた提灯がさがっていて、堂内を二分するように仕切られた格子の結界の先には、お厨子に納められた秘仏の大日如来、両脇に広目天と増長天などのご尊像が祀られていて、その迫力に圧倒されました。

「こちらのご本尊である大日如来は、正式には胎蔵界大日如来で、優しい慈悲の心を表しているご尊格だと言われています。専門家に調べていただくと平安時代後期の10世紀後半の非常に古い仏さまだそうです。こんなに古い胎蔵界の大日様はなかなかいないと思います。京都の「醍醐寺」や「東寺」の大日如来様に並ぶ古例で、本来なら国の文化財に指定されても不思議ではありません。ただ、後に、膝前部分(足を組んでいる部分)が修復されていたことから、国の重要文化財の要件を満たすには至らなかったのですが、山形県の指定文化財となっています。

現在は秘仏としてお厨子の中に祀られていますが、かつては21年に一度の定期的なご開帳をしていたようです。ところが、幕末の嘉永4年(1851年)を最後に、明治の廃仏毀釈の流れを受けて、ご開帳を取りやめたまま今に至っています。
最後に公開したのは昭和56年(1981年)のこと。茅葺だった大日堂を銅板に葺き替えた際でした。これが嘉永以来130年ぶりのご開帳になったそうです。先代の住職も一度も開帳しないまま亡くなりました。私もこのままいけばご開帳しないまま終わるかと思います。
 実は、毎年4月28日の大日堂のお祭りの前日に、お厨子の扉を開けています。そして仏さまの状態を確認し、お祭り当日は、火が飛ばないよう金襴の戸帳をかけて扉を開けて護摩を焚きます。」
「ここは古いお寺なので、色々な仏像が祀られています。ご本尊の両脇にいらっしゃいます平安時代の広目天と増長天は、本来四天王だったと寺伝には書かれています。寺伝には『あとの二天はボロボロになって大日さまの宮殿の下に納まっている』とあったので、宮殿下をあらためてみますと、たくさんの仏さまの断片がありました。組むと60センチほどになる如来さまの断片も複数ありました。

そうした中に、かつて、仁王像として、安置されていたであろう木彫りの仏さまの頭部を見つけたので、今は外陣にお祀りしています。おそらく江戸時代以前に作られたと推察され、お堂の左手にある吽形の仁王像の一代前の、右手の阿形の仁王像と対になっていた仁王像の頭部ではないかと思われます。かつては仁王像がいた仁王門があったかもしれませんね。せっかくの珍しい機会ですから、ぜひ手に取ってみてください」

 実際に、文化財に触れる機会のない学生たちはおそるおそる仁王の頭部を持ってみる。「意外に軽い」。そんな声も聞こえてきた。今も残される仏像だけでなく、このように、長年の経年劣化や何らかの事情で、人目にあまり触れることのない仏像もまた、多くの先人の信仰を集めて、現在にまでつながっていると考えると、平安時代の仏像が1000年以上も維持・保存されていることが、実に奇跡的なことだと改めて気づかされます。
「内陣の両側にはお不動さんとお地蔵さんがおられますが、いずれも江戸時代のものだと推測されます。このお地蔵さんは古伝に元和元年(1615年)の3月24日に、山形の城下にある地蔵堂から飛んできたと逸話があります。この日参道の杉の枝に一尺ほどのかわいらしいお地蔵さんが引っかかっていたそうです。元の場所に戻して、台座の上にぐるぐる巻きにしたところ、またどこかに飛んで行ってしまいました。探していると、案の定平泉寺境内に鎮座していたといいます。そこで、こちらでお祀りすることになりました。その逸話に基づいて『飛地蔵』と呼ばれ、それ以来秘仏となっており、今ご覧いただいているのはその御前仏なのです。」


「こちらの大仏さまは、江戸時代の寛文年間(1661年から1673年)に建立され、天保3年(1832年)火災で焼失してしまった大仏さまの頭部を再現したものです。はじめの大仏さまのモデルとなったのは、豊臣家が建立し徳川家が修復した京都の方広寺の大仏さまです。将軍様が京都の東山に大仏さまを建立したのを目の当たりにした徳川譜代の大名の奥平家が、それに倣って領地山形の東の山裾に建てられたのです。

しかし160年ほど後の天保3年(1832年)火災で大仏殿もろとも炎上してしまいます。これはいかんと当時の平泉寺住職が再建を志しますが、5年後の天保8年(1837年)に今度は平泉寺が火災に遭います。当時は不審火等火災が多く、自分のお寺まで燃えてしまったことで自前の再建が不可能になってしまいました。しかしあきらめることなく、今度は再建のため浄財を募ってまわったそうです。千歳山の大仏さまはお釈迦さまでしたので、天台宗だけでなく山形中のあらゆる宗派のお寺さんから協力を取り付けます。弘化3年(1846年)から嘉永2年(1849年)にかけてその記録が『大佛勧化帳』として今も3冊残っています。ただ果たしてそのとおりにお金が集まったのか、今は定かではありません。幕末の世情不安に飢饉が重なり、結局、仏像の頭部を作った時点で再建は頓挫してしまいます。

今に残るその佛頭が童顔なお顔立ちなのは、当時の仏師さんが、頭部だけでなく本気で御丈一丈六尺(約4.8メートル)、台座から光背までが三丈二尺(約9.6メートル)の元通りの巨大な大仏さまをこしらえるつもりで取り掛かり、参拝者が下から見上げた際に、バランスがちょうどいいように作ったためではないかと言われています。ここにお祀りされているのは、いわば再建途中の未完成の大仏さまなのです。
 この大仏さまは頭に鉢巻きを巻いていますね。これは2011年の東日本大震災のころから傾き始めたのがここ1~2年ほど、ひどくなってきたので応急処置として、鉢巻きを巻いて傾きを抑えています。年々、傾きが激しくなり隙間が空いてきているので、2021年の8月から10月末にかけて、自立できるように修理することを決めました。お金に余裕のない寺ですからクラウドファンディングなどで寄付を募るのもいいかな、とも思いましたが、このタイミングで新型コロナが流行したため、世の中が厳しい時にこんなお願いを皆様にするのもどうかと考え、まずは修理の様子を三密を避けながら公開し、来られた方にご納得いただいてご寄進をお願いすることにしました。
少しでも広く浄財を募ることができればと思いますので、ぜひご協力のお声がけもお願いいたします。」
 大日堂の下、境内手前の客殿には、平安後期のお釈迦様が中央に祀られ、向かって右には、天台大師像が、左側には伝教大師像が安置され、中興の祖である慈覚大師からの連綿とした信仰のつながりを感じずにはいられません。御住職はこうもいいます。

「現在このお寺は、円仁さんによってスタートしていますが、今回改めて伝教大師とこのお寺の直接のつながりを探してみました。」
内陣の伝教大師像の前に祀られている小さな伝教大師最澄像を手にとって話を続けた。
「このお像の台座の裏には先々代の住職がこんなことを書いていました。」

   『俊田(大僧正) 宗議員として感ずる処あり 宗祖大師生誕千二百年を記念し
       宗祖の御像を檀信徒に広く讃仰せしむ可く 宗議会に請願 採択となり 一宗   
として製作された記念の御像である 作者は名古屋の名工の由である
                           昭和四十一年 俊田六十三歳』

「このお寺のお檀家さんの家にお盆でお伺いしますが、古いお檀家さんの御仏壇にはこの小さな最澄像が鎮座していますので、お檀家さんには割と身近な存在なのかと思います。
 また、山門を入った所にある釣鐘、あれはちょうど50年前の昭和46年(1971年)に『伝教大師1150年御忌』で落成したと書いてあります。天台宗は歴史の長い宗派なので、こうした儀式や行事などの機会も多い。その都度、何かを祈念することで最澄さんの教えがちゃんと続いていることを確認し、伝教大師の教えに想いを致すいい機会が御遠忌なんだと思います。

 仏像もしかりです。先代の住職の遺言は「火に気をつけなさい」ですから。平安時代の仏様が今に伝わっているのは簡単ではないと思うのです。秘仏にして、まわりの関心を21年に1度集めておいて、それまで何とか修理をして持たせ続ける、こうして残そうとした人がいて、修理をする人がいて、協力した方々がいる。そういう仏さんの後ろにある色々な人たちの思いを眺めるようにしてもらえればうれしいです。」
大佛頭部の修理の様子は、修理を手掛ける「東北古典彫刻修復研究所」https://twitter.com/tohkokenでも逐次、公開されています。長い年月をかけて、信仰を集めた仏像が維持されている裏側には、多くの人たちの思いが込められていることを感じました。

参加大学生の感想

●千歳山平泉寺を訪問して印象に残ったのは、大仏の頭部の木像である。大きさは丁度、私の身長(1.8m)ほどで大仏を間近で見たことがなかった私は、非常に大きな衝撃を受けた。過去の火災で大仏の全身が消失してしまったため、再興が計画されるものの経済的な影響で頭部のみが製作されたようだ。大仏の全身の復元とはならなかったが、檀信徒の方々の力添えによって現在の大仏の頭部がある。
 大仏の復元には莫大な浄財が必要になるが、それを為そうとした当時の檀信徒の方々には、何としても大仏を復元したいという想いがあったのだろう。その想いは、仏様の教えによって心が安らかになり、その教えが心のより所となっていたから出てくるのだと思う。お寺を護り続けてきた檀信徒の方々には心のより所となる仏様の教えがあったのだろう。

 平泉寺は「悪疫退散 厄災収束 人類和合 世界平和」を掲げている。コロナ禍を意識してのものであるが、祈りを通して仏様と繋がり、すべての人が心安らかな生活を送ることができるようにとの願いが込められているように思った。新型コロナなどで混沌としている世の中ではあるが、仏様との繋がりによって心のより所があった先人たちに学び、私たちも仏様との繋がりを取り戻していくことが大切だと感じた。

●今回の訪問を通して、ご住職の「仏さまや宝物類をただ貴重な文化財として見るのではなく、仏さまや宝物類からそれらを未来に守り伝えようとしたたくさんの方々の願いや想いを感じて頂きたい」という言葉が強く印象に残っています。現在の私たちが何百年も前に作られたお像や書物を実際に見ることができるのは、それらを未来へ受け継ごうとされた方々がたくさんいたからだと思います。今後もたくさんのお寺を訪問しますが、名もなきたくさんの方々がどのような想いや願いを託されたのか、そのときに感じ取っていきたいです。
平泉寺
〒940-2401 山形県山形市平清水番外1

山形県お寺巡りダイジェスト映像(約19分)

山形県お寺巡りの様子(記事)