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特集

第3回 オンライン大学コラボフォーラム(後編)

「オンライン大学コラボフォーラム」後編では、日本人の死生観を通じて、日本の文化や宗教心について、改めて理解を深める時間となりました。「死を思うことで生を大切にする」という杜多総長の言葉に、学生たちはどのような思いを抱いたのか。興味深い議論はまだまだ続きます。

日本人の死生観

児玉 このフォーラムでは、ひとつの仮定ではありますが、「文化というのはその人自身のライフヒストリーや規範や思考である」つまり個人のライフスタイルにも帰結すると考えました。

杜多総長が最初にお坊さんになろうと思ったきっかけと、その後どういう思いでずっと仕事を続けられてこられたのか、次の世代のお坊さんや若い人達に受け継いでもらいたい思いについてお伺いいたします。

杜多 私は伝教大師みたいに立派な決意、決心は持ち合わせていませんでした。僕たちが大学を出た頃、お坊さんという「なまぐさ坊主」とか「葬式坊主」と言われていました。そういうのが嫌で、私はお坊さんになりたくて一旦就職しました。ですがその後家の事情もあり仕事を辞めてお寺に入ることになりました。

住職になってから、いろいろ周りを見ていく中で、「こういうお坊さんになりたいな」「こういうお坊さんだけにはなりたくな」とか、いろいろな気持ちが出てまいりました。できれば、立派なお坊さんと人から見ていただきたいなっていう気持ちも出てきました。

自分でも「こんなことしちゃいけない」「あんなことしちゃいけない」と、少しずつ自分の生き方を考えるようになったのでしょうね。とにかく最初の時は「あなたの仕事はなんですか」「僧侶です」っていうのはなんとなく恥ずかしくて言えなかったのが正直なところでした。

児玉 そうなんですね。正直、そういうお答えが返ってくると思っていなかったんですが、今おっしゃった中で、ご自身の考え方が変えられたということでしたが、どのようなきっかけで変わったと感じられたのでしょうか? それともある程度経験を重ねていくとちょっとずつ変化していったのでしょうか?

杜多 「葬式仏教」なんて言われて、仏教が非常に揶揄された時代がありましたが、今私は「仏教は葬式仏教でいい」って思うようになりました。なぜかというと、人間は生まれてくれば必ず死を迎えることを避けられない。死というものを真っ正面から受け止めなければいけない。平成22年(2010年)に東大の中川恵一先生が「死を忘れた日本人」という本を書きました。その中で「今の時代は2人に1人ががんに罹って3人に1人はがんで亡くなる時代なのになぜ日本人は死と真っ正面から向き合おうとしないんだろうか 」っていうようなことを書いていました。現代は病院で亡くなる方が8割ぐらいという時代ですね。昔は家で家族に看取られて旅立っていくというのがごく当たり前だったんですが今はそういう時代ではありません。ですから日々の生活の中で死というものを実感する機会がだんだん少なくなってしまっています。それでは充実した人生を送る一つの糧になるのか?むしろ死を考えることが人生の糧になるのではないか?そんなことを思うようになって、この頃は自信を持ってお葬式に臨めるようになりました。

2013年に「お見送りの作法」という映画がありまして、これは孤独死を正面から扱った作品ですけれども非常に評判になりました。長寿社会を迎えて、死を通して生きることの大切さとか。人生のまあ素晴らしさというものを実感するという死生観がだんだんと根付いてきた。お葬式の場でも皆さんにそういうことを伝えていきたいですね。

長崎 日本の歴史の中では、「潔く生きる」「潔く死ぬ」という生き様をすごく考え抜いて武士道が生まれた経緯があります。日本ではすごく「死生観 」が、高いレベルで発達していた時代というものが僕自身あったと思う一方、現在では死というものに目を背ける人が増えてしまっているのはなぜなんでしょうか?

杜多 ひとつには長寿社会ということもあります。医療が発達している背景には、お医者さも患者をなんとかして生き延びさせよう。病院で死なせるのはお医者さんも恥っていう考えや負けだってそんな意識があって、無理にでも生かしてしまうということもあるのかもしれません。昔は戦乱がありましたから武士は絶えず死を直視していた。自然と覚悟がありましたから葉隠(江戸時代中期の武士道書)では「武士道は死ぬことと見つけたり」という言葉すら出てくる。死というものは逃れられない。いつやってくるか分からない。だから一生懸命生きていこうという気持ちになったのでしょう。長寿社会では人生100年だって稀ではない。死というのは身近な存在ではないって思いたい意識の方が強いのではないんでしょうか。

長崎 「死を見つめる」ということも、残しておきたい日本の文化の中に入ると思われますか?

杜多 東大の宗教学の権威で岸本英夫という先生がいらっしゃいました。その人が書いた「死を見つめる心」という本は1967年当時ベストセラーになりました。岸本先生は左の首筋に黒色腫という悪性の癌ができて、余命3カ月とも6カ月とも言われた。それでもアメリカへ宗教学の講義に行かなきゃいけなかった。最初はおできだからすぐ治るだろうと思って行ったんですが、渡米後に診てもらうと「あなたの余命は6か月です」と言われた。それから大小20回の手術を繰り返しながら死と直面しながら生きてきた。その心境をつづった内容でした。そこで思ったのは死というものを正面から向き合って生きていく。それが人生は充実させるゆえんなのだろうなということでした。

児玉 お坊さんになられた当初よりも、今の方が社会全体の死生観の捉え方が変わってきたとのことですが、こうした変化は、思索や経験の積み重ねから生まれた事なのでしょうか?

杜多 ご高齢の方がなくなるとご家族の皆さんももう高齢だからやむを得ない思われることがあります。ところが、以前に中学に入ったばっかりのお子さんが学校の校門の前でトラックにはねられて亡くなってお葬式に出向いたことがありました。その時非常にちっちゃいお棺の中に入っているそのお子さんを見てほんと涙が止まらなかったですね。やっぱりそういう経験をしてくると、「いつなにが起こるか分からないんだ」という厳粛な気持ちになる。その後も若い人が亡くなる葬祭にも行きますが、ご両親を慰める言葉が見つからない。僧侶なのにどんな言葉をかけてあげたらいいのかわからない。そんな経験も何度かするとやはり死生観って言うのでしょうか、死ともっと真正面から向き合わなきゃいけない。結果的に、少しずつ自分も僧侶という仕事に自信が持てるという、そんな気持ちになってきたのは確かです。

日本人の信仰心

児玉 今日の冒頭にもあったように、次の世代の日本人に受け継いでほしい、あるいは誇りに感じて欲しいという意味において、今の若い人にこれだけは忘れないでほしいという思いはあるでしょうか?

杜多 それでしたら、まず私の答えではなく伝教大師のお話をさせていただきたい。伝教大師はお師匠さんから「心を一乗に帰せ」。要するに一乗仏教という教えを広めなさいというお諭しをいただいて一生涯そのお師匠さんのお諭しを心に秘めて、生涯を送られました。

一乗仏教または大乗仏教といいますけど、その仏教の特徴は 「すべての人は仏性がある」。これは涅槃経で使われた言葉ですが、意味としては「誰でも仏になるだけの素晴らしい資質があるんだ」っていうことなんです。お大師様は「是非これを日本の人たちに伝えたい」って思われた。
私も皆さん方に是非理解していただきたいのは、皆さんが誰にも仏になるだけの素晴らしい資質が備わっているんだから、それを是非自覚していただきたい。それはもう若い人たちにもっと自信を持って、「私もお釈迦さんみたいに悟ることができるんだ、素晴らしい資質があるんだ」ということを実感していただいて、実践面でも果たしてほしい。大乗仏教の教えは利他の精神、伝教大師は「己を忘れて他を利する」と言いました。大乗仏教の菩薩道の生き方を若い人たちにもしていただきたいなと願っています。
皆さんどうですか?宗教なんては今どき古臭いとか、全く興味がないと考えていませんか?

児玉 僕自身は中高、仏教系の学校にいたので、身近ではありませんが自分の人生の中で意識したことはあります。日本の歴史とか文化に興味があって、この活動に参加させていただいた経緯もあります。

杜多 よく皆さん若い人たちは正月が初詣で神社にお参りしたかと思えば、結婚式がキリスト教で、お葬式は仏教でとか、外国の人から見れば節操がないとも見えるかもしれません。日本人には信仰心がないと言いますけど、私は逆に信仰心は皆さん持ってらっしゃるんじゃないかなって思うんですよね。特定の宗教に対して信仰する信心はないのかもしれない。ですが、なにかしら人間を超越した存在に対して 畏敬の念を持つっていうことはあるんじゃないかなって。みなさん方どうですか。若い人たちは?

児玉 僕自身もやっぱり試験や試合のような大事な時に力を発揮できるように、日々の行いに気を払うことがあります。また、いつも誰かに見守られている、逆に言えば見られているから悪いことができないとか、そういう規範的な意識は自然とある気がしています。それが特定の宗教に起因するものかと言われるとそうではない。今まさにおっしゃったように特定の宗教だからという理由ではないかもしれませんが、ある種の信心深さがあったのかなとお話聞いていて思いました。

杜多 そういうお話を聞くと心強いですね(笑)。

長崎 杜多総長が「日本人は宗教心はないかもしれないけど信仰心がある」と言っていましたけど、僕自身はお寺にも神社にも行きます。ただその目的といえば、神社やお寺にお参りに行く時には商売繁盛や良縁に恵まれたいとか、合格祈願だとか自分の欲に任せて、使っているというか頼っている印象があります。それを信仰心というのは恥ずかしい気がします。

杜多 でもそうしたこと自体も信仰心を持っているということなんじゃないかな(笑)。

ここで1時間の制限時間が終了しました。
若者思う文化と杜多総長が考えていらっしゃる文化の共通点や新たな発見を見つけるために色々お話しを伺ってきた中で、参考になるお言葉をたくさん頂きました。その中でも特に印象深いのは「文化は時代時代で変容するが、変化しながらもその芯の部分は不変である。」というお言葉でした。芯が不変であるからこそ日本らしさや日本人らしさが今の時代に繋がっているのだろうと感じました。今回のフォーラムは「文化の姿や文化の形を求めた」ところから、「文化の芯を探す」ことを教えて頂いた1時間でした。