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特集

第3回 オンライン大学コラボフォーラム(前編)

文化とはなにか?

長崎 私はこの大学コラボプロジェクトに参加し、1200年続いている文化っていうのは一体どんなものか、その実態について私自身があまり理解できていないのではと感じております。

文化を受け継ぐことが大切だとよく言われますが、実際「文化とはなんなのか?」っていうとはっきりと答えられません。

そこで私たちが思う文化と杜多総長が考えていらっしゃる文化についてお話をさせていただき、双方の思う文化についての共通点や新たな発見が見つかればと思っております。

 

さて、文化と似た言葉で、「文明」という言葉があります。文明という言葉は西洋文明とか、現代文明とかという言葉で使われるように、産業や技術とか可視化できるものを表現しているのかと思っております。

それに対して「文化」というのは、目に見えないもの、可視化できないもの、すごく精神的なものではないか、つまり「文化」というものは長い歴史の中で日本人が無意識のうちに培ってきた価値観とか規範とかそういったものではないのかなと考えてみました。

杜多総長にとっての「文化」とは、どのようにお考えですか?

杜多 最初からなかなか難しい質問ですね(笑)

少しピントが外れるかも知れませんが、こんな投書を前に見たことがあります。

第一線で働いている青年の文書ですが

 

「自分は外国へ行って外国の人と接しても『日本人として誇れるものがなにもない』と情けない気持ちを持っていました。自分自身だって日本の文化・伝統についてどれだけ知っているかと問われれば、大学を出たものの恥ずかしいほどの知識しかない。だからとても肩身が狭く情けなく思っていました。この想いは自分たちの世代がそう思っているだけではないと思います。誰もが自信が持てるものを誇れるものを欲しいと思っているはずです。『日本ってこういう良いものを共有している国なんですよ』と誇れるもの。日本人ってこういう考え方をする心正しい人たちなんですよといえるもの。そういうジャパニーズ・スピリッツが欲しい」

 

こんな文章がありました。まさしく私は「文化」というのはこういうものなんじゃないかと思っています。自分の国に誇りの持てるもの、そのバックボーンとなるもの、伝教大師の志が1200年続いていると言いますが、その間、時代によっても環境によっても少しずつその伝統は違ってきているかもしれません。けれども多くの人たちに共感を持って受け継がれてきたということは大変な自慢できることではないでしょうか。

若い人たちは日本に、誇りを持っていらっしゃるでしょうか。その辺を皆さんに聞いてみたいです。

長崎 ありがとうございます。ジャパニーズ・スピリットは凄く心に響きました。文化というと、伝統文化っていう言葉と結びつけて使われることが多い。剣道や茶道、能とか本当にたくさんいろいろあります。

僕は人の価値観に影響を与えたものとして宗教というのもまた文化のひとつと思っています。今、話してくださったジャパニーズ・スピリットと照らし合わせて考えたときに、宗教は杜多総長にとっては文化だと思われますか?

杜多 まさしく文化でしょう。その中でも文化の「核」になるものと私は思っております。茶道や華道、仏道もそうですが、「道」ですよね。伝教大師は「道心」と呼びました。道を究める。そんなことを突き詰めていけば、私は宗教こそまさしく文化であってその文化の中の「核」となるものだと思っております 。

長崎 文化は人から人に受け継がれてきたものということであり、宗教もまた人から人へと受け継がれてきた。文化も宗教も人から人へ伝わってきたっていう点では凄く近い存在なんでしょうか?

杜多 確かに人から人に伝えられたという意味では、非常に似ています。ただ文化は非常に普遍的な大きな意味を持つのに対し、宗教というのは、信仰という言葉に置き換えられるように、人がその教義に興味を持っていたり、理解を示しているという前提がある。その部分では、その教義に共鳴している人たちによって伝えられてきたという歴史がある。文化という言葉に比べてフィルターがかかっていると考えられます。

長崎 例えば文化は長い時間をかけて受け継がれてきたものと考える人もいますが、一方で時代の世相とか習慣を反映し、時代ごとに異なるものだというイメージを持っている方もいるかもしれません。果たして、私たちが「これは文化だ」いう場合に、それが文化か否かという判断基準をどこに設定するのか? 杜多総長はどのようにお考えですか?

杜多 それは難しい質問ですね。ひとつ私の考えは 文化というのはやはりその価値観を多くの人に共有してもらえるものであり、独りよがりのものでは文化と言えるのかどうか疑問が残ります。「文化」とは、非常に多くの人たちにその価値観が共有されるもの、「これはいいな」と共感してもらえるものが、おそらく文化の実体でありましょう。ただし、文化によっては歴史の中で立ち消えているものだってあります。一方、新しい文化が生まれてくるということだっていくらでもあります。

先ほどの投書をなぜ引用したかと言えば、今は失われてしまった「江戸のしぐさ」という文化について紹介したかったからです。「江戸のしぐさ」というのをみなさん聞いたことありますか?江戸時代っていうのは非常に封建的な身分制社会でしたが、非常に優れた学問もあったし文化もありました。

中でも江戸中期の江戸は、世界でも冠たる大都市だった。10万都市って言われていました。当時のロンドンの人口が85万人。それをはるかに越える100万人の人たちが江戸に集まっていた。その中で、多くの人たちが文化を理解して、心を通わせて暮らしていくにはどうしたらいいんだろうかと考えて、江戸の庶民が身につけたのが「江戸のしぐさ」だと、私はある本で読みました。「江戸のしぐさ」というのは、100万都市の共有財産でこの江戸の仕草が身についてないで相手にされなかったほどでした。

江戸のしぐさ

杜多 「江戸のしぐさ」とはなにか? まず子どもたちが身につけるべきとされたのが、「傘かしげ」。例えば雨の日に、狭い路地ですれ違う時にお互いに濡れないように傘を傾け合いながらぶつからないようにすれ違った。一昔前の交通機関でも後から乗ってきた人のために、座席に座る人が、こぶしを両側について腰を浮かせて、こぶしひとつ分ずつ詰め合って席を譲ってあげた。

他にも、「うかつ謝り」というのもあります。例えば混んだ電車の中で、他人に足踏まれると踏まれた人は怒りますよね。ところが江戸時代の人たちのマナーはそうじゃない。まず最初に足を踏まれた方が先に謝ります。「私がそんな所にうっかり足を出していたもんで他人の足を踏むという非常に不快な思いをさせてしまいました、申し訳ない」と。

また、道路ですれ違う時に、お互いがぶつからないように肩を引き合ってすれ違う「肩びき」もありました。今の世の中は、混んだ電車の中で傘がぶつかるだけで、命を奪うような大ゲンカになったりするようなことがあります。

ところが、江戸時代の人たちは本当に他人のことを思い合って日々の生活をなごやかに楽しく暮らしていた。それが江戸のしぐさ。私はこれこそ本当に立派な文化だったと感心しましたが、明治維新と戦後の経済成長の時代ですべてそれが忘れられてしまった。

だから、誇るべき文化であっても簡単に時代の状況によって消されてしまうものもあるんだっていうこともいえます。文化というのは、誰もが共感を持って大切に育てていこうという気持ちがなければ消えてしまったりするのでしょうね。

「過剰な自助」の時代

日本の素晴らしさに気づけない今

長崎 非常に興味深いお話ですね。お聞きしていて日本は地域によって独自の文化があり、方言もそのひとつかと思いました。大都市では、様々な文化的な背景を持った人々がひとつの場所に集まったからこそ生まれた思いやりだとか礼儀正しさがあったのかもしれません。その配慮の中からだんだん醸成されたものとして、今にも受け継がれている部分もあるんじゃないかと感じたのですが、杜多総長は現代ではそういったことが失われてしまったと思われますか?

杜多 かつてバブルの時代の教訓として、多くの日本人は物質文明により、心の問題は忘れさられているんじゃないかと痛感しました。今も格差社会や競争社会と言われています。

人を思いやる気持ちっていうのは、まったくなくなったわけではないですが、忘れ去られているのではないか? 特に今の時代は、コロナ感染症の影響で「同調圧力が強まっている」と耳にします。同調圧力は「場を読む空気」ですから、何となく反対しにくい。人の意見にまあなんとなく流されて同調してしまう。こうした同調圧力がエスカレートすれば、差別や偏見につながるというようなことも言われています。

さらに言えば、「過剰な自助」。恐怖と不安からでしょう。お互いに助合う「共助」を妨げて、まず自分のことを助けなくっちゃっていう過剰な自助が、社会の分断が生むという指摘すらあります。今の時代は、どちらかというと雰囲気に流れてしまっているようにも感じます。

児玉 お聞きしていて、いわゆる日本人らしさというのは、例えば海外に行った時などに、日本を比較相対化してイメージしているかもと感じました。礼儀正しさや思いやりなどについて言えば、国際協力の現場では、日本人は現地の人と同じ目線に立って行動するのが他国の人に比べて上手というような話も聞いたことがあります。このように良い意味での穏やかで相手に対してリスペクトした姿勢で人と向き合うということが日本人らしさではないでしょうか。

長崎 先ほどの杜多総長が話された青年の投書の中でも「なかなか日本の素晴らしさというものに気付けない」って指摘があったと思います。グローバル教育とかグローバル社会になって、どんどん世界に人が出ていく中で、他の国の素晴らしい部分に気付けるのも自分が他の国から来ているからであって、一方で足元にある自分たちの国の素晴らしさについて、考える機会は、かえって失われているんじゃないか。児玉さんの話にもあったように、外国に行った時に日本人の礼儀正しさとか他人を思いやる気持ちって、それこそ「江戸の仕しぐさ」ではありませんが、雨が降ったときは傘を傾け合うような精神が見えると思うんです。ただ、杜多総長とのお話と連関させると、海外では日本人と外国人では違う民族だからこそ他人を思いやるっていう気持ちが働くのかもしれません。それが江戸時代の日本においては、例えば鹿児島にいた人と福島にいた人が同じ江戸で会ったときに 、まったく違う文化だからお互いのことを尊重し合うというような気持ちが「江戸のしぐさ」にこめられていたのかもしれません。ところが今の日本人は違う文化を持つ人や他の民族に対しては配慮を持つ気持ちを持っていると思いますが、自分たちの中ではそういう配慮の気持ちっていうものがどんどん欠けている。そこに悲しさを僕は感じました。

杜多 結局、日本人が誇れるものはなんだろうといっても自分たちでは気づきません。グローバル社会では、外国の人から「日本ってこんな素晴らしいものがあるじゃないですか」と言われて初めて気付く。私にも経験があります。若い頃、声明(しょうみょう)という仏教音楽をやっていました。経典に節をつけてお供えするキリスト教の「グレゴリアン・チャント」(グレゴリ聖歌)と並ぶ東西を代表する典礼音楽です。これは宗教音楽ですから、宗教に興味がない人はもう聞いたこともないのかもしれません。ところが、この声明を外国の音楽家、とりわけ現代音楽家が評価してくれました。「お坊さんの声で声明聞いたら素晴らしい」。西洋音楽はベートーベン、モーツァルトで非常に完成された形になってしまって、新たに音楽的な題材や素材を求めると、もっと新しいものに目を向けなければという意識もあったのかもしれません。当時、毎年のように国立劇場で声明公演をやっていました。それを聞きにきた外国の人が「ぜひ海外でもそういうことをやってほしい」と言われて、ニューヨークやワシントンに1か月間行ったこともあります。フィンランドのクフモ室内楽音楽祭や(イタリアの)ベルジアやダボスの音楽祭なんかに出演したこともあります。すると会場が満員になるくらい興味を示してくれました。そして日本に戻ってくると、 日本の人たちが「声明って音楽があるんですね」とか「声明って日本にはこういうのあったんですか」っと外国から指摘されて初めて気付いたようです。そういう経験をして、私たちはもっと自分たちの目で日本ってこんな素晴らしいものがあるんだっていうのを見極めて、日本人として自慢できるようになってもらいたい。それが私の願いです。

児玉 ありがとうございます。私たちの世代は、今はコロナですがこれから海外といろんな形で関わることは増えていくと思うので、そういう時に初めて気づくこともあると思います。そこでいろんなことを積み重ねていければと思います。

杜多 若い人たちには是非日本の良さを見直してもらいたいですね。

「文化とはなにか?」から始まった議論は、文化が持つ普遍性と時代性についての指摘から、日本の伝統文化が培ってきた気づかいや細やかさという「ジャパニーズ・スピリット」の現状を危惧する一幕も。後編では、日本が誇れる文化について、熱い議論が続きます。