湖南三山の古刹「長寿寺」を再び訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

湖南三山の古刹「長寿寺」を再び訪ねる

湖南三山で最も古い歴史を誇る「長寿寺」を訪ねたのは、地蔵曼茶羅の修復プロジェクトが立ち上がった頃でした。2021年11月に無事に修復を終えた地蔵曼荼羅が特別公開されるということで、現在、新たなプロジェクトに取り組まれている藤支良道ご住職に今回もご案内いただきました。


まずは本堂を参拝しました。正面にお祀りされている小さなお像はお釈迦様の誕生仏です。

お釈迦様の誕生をお祝いする「花祭り」と呼ばれる「灌仏会(かんぶつえ)」の時期だったということもあり、誕生直後に「天上天下唯我独尊」と言ったとされるお姿のお釈迦様がいらっしゃいました。ご住職のお招きで小さなお釈迦様に甘茶をかけて参拝を済ませたところで、本堂の正面に掲げられている「地蔵曼荼羅」を拝覧しながら貴重なお話を伺いました。
「こちらの本堂は、二つのお堂を一つにしたような双堂(ならびどう)形式の建築で傑作とされています。この構造は国内では数例しか現存していないとても貴重なお堂です。ただ仏様を拝む側から見れば、建物の境界がすなわち、人間の世界と仏様の世界の結界のようになっているのも特徴といえます。

現在は内陣と外陣を区切る格子の結界自体も中央の部分だけ外しています。というのも、修復された地蔵曼荼羅をお祀りするようになってからは、地蔵曼荼羅をよく見ていただけるようにと外しています。
実は地蔵曼荼羅はクラウドファンディングで寄付を募ったところ120万円ほど集まりました。地蔵曼荼羅の意匠はそもそも日本ではここ長寿寺にしかないデザインです。由来もわかりませんし名前もありません。ですので、文化庁が『地蔵曼荼羅』と名付けました。いうなれば仮称のようなものです。制作されたのは、室町時代の初期だと言われています。修復された際に絹に彩色した曼荼羅を調べたところ、どうやら絹地のキメの細かさから制作された時期が、鎌倉時代にまで遡る可能性があるとも言われています。



場所柄文化財が多いものですから、先日も県教育委員会によりご本尊の調査が進められました。ここのご本尊は秘仏の子安地蔵菩薩。仏像を彫ったのは、半僧半仏師ともいうべき人物によって刻まれた像である可能性が指摘されました。赤外線で見ると袈裟も彫ってあるのではなく墨で描いてあります。耳もどこか武骨で板を張ったようになっていますが、実際は筆で描いてあるそうです。
裏堂にお祀りされている(県指定)聖観音菩薩立像

今年3月の調査に関しては、子安地蔵菩薩よりも脇侍の聖観音像の方が古いのではないかとの調査結果が出ていました。もしかすると本堂でお祀りされる前に、長寿寺に観音堂が存在しご本尊として祀られていた可能性もあるとの指摘です。こうした学術的な調査は今まで行われてこなかったのですが、寺伝などが残っていないこのお寺では次々と驚くような発見が続いています。

これまでは秘仏ということで鑑定の要請を断ってきていました。文化財としての指定も受けていませんので、今後、どのような鑑定結果が出るのか、非常に興味深く経過を見守っています。
一方、この地蔵曼荼羅は修復師さんもおっしゃっていましたが、きちんと技法を学んだ仏師さんによって描かれたのではないかとの指摘がありました。群青や緑青、黄土などの顔料が使われており、つまり願主がいて絵師が描いた極めて本格的な曼荼羅であるということです。ここまできれいに修復されたこと自体も驚きでしたが、調べてみると江戸時代に修復されて色が剥落している箇所は描き足していたようです。
ただ300年ほど前の修復で描き足されたお地蔵様の顔は消えかけていて、600年前に描かれたお地蔵様はそのまま残っているというのは技法の差なのか、かなり高い技術を持った職人によって制作されたことがわかっています。

今回の修復は、職人さんにも急いでいただいて昨年1月に預けて9月には完成していました。もともとの保存状態も良くなかった上に、蔵の中で曼荼羅がポスターのようにクルクルと巻かれていたので、ところどころに折り目がついた状態でありました。そこで修復作業としては、4層になっている絹の裏地を1枚1枚はがして劣化している部分を修復しました。さらには絹地の欠けている部分にはわざわざ電子線を当てて劣化させた絹布のパーツをジグソーパズルのようにはめ込んで成形したそうです。

依頼したのは、大津にある『藤本松雲堂』という工房で一から十まで、一人の職人さんが、それこそ糊を作る工程から手作業でやっていただきました。最近ではすべての工程を一人でこなす職人さんは少なくなっているそうです。
日本でも例のない地蔵曼荼羅は中央に6本の腕のあるお地蔵様が描かれ、その周辺には1万2千体ものお地蔵様が取り囲むという構図は、一度目にするとその圧倒的なデザインセンスに釘付けになる学生も続出しました。藤支ご住職が続けます。
「この曼荼羅のお地蔵様はいわゆる日本画なので、顔料をにかわで溶いて描かれています。中央に描かれている六臂のお地蔵様は仏画としてはここだけです。
仏像としては京都の智恵光院にあるぐらいだそうで、非常に珍しいものです。おそらく六道救済という仏教でいうところのすべての世界の人々を救う仏様ではないかと考えられています。ちなみに、この地蔵曼荼羅を現代の仏師さんが描いたらどうなるか聞いたことがありました。すると返答は『途方に暮れます』と(笑)。つまり年単位の時間を要するので絵のタッチが変わってしまうとおっしゃっていました。それにしても修復に命をかけている職人さんの技の凄さをつくづくと感じました。
続いて向かったのは、室町時代に造られたとみられる重要文化財の弁天堂。周囲には同時代に作られた池もあり、昨年にはテレビ番組で池の水を抜いたところ、複数の屋根互が発見されたと言います。
「そもそも弁天堂が建てられた年代が分かったのも昭和30年に行われた修理の際に池の中から偶然でてきた巴紋の入った軒丸瓦がきっかけでした。その瓦には、文明6年(1474年)と刻まれていて、この弁天堂が室町時代の造営だとわかりました。もともとこの池の周辺には石垣があったようで、もしかしたら石垣が崩れないように、土留めに互を使っていたのではないかという意見もありましたがまだ詳細は分かっていません。

この池の中に限らず、本堂の周辺でも屋根瓦が大量に出てきますが、おそらく本堂や池の場所に大きなお堂があったのか、あるいはゴミ置き場のようになっていたのかもしれません。それこそ、寺院の整備で地面を掘ると驚くほど巴紋の瓦が出てきます。」

最後に訪れたのは普段入ることできない収蔵庫。
普段、法要などでは用いられない宝物や境内で発見された寺院の遺物などが大切に保存されています。今回は歴史を学ぶ学生も複数参加していたことから、特別に貴重な寺宝を見せていただきました。
「こちらに保管してあるのが檜垣模様の壺です。2020年、放水銃の設置工事の際に発見されたもので、私は『奇跡の壺』と呼んでいます。
もともとは素焼きの信楽焼の壺ですが、千利休の時代になって、『うずくまる花入れ』というお茶の道具としてその価値が認められた逸品です。あるテレビ番組ではこれと似た壺を鑑定したところ、500万円の値段がついていました。そこまではいかないにしてもそれ相応の価値があるのかもしれません。

なぜ私が『奇跡の壺』と呼んでいるかと言いますと、この壺が発見されたのが、大規模な開発工事の最中だったからです。発見者は近所の農家のご主人。境内の工事で出た残土を畑の土にしたいと持ち帰ったところ、この無傷の壺が見つかりました。

考えてみれば、とてもすごいことなんです。この壺が境内の敷地からショベルカーで掘り起こされた時に、スコップにあたるバケットの爪と壺が接触したらひとたまりもありません。ところが、土を掘り返したときに加え、盛り土をショベルカーで押さえつけれ、そこから残土で運ばれるいずれのも時にも壊されず今この収蔵庫にあるということは、よほどのご縁があったに違いないと思っています。
他にもこの境内には、重要文化財になっている白山神社拝殿がありますが、そのお社に掛けられていたのが「三十六歌仙額」です。これも県指定文化財ですが、絵によってはかなり傷みが激しいものもあるので、こちらで保管しています。中には絵の裏側に「蜷川新右衛門 寄進」と書いてあるものもあります。あの一休さんで有名な新右衛門さんですね。


鬼のお面もこの場所の歴史にとっては、非常に大切な寺宝です。現在、奉納面としてこちらに保管されている雄の赤鬼面と雌の青鬼面は、かつて村の長老も被ったことがあったそうです。この地では15歳になると鬼の面を被り、松明を持って本堂の中をかけ巡る『鬼走り』という行事に参加する習わしがあります。いわゆる成人の儀です。

この鬼というのは三毒『貪瞋痴(とんじんち)』を表していて、それぞれ赤色、青色、茶色の鬼として表現されていまする。法要では、僧侶が礼拝をして最終的に鬼を降伏させるという仕立てになっています。降伏した鬼は面を取って、ご本尊のお地蔵様と聖観音様、毘沙門様の真言を口伝して、法要が終わります。つまり立派に一人前になったことを仏様の前で誓うという儀式、いわば通過儀礼です。
この地域では、15歳になると、親に付き添われて様々な村の行事に参加します。その集大成にこの「鬼走り」が位置づけられています。村という共同体にとって、欠くことのできない行事です。かつて封建社会では「村」という単位の中に、長老格の十人衆がいて、さらに八人講がいたりと、それぞれの役割が年功と共に決められていました。今では、すっかり廃れてしまいましたが、それがこの地域では根強く残っています。中世的な雰囲気を今に伝える村のシンボルとも言えるのが「鬼走り」です。「鬼」は地域とお寺をつなぐ大切な存在です。

他の地域では明治の廃仏毀釈で、寺院が壊されたりして、お寺と住民が対立したというケースがかなりあるようですが、この村に関して言えば、お寺と地域社会が混然一体となっているのが特徴です。

ですから、昨年に国宝を火災から守るために全自動の放水銃の運用を始めました。その際も国からの助成がありましたがそれだけでは多額の費用を賄うことができません。そんなときにも村からは「境内にある白山神社拝殿は地域が担っているお社だから」ということで、費用を支援していただきました。実にありがたいことです。こうした地域との連携がこのお寺にとっての宝であり、今後も大事にしていかなければいけないなと日々強く感じています。」
収蔵庫の寺宝は年1回の虫干しの時期に、40点ほどが本堂の外陣にずらりと展示されるとか。なかなか間近で目にする機会のない寺宝の数々とわかりやすく丁寧にお答えいただいた藤支ご住職のご対応にきっとお寺をより身近に感じられたことでしょう。

学生の感想

今回の訪問を通し、長寿寺は地域と非常に密着した寺院だと感じました。長寿寺では、毎年1月中旬に、「鬼走り」が行われています。13~15歳の男子が、鬼に扮して堂内を走り回り、役割を果たすと地域内で一人前として認められます。藤支ご住職によると、少子化で中止を検討されたこともあったそうですが、地域の方々たっての希望で、経験者等も参加することにより、「鬼走り」は継続することとなったそうです。このように、「鬼走り」は地域の重要行事として位置付けられており、長寿寺は地域にとって象徴的な存在となっています。

今回、修復から戻ってきた室町時代の「地蔵曼荼羅」を拝見しました。腕が6本あるお地蔵様とその周りに1万2000体の小さなお地蔵様の姿が緻密に描かれており、その姿はまさに圧巻でした。1万2000体の小さなお地蔵様ですが、その姿には所々違いが見受けられました。
長寿寺境内に、白山神社があることも大変興味深く感じました。白山神社の創建年代はわからないそうですが、文献によると鎌倉時代には社殿があったと考えられています。鎌倉時代、白山勢力は延暦寺の影響下にあり、全国各地の天台宗寺院に白山社が勧請されました。このことを踏まえると、長寿寺に白山神社が鎮守社として建てられたのも、その関係によるものではないかと感じました。
湖南三山 長寿寺
〒520-3111 滋賀県湖南市東寺5-1-11