戦後日本画壇の風雲児『横山操』の回顧展(佐川美術館)を訪問する
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特集「一隅を照らす」

戦後日本画壇の風雲児『横山操』の回顧展(佐川美術館)を訪問する

【2025年6月15日訪問】
従来の日本画と一線を画す、独創的な大胆さと力強さで戦後の日本画壇を駆け抜けた一人の画家がいます。その名は横山操(よこやまみさお、1920~1973)。現在、滋賀県では初となる回顧展が守山市の佐川美術館で開催されています。今回学生たちが横山操展を訪れ、横山操の短くも濃密な画業を辿るとともに、展覧会を監修した横山秀樹氏に横山操が手掛けた作品や展覧会の魅力を伺いました。

新潟から上京し図案会社に就職。その後、日本画家・川端龍子と出会う

横山操は、1920年、現在の新潟県燕市に生まれました。1934年に尋常高等小学校を卒業後、新潟から東京へ上京し、光風会会員の洋画家・石川雅山が率いる石川一壷堂図案社に就職します。石川一壷堂図案社は、今でいうデザイン会社や印刷会社のような事業を主に行っており、就職した操も版画やポスターなどを描いていたといいます。その仕事の傍ら洋画の技法を学び、1938年には作品を光風会展に出品し、操の作品は初入選を果たしました。

その後、洋画を描き続けていましたが、石川雅山のすすめで日本画の道へと進みます。操は昼間に会社の仕事を、夜に川端画学校日本画部の夜間部に通い、仕事と日本画の勉強を両立していました。

第1章「戦前の横山操」(左手前)《全日本産業観光甲府大博覧会》1937年 燕市教育委員会蔵

1940年、その後の操の画業を形作る出会いがありました。操は、隅田川の河岸にあった「佃の渡し」を描いた《渡船場》を青龍展に出品し、見事入選を果たしました。青龍展とは、当時新進気鋭の日本画家であった川端龍子(かわばたりゅうし、1885~1966)が主催する日本画の美術集団・青龍社の展示会。このとき操は、川端龍子本人から声をかけられました。
「これが君と青龍社をつなぐ渡し船になるといいね」
当時、新進気鋭の日本画家として注目を集めていた川端龍子に声をかけられ、たいそう感激したと操は後に語っています。
第1章「戦前の横山操」(右奥)《渡船場》1940年 燕市教育委員会蔵

「横山操の戦前の代表作と紹介される《渡船場》ですが、「焼失作品」として紹介され、2009年まで行方不明の作品でした。」
そのように語るのは、今回の横山操展を監修した横山秀樹氏です。

「今回展示している《渡船場》を含む、操が戦前に描いた初期の作品はすでに失われていると考えられていました。その理由として、後に操が過去の作品の大半を焼却してしまった点が挙げられます。おそらくですが、操は自身の制作意図と異なる不本意な作品を処分したのだと思います。戦前の作品は1点も見出されていなかったので、操の初期作品はこのときに操自身の手によって処分されてしまったのだと考えられていました。しかしながら、操が中国へ出兵する前、描いた作品を新潟の実家に送っていたことが近年判明しました。このときに操が送った絵は操自身によって焼却されることなく保管され、2009年に燕市に一括寄贈していただくことになりました。」

「横山操の初期作品がまとまって発見されたことで、横山操の画業をめぐる研究状況が大きく変化しました。今までは戦後に描かれた作品をもとに研究が進められてきましたが、現在、《渡船場》を含む戦前の初期作品をもとに研究が進められています。このような意味で、戦前に描かれた初期作品は非常に重要な作品群です。」

画家としての歩みを進める操。
しかしながら、社会は戦争へと突き進みました。
川端龍子との出会いから数か月後の1940年12月、操は招集され中国へと出兵しました。

中国への出兵とカラガンダでの抑留

出兵した操は中国各地を転戦しました。その年月、約5年間。

1945年に終戦を迎えますが、さらに苦難は続きます。
操はソ連軍の捕虜となり、約5年間、現在のカザフスタンのカラガンダに抑留され、炭鉱夫として石炭の採掘に従事していました。操は周囲に画家であることをあまり言わなかったそうですが、日々の採掘の合間に絵筆をとっていたそうです。

操が日本へ戻ってきたのは、出兵から約10年もの月日が流れた1950年のことでした。
操は抑留されたカラガンダでみた風景や光景をもとに、精力的に作品を制作しました。この頃の代表作が、1950年に描いた《カラガンダの印象》と1951年に描いた《カザフスタンの女》です。《カラガンダの印象》は、操が採掘していた炭鉱の風景を描いた作品、《カザフスタンの女》は、カラガンダで目にした水を汲む女性を、後に妻となる基子夫人をモデルに描いた作品です。どちらも青龍展に出品された作品ですが、《カラガンダの印象》は後に操自身の手によって焼却されてしまい、同じ題名の油彩画や写真からその姿を想像するのみとのこと。一方、《カザフスタンの女》は焼却されることなく今に伝えられています。これは、生涯基子夫人を大切にしたという操の気持ちが表れているのかもしれません。

第2章「青龍社時代の横山操」(左手前)《カザフスタンの女》1951年 新潟県立近代美術館・万代島美術館蔵

ネオン広告のデザインを手掛けながら大画面作品を制作する

日本へ戻った操は、画業に励む一方で、ネオン広告を扱う不二ネオン会社に就職し、ネオンの配置デザインを描く仕事をしていました。操は仕事に実直に取り組むことで有名であったそうで、1953年には銀座の森永製菓のネオン広告塔を手掛け、その年の電通賞を受賞しました。その仕事は東京だけにとどまらず、富山市の総曲輪商店街のネオン広告なども手掛けるなど、日本全国を飛び回り、会社に多くの利益をもたらしたそうです。

その功績もあり、1954年には不二ネオン会社社長の好意によって、会社事務所の2階をアトリエとして使えるようになり、大画面の制作を進めました。

今回の回顧展で注目を集める作品の一つ《網》も不二ネオン会社の事務所で描かれたとされる作品の一つ。

第2章「青龍社時代の横山操」(右手前)《網》1956年 福井県立美術館蔵

横幅約9メートルの大画面に、暗い赤色の漁網が画面いっぱいに描かれています。
力強い筆致で描かれている作品の前に立つと、実際に漁村に足を踏み入れたかのような没入感を抱きます。金箔や鮮やかな彩色を用いて漁網を題材に描いた伝統的な作品たちとは異なり、黒や暗い赤色などの黒を主体としている作品であるからこそ、恵みにも脅威ともなる自然と日々向き合う漁師たちの力強い営みや人々の凄みが感じられます。
第2章「青龍社時代の横山操」(右手前)《隧道》1960年 福井県立美術館蔵

「横山操作品の特徴の一つとして、大画面であることが挙げられます。これは、操が師事していた川端龍子の教えでした。川端龍子は、近代的な空間にふさわしい日本画を探求し、大画面の創作を目指した「会場芸術」を主張し青龍社を立ち上げました。青龍社に入塾してから、操はこの川端龍子の教えを学び、めきめきと頭角を現します。青龍社の塾生序列の一番上である「社人」にわずか8年という異例の速さでなり、青龍展出品作品が幾度も受賞、さらには戦後でただ一人、青龍展の最高賞である「青龍賞」を受賞しました。」(横山氏)

「順風満帆に見える操の画業ですが、青龍社の他の社人との確執により、自分の描きたいような作品が作れていなかったといいます。そのことが表面化したのが、1962年の第34回青龍展でした。操は、激しく噴煙を上げる十勝岳を題材とした大画面作品《十勝岳》を出品しようとしました。しかしながら、他の社人から「師である川端龍子より大きな作品はよくない」という理由で縮小を求められました。操はこの求めを受け入れず、そのまま青龍社を脱退しました。」

新たな境地への出発

青龍社を脱退した操。操は師である川端龍子に義理立てをして他の団体へは所属せず、無所属の道を選びました。無所属の画家となってすぐの操には、以前の青龍展のような大画面の作品を発表する場はありません。
操は新たな境地へと歩みを進めます。

第3章「無所属時代の横山操」《瀟湘八景》1963年 三重県立美術館蔵

操の新な境地の一つを示す作品が今回の展覧会にも出品されている《瀟湘八景》(しょうしょうはっけい)。瀟湘八景とは、中国の湖南省、洞庭湖(どうていこ)周辺の風光明媚な8つの景観の総称で、古来より山水図の画題として多くの画家が描いてきました。中国への出兵で実際に洞庭湖周辺を転戦した操は、出兵時に実際に目にした中国の景観に基づいて、様々な斬新な技法で8つの美しい景観を表現しました。

《瀟湘八景》を構成する8つの景観の一つ、《山市晴嵐》(さんしせいらん)は、晴れた日に山中の集落に霞が漂う景観を描いています。操は、墨に濃い膠(にかわ)を混ぜることで光沢の強い墨色を表現し、霞の内に太陽の光が差し込む景観を表しました。

ほかの7つの景観では、墨の上をペインティングナイフでひっかいたり、裏打ち紙の継ぎ目をあえて表側に透かしたり。操が描いた《瀟湘八景》からは、東アジアの数多の画家たちが描いてきた伝統的な画題に正面から挑戦する操の気迫が伝わってきます。
第3章「無所属時代の横山操」(中央)《赤富士》1963年頃 雪梁舎美術館蔵

操が歩みを進めた新しい境地は水墨画だけではありません。操は今までほとんど描くことのなかった富士を描き始めました。操が描く富士は太陽の光に照らされ山肌を赤くする《赤富士》。神々しい姿の赤富士は、当時の高度経済成長期の世相と合い、瞬く間に人々を魅了しました。当時の人気はすさまじいもので、操は後に2000点以上《赤富士》を描いたと語り、あまりの人気から、操の《赤富士》を会社の南側に飾ると会社が発展するという噂も飛び交うほどでした。
第3章「無所属時代の横山操」(左から)《ふるさと》1965年 東京国立近代美術館蔵 /《彌彦山》 1967年 新潟日報社蔵

さらに、操は自分自身が生まれたふるさと・新潟の風景も描きました。
1965年に描いた《ふるさと》は、茜色に染まる夕空が、さらさらと流れる小川と草原を照らす風景を描いた作品です。大胆で豪快な筆致が特徴的な作品とはうってかわり、繊細な筆致で描くふるさとの風景からは、操が幼少期に過ごしたふるさとへの想いが溢れているようです。
日本画と向き合い続け、新たな境地を次々と開拓し続けた操。
1971年、歩みを進める操を病魔が襲います。
脳卒中で倒れた操は後遺症により右半身の自由を奪われてしまいました。
しかしながら、操は強靭な精神力と執念でリハビリを重ね、動かない右手の代わりに左手での制作を開始しました。

左手で描いたのは、ふるさと・新潟の風景や操の身近な光景。
穏やかで繊細な筆致で描かれたこれらの作品に操はどのような気持ちをこめたのでしょう。
1973年、展覧会の最後に展示されている《絶筆》の制作中に再び脳卒中で倒れ、53年の短くも濃密な生涯を閉じました。

第3章「無所属時代の横山操」(右手前)《絶筆》1973年 東京国立近代美術館蔵

時代を超えて伝えられていく横山操の作品たち

第2章「青龍社時代の横山操」(左手前)《武蔵野》1961年頃 雪梁舎美術館蔵

「今回の展覧会を見て、皆さんは横山操の作品をどのように感じたでしょうか。約50~70年前に描かれた“古い”作品とは思えなかったのではないでしょうか。」
展覧会を監修した横山氏が学生たちに語りかけます。

「作品が時代時代を乗り越えていく際、作品を見る人が“古さ”を感じないということが大事であると私は考えています。“古さ”を感じない作品というのは、どんなに時代が変化しても、人々の心を変わらず動かし続けます。その感動こそが作品を次の世代へ伝える原動力となり、これから50年後、100年後と作品が残っていくのです。ほかの名画と同様に、私は、横山操の作品も時代を超えて伝えられていく作品であると確信しています。今回のような展覧会の監修というお仕事を通して、操の作品を未来へ伝えていくお手伝いができることは、非常に嬉しい気持ちであるとともにありがたいことだと思っています。」

かつて横山操は語りました。
「藝術は崇高なものではなくて いま生きている実体のようなもので 生きている証拠のようなものです。」(「座談会・日本画の問題点をめぐって」『みづゑ』653 1959年)
生きている“今”を探求した横山操。これこそが、時代や世代を超えて人々が操の作品に親しみを感じ、操の作品が人々の心を動かす理由なのだと思いました。

今回の滋賀県初となる横山操の回顧展は、横山操の短くも濃密な画業をたどることのできる貴重な展覧会です。WEB事前予約制で会期は7月6日(日)まで。ぜひ、佐川美術館で開催されている「戦後画壇の風雲児 日本画家 横山操展」を訪れてみてください。
佐川美術館「戦後画壇の風雲児 日本画家 横山操展」
滋賀県守山市水保町北川2891
TEL:077-585-7800
2025年5月15日~2025年7月6日