江戸の町とともに創建400年の節目を迎えた名刹「寛永寺」を再び訪ねる
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いろり端

特集「一隅を照らす」

江戸の町とともに創建400年の節目を迎えた名刹「寛永寺」を再び訪ねる

【2025年6月13日訪問】
2025年に寛永寺は創建400年を迎えます。
寛永寺では様々な記念事業が実施される予定です。
詳しくは、以下のURLからご確認ください。

https://kaneiji.jp/400thanniversary/

東京都上野に伽藍を構える寛永寺は、2025年に創建400年を迎えます。江戸城の鬼門に築かれた寛永寺は、鎮護国家の思想のもと、徳川家や江戸の人々に愛され、400年という歴史を紡いできました。そのような寛永寺の歴史とともに、400年という節目に行われる行事や地域との関わりについて寛永寺で執事を務めている宮部亮侑師にご案内いただきました。
 
「宮部と申します。本日はよろしくお願いいたします。」

創建400年という節目の年を迎えて

「寛永寺は今年で、創建されて400年の節目の年になります。天台宗の1200年という歴史の中では、寛永寺の400年は3分の1ほどでありますが、伝教大師の教えを体現しているお寺であると私は考えています。」

「伝教大師のお言葉に「わが志を述べよ」というものがありますね。伝教大師は仏教の力で国家が安泰となり、人々が平らかに生活できることを願ったのです。この伝教大師が抱いていた鎮護国家の考え方を踏まえて寛永寺を形作ったのが、徳川家康公や秀忠公、家光公のブレーンとしても活躍された天海大僧正です。京都の御所の鬼門の方向にある比叡山と同様に、江戸城の鬼門の方角に寛永寺を整備したことは、仏教で江戸を守るという鎮護国家の思想が表れていますね。この400年という節目の根底には、伝教大師や天海大僧正の理念を今一度再確認して顕彰していく必要があると私は思います。」

「この400年という節目にあたり、寛永寺の僧侶として江戸の町を守っているということをあらためて再認識しました。例えば、節分の際に豆まきを行いますが、寛永寺では、「鬼は外」とは言わず「福は内」とだけ言います。これは、寛永寺から鬼を追い出してしまうと江戸の町に行ってしまい人々に悪い影響を及ぼしてしまうからです。こうした日々の生活の中にも江戸の町を自分たちが守るという自負が寛永寺の僧侶たちの中で受け継がれ育まれてきたことが大事なことなのだと考えています。」

「その一方で、寛永寺の文化財が多く失われてしまっていることに気づかされました。寛永寺の伽藍は戊辰戦争や太平洋戦争によって多くが焼けてしまっていることが理由ですが、そうした文化財や史料が失われてしまっているということは大きな損失であると再認識させられました。ただ幸いなことに寛永寺の歴史について、ご縁のある寺院などほかの場所で残っているものもあり、それらを紡ぎ合わせて再現することができているのかと思います。」

「そして400年の節目ということで、寛永寺や寛永寺の子院に伝えられている寺宝や史料を、寛永寺の旧境内でもある東京国立博物館で展示をする機会をいただきました。2025年7月8日から8月31日までの開催ですので、ぜひ見学していただき寛永寺の400年の歴史を体感していただけたらと思っております。」
「さらに、400年の節目を彩る事業として、寛永寺の根本中堂の天井に描く天井絵の製作を行っています。天井絵は手塚雄二画伯による縦6メートル、横12メートルの巨大な天井絵で、現在この天井絵を根本中堂に組み込む作業を行っております。」

「この天井絵の構想10年以上、製作で丸5年かかっている大プロジェクトです。まずは寛永寺根本中堂に絵を実際に描けるのかを検証することから始まりました。様々な検証の結果、天井板を地面に下ろして絵を描き、天井に戻すという工程が可能であるということが分かり、たくさんの方々のご協力をいただいて実施しています。」

「この絵を描いていただいた手塚雄二画伯にお聞きすると、建物と調和するように板と墨の時代を合わせて描いたそうです。そして、描く龍の姿を完璧なものとするために、実際に立体模型を作り、龍の姿が物理的に不可能にならないよう角度や長さを調整されたそうです。2025年の9月に完成でして、「画竜点睛」という言葉が表すように、最後に目を描き入れます。」

「ここまで、400年の節目を彩る天井絵や展示についてお話してきましたが、寛永寺として大切なことは次の100年、200年と未来を見据えてお寺を運営していくことであると私たちは考えています。これからもあたりまえに寛永寺というお寺が皆さんの心の拠所となっているように、着実に歴史を紡いでいくことが大切であると、寛永寺の僧侶の一人として思っています。」

多くの人々の安寧を祈る天海大僧正の想い

ここで寛永寺の400年の歴史を宮部師にご案内いただきました。

「皆さんの寛永寺のイメージは、徳川家とかなり強い結びつきがあるお寺であるというものだと思います。確かに、徳川家の御霊廟をお守りしていますし、歴史的にも結びつきが強かったことはもちろんのことなのですが、一般庶民にも開かれたお寺でした。」

「徳川家にとっては、寛永寺を徳川家や幕府、国を守る『鎮護国家』のお寺としたいと考えていたようですが、寛永寺を創建した天海大僧正は、「徳川家のためだけのお寺ではなく、寛永寺を開かれたお寺にしたい」と考えたそうです。この考えを示しているのが、寛永寺境内、つまり今の上野公園に点在する「見立て」の景色です。」
『月の松』から弁天堂をのぞむ

「天海大僧正は京都・滋賀の様々な名所旧跡を上野の山に再現して、たくさんの人々が訪れることができるように整備しました。例えば、寛永寺の中心となるお堂である「根本中堂」は比叡山延暦寺の根本中堂を見立てており、ご本尊さまも延暦寺根本中堂と同じく薬師如来さまです。さらに上野公園内にある「清水観音堂」は京都の清水寺、「不忍池」と「弁天堂」は琵琶湖と琵琶湖に浮かぶ竹生島の弁天さま、現在は顔面のみの「上野大仏」は京都の方広寺の大仏さまです。また、現存はしておりませんが、京都の八坂神社を見立てた「祇園社」もかつて存在していました。」

「今までお話した「見立て」はお寺の境内、つまりハードの部分ですが、ソフトの部分も「見立て」が施されました。例えば、「寛永寺」という名前です。寛永年間に創建されたため寛永寺という寺号となりましたが、これは、「延暦」という元号に基づいた寺号を持つ延暦寺を見立てたものです。ですから、創建が別の元号の頃だったら別の寺号になっていたはずなのです。」
「江戸時代は電車も飛行機もありませんから、江戸に住む人が京都に行くことは困難を伴いました。こうしたなか、様々な「見立て」を施された寛永寺が身近に存在するのですから、江戸の人はそれならば行ってみようと思ったようで、実際にたくさんの人々が集うようになります。しかしながら、これは徳川家が望んだお寺の姿ではなく、天海大僧正が独断で行ったことだったのです。そのため、天海大僧正の考えに幕府として積極的に援助はできないということになってしまったようです。こうして寛永寺の中心となる根本中堂が完成したのは、1698年のこと。創建当時に最初に整備された住職の住まいである本坊が完成してから約70年後のことでした。」
清水観音堂 内陣

「寛永寺が創建されてから数十年間、幕府と寛永寺は“冷戦”のような状態であったと聞いています。その期間の幕府と寛永寺の関係を今に伝えている建物が国の重要文化財に指定されている清水観音堂です。」

「今から約30年前に清水観音堂の解体修理を実施しました。その際、表側から見えない屋根の梁の部分の部材を調べたところ、なんと一般的に造作材として使われるマツが使用されていました。通常であれば、たとえ表側から見えない場所であってもあまり強度のないマツの材を用いることはありません。それではなぜマツの材が使われていたのか考えてみると、先ほどのお話しした天海大僧正の独断があったために良質な材を使う十分な建築費を幕府から集められず、その資金不足を補うために付近に生えていたマツを使用したのではないかと推測しています。」

「清水観音堂は国の重要文化財に指定された一流のお堂です。しかしながら、建築という視点で見てみると、マツだけでなく他にも雑木も部材となっていることから、表から見えない内部に関しては三流と言えるかもしれません。このような興味深い歴史が、解体修理を行うことによって明らかになりました。」
「幕府と寛永寺の関係が改まっていったのが徳川綱吉公の時代です。先ほどお話した根本中堂が落慶したのもその時代でした。」

鎮護国家の道場という側面と一般庶民に開かれたお寺であるという側面が両立する寛永寺では、様々な文化が育まれてきました。
例えば、上野公園の花見。毎年東京の春を代表する光景ですが、この光景は寛永寺が創建された江戸時代から見られた光景だそうです。

「寛永寺、今の上野公園の桜も天海大僧正が考えた「見立て」の一つです。関西で有名な桜の名所と言えば、奈良の吉野山ですね。天海大僧正は吉野をイメージして上野の山に桜の木を植えています。」

「今でも上野公園でお花見をする文化は大いに有名ですが、この場所でのお花見は江戸時代から行われていたことでした。寛永寺境内でのお花見は大いに賑わったようですが、中には羽目を外しすぎたために幕府から怒られるということもあったそうです。こうして、徳川吉宗公の時代には質素倹約のために寛永寺境内でのお花見は禁止となります。寛永寺は夜6時に閉門したのですが、庶民たちは不満に思っていたらしく、「千金の 時分追い出す 花の門」という狂歌が残されています。このような歴史を踏まえると、上野公園のお花見は、江戸時代からの文化を受け継いでいるとも言えると思います。」

「もう一つの側面である鎮護国家の道場という点ですが、僧侶たちが修行に励む場所として使用されていたのが、この地図に記載のある「学寮」という場所になります。」

「かつて、不忍池の近く『勧学講院』という今の開架式の図書館が黄檗宗の僧侶である了翁禅師によって設置されていました。この勧学講院には、徳川家光公がスポンサーとなり天海大僧正が出版した所謂「天海版」と言われる経典などたくさんの書物がおさめられていたそうです。天台の教えは各宗派の基礎となる教えであるため、こちらの勧学講院には宗派関係なく、様々な僧侶が全国から修学のために集ったといいます。その僧侶たちが寝泊まりし修学する場所として寮が作られました。その寮が後にこの地図の場所に移転し、引き続き僧侶が修学する場所として機能していたといいます。ちなみに、この勧学講院の学びの伝統は、現在の文京区にある駒込学園に受け継がれています。」
徳川慶喜公が謹慎した『葵の間』

「このように一般庶民が訪れる場所という側面と僧侶が修行する場所という側面が両立していたという点が、寛永寺の姿の興味深い点であると考えています。当時の記録や絵などを見てみますと、根本中堂のあたりまでは庶民が自由に入りお参りすることができたそうです。一方で、先ほどの学寮周辺や寛永寺の住職でもあった輪王寺宮がいらっしゃる本坊、徳川家の御霊廟などは庶民の立ち入りができず、聖と俗とが明確に分けられていました。」

「こうした寛永寺が持つ独特な環境が利用されたのが、徳川慶喜公の謹慎です。」

幕府軍と新政府軍により勃発した「鳥羽・伏見の戦い」の後、朝敵として扱われていた徳川慶喜公は寛永寺の大慈院という子院にある「葵の間」で謹慎されました。その期間は約2カ月間。慶喜公はどんな時でも正装をして正座で静かに過ごしていたと聞いています。」

「それでは、なぜ慶喜公が寛永寺の大慈院で謹慎されたのかということを考えてみましょう。実は、大慈院の建つ場所が大きな意味を持ちます。大慈院は、先ほどお話した学寮のすぐ近くにありました。こちらの地図をみると分かりますね。」

「この学寮のある一帯は一般庶民が入ることのできない聖の場所でした。さらに、学寮では100人以上の僧侶たちが寝泊まりし、また勉学に励んでいたわけですから、必ず誰かの目があります。そうすると、慶喜公の命を狙う暗殺者のような俗の存在があったとしても目立ってしまいますから、大慈院こそが安全性の高い場所として慶喜公の謹慎される場所に選ばれたのだと考えられています。」

一般庶民にも親しまれ続けてきた寛永寺。
その伝統は今も続いています。

寛永寺と地域との繋がり

「寛永寺は地域との繋がりも重視しています。毎年の恒例行事として、6月頃に地元の小学生が寛永寺を訪れ、日光に赴く修学旅行の事前学習として徳川家や日光の歴史を学んでもらっています。その時に大切にしているのが、単に歴史的事実や人物名を淡々とお話しするのではなくて、どのような理由でその歴史が形作られたのかといった「なぜ?」という視点です。」

「例えば、よく徳川家康公をまつる日光東照宮は北極星を背にして南をむいていると説明されます。その理由はあまり説明されないのですが、ここに「なぜ?」という視点を置くと、中国の書物に記載されている「天子南面す」という記載に行き当たります。つまり、世界を司る天子は南に向いて座るのです。ですから東照宮を、北極星を背にして南に向くように配置することで、徳川家康公が天子として日本を守り治めるということを表しています。」

「このようなお話を小学生たちにすると、目をキラキラさせながら、いろいろなことに興味を持って質問をしてきます。どうしても歴史の授業では時間の制約がありますから、一つ一つの事象の繋がりや理由まで扱えないことも多いでしょうが、子供たちが寛永寺という場所で歴史に深く触れ、物事を探求するおもしろさを感じる機会となればいいなと考えながら毎年行っています。」

「また、修学旅行の事前学習以外にも地域学習の一環として、地元の小学3年生が寛永寺を訪れます。小学3年生の時点では歴史の勉強はスタートしていないので、様々な切り口でお話しています。例えば、昨今ニュースで報道されている戦争について。戦争というと、太平洋戦争などの歴史的な戦争や中東やウクライナとロシアといった海外の戦争のことを考え、どうしても自分と遠い存在であると思いがちです。しかしながら、上野という身近な場所でも幕末に「上野戦争」という戦争が勃発し、寛永寺の境内であった上野公園もその戦場となりました。これをきっかけに、戦争というものを深く考えてほしいですね。」

「そう言えば最近ですと、インバウンドの方々が寛永寺にもたくさんいらっしゃいます。例えば、以前は御朱印をいただいていく人々はアジアの方々が多かったのですが、最近はたくさんの西洋の方々にも御朱印をお渡ししています。おそらく、ガイドブックなどに掲載されたのだろうと予想していますが、御朱印をきっかけに日本のお寺やお寺の文化を知っていただく第一歩となると思うので、良い傾向だなと私は考えています。」

江戸時代から庶民も気軽に訪れることができた寛永寺。いつの世も人々に門戸が開いているからこそ、国や文化を超えて人々が集い続け、様々な文化が交錯し、魅力ある文化が育まれていくのだと思います。
次の節目となる500年目に向けて着実に歴史を紡ぐ寛永寺の姿に圧倒された訪問となりました。

参加大学生の感想

宮部師のお話しをお聞きし、天海大僧正をはじめとして多くの僧侶の皆様が抱いたこの国をどうすればよいのかという鎮護国家の考えのもと、寛永寺が400年という時間を積み重ね現在にも継承されているということを実感することができました。寛永寺は江戸城の鬼門にあり、境内には徳川家の御霊廟があることから、徳川幕府と極めて近い存在であると認識していました。今回の宮部師のお話をお聞きし、鎮護国家の道場として僧侶が修行を行う場所という側面にとどまらず、一般庶民にも開かれたお寺でありたいという天海大僧正の思想により境内が整備されたことで、現代につながる様々な江戸の文化が育まれてきた場所となったころを強く思いました。また小学生の修学旅行や社会科見学を通して寛永寺に触れる活動を行っていることが印象に残りました。寛永寺が開山当初から僧侶を育成していた場所である伝統を残し、現在も人材育成を行っていることを聞き、こういった寺院だからこそ400年続き、これからもこの歴史が続き継承されていくのだと感じました。

奈良大学 博士前期課程 2年
寛永寺
東京都台東区上野桜木1-14-11

東京国立博物館 特集「創建400年記念 寛永寺」
東京都台東区上野公園13-9
2025年7月8日~2025年8月31日