慈覚大師円仁の教えが今に伝わるお寺「立石寺」を再び訪ねる
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いろり端

特集「一隅を照らす」

慈覚大師円仁の教えが今に伝わるお寺「立石寺」を再び訪ねる

【2025年6月6日訪問】
山形県山形市東部の山間部にある立石寺は、慈覚大師円仁によって開山された寺院です。風光明媚な姿は、松尾芭蕉の奥の細道で詠まれた「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句でも有名です。現在も比叡山延暦寺に灯る不滅の法灯は、織田信長の焼討ち以前に立石寺に分灯されていたことで現在にも伝わっております。今回、立石寺ご住職をつとめる清原正田師にご案内していただきました。

山形県を代表する名刹・立石寺

「こんにちは、ようこそお参りくださいました。このお寺は貞観2年(860)12月30日に第三代天台座主をつとめた慈覚大師円仁によって創建されたといわれております。この立石寺が位置する東北は都である京都とは離れており、都の文化の伝播には100年ほどの差があった可能性があったと考えられます。その当時、現在の山形県内に寺は本当に少なく、立石寺の他には、藤原氏の荘園である寒河江荘(現在の寒河江市)に藤原氏の氏寺として建てられたとされる慈恩寺ぐらいだと思います。そのため、この立石寺ができて、東北に仏教文化が花開いていくようになります。」

「立石寺は開山された当時から規模の大きな寺院であったと考えられ、1つ2つのお堂のお寺ではなく、おそらく数十の建物があったと発掘調査によって分かっております。そういった点から立石寺は開山当時から山形県内でもトップクラスの規模を誇りました。現在のお堂は室町時代の初めごろに再建されたものになります。昭和36年から昭和40年にかけて実施された修理の際、お堂の下にある以前の建物の痕跡を調べたところ、現在の建物と同規模の痕跡が見つかりました。そのことから室町時代のこの本堂以前にも同規模のお堂が建っていたことになり、時代や土地を考えると、当時の山形県の中ではびっくりするぐらい大きなお堂が建っていたということになりますね。」

立石寺に伝えられている3つの寺宝

「立石寺というお寺は、天台宗の中のお寺として一目置かれる存在であります。その理由は、天台宗にとって非常に大切な3つの寺宝が伝えられているためです。その3つの寺宝とは、『不滅の法灯』、『慈覚大師さまのご遺骨』、『如法写経行』です。この3つの寺宝についてご案内していきましょう。」

不滅の法灯

「立石寺には不滅の法灯が分灯されています。古文書を調べてみると、明治時代以前に不滅の法灯を分灯しておまつりしたお寺はこの立石寺のみであるそうです。先ほどもお話した通り、立石寺は第3代天台座主をつとめた慈覚大師円仁によって開山されました。その際、慈覚大師さまは、伝教大師さまの教えをみちのくの地に広める中心となるお寺として立石寺を開いたとされます。ですので、そこで比叡山の象徴であります不滅の法灯を分灯して、立石寺でもおまつりしてきた歴史があります。」

実は立石寺でも焼討ちにより不滅の法灯が消えてしまったことがあるそう。

「比叡山が織田信長によって焼討ちされる30年ほど前、大永元年(1521年)、立石寺は焼討ちされてしまいます。それは、天童城の城主であった天童頼長によるものでした。その際、立石寺の境内全域が焼失してしまい、ほとんど建物は残っていなかったと記録に残っています。そして建物と同様に不滅の法灯も消えてしまいました。」

「当時の立石寺のお坊さんたちは、伝教大師さまの教えを象徴する不滅の法灯を再び立石寺に灯るようにと比叡山にお願いし、不滅の法灯を再び分けていただくことができました。それから、30年後、今度は比叡山が焼討ちされ、比叡山の不滅の法灯が消えてしまいました。焼討ちから約40年後、徳川家光公の時代に比叡山は再興されますが、その時に立石寺から比叡山へ灯を分け、現在にまで不滅の法灯の灯が失われずに受け継がれているのです。」

「現在、立石寺の根本中堂の内陣の吊り灯籠に不滅の法灯がございます。比叡山の不滅の法灯をご覧になったことがあると思いますが、離れていたと思います。立石寺では、皆さんに不滅の法灯を近くでお参りいただきたいという思いで、昭和40年頃から灯篭の扉を開け、間近で実際の不滅の法灯をお参りいただけるようにしています。」

慈覚大師の御遺骨

「慈覚大師円仁の伝記を見ると、貞観6114日に延暦寺の前唐院のそばのお堂で亡くなり、御遺骸は華芳の峰に葬られたと記されています。慈覚大師の御遺骸はそこで不思議な光を放ち、不思議に思った人々が確認すると御遺骸が無くなっていたそうです。そして。光が飛んだ先を探してみたら立石寺に御遺骸が届いていたと書かれております。」

入定窟のある百丈岩

「そのお話を表すように、立石寺の開山堂のそばに入定窟という岩窟があります。その岩窟の中を調査すると、なんと複数人分の御遺骨が納めてありました。そのうちの1体は、平安時代に生きた男性の御遺骨であることが判明し、この御遺骨が慈覚大師の御遺骨ではないかといわれ、頭の骨の代わりに木で造られた彫刻の頭が納められていました。」

「その姿は、絵などで残る慈覚大師の姿にとても似ております。そういったことから慈覚大師がお亡くなりになってからそう遠くないときにこのお像が造られたのではないかといわれ、文化庁の見解では、9世紀から10世紀の初めに造られたものであるとされています。」

「日本で伝教大師さまや慈覚大師さまなど大師号をいただく高僧の方々はここに葬られましたという記録が残っていることはございますが、多くは火災など様々な被害を受けていることが多く、さらに誰も開けたことがなく開けることはできません。ですので、実際に本当に棺の中に御遺骨が納められているかどうか不明なことがほとんどです。」

「そのような中で唯一慈覚大師さまの棺だけは開けられ、結果御遺骨が納められていることを確認することができました。この慈覚大師さまの御遺骨は、平安時代に生きた高僧の姿を現代に生きる我々が直接的に偲ぶことのできる大変貴重な御遺骨になります。」

慈覚大師から脈々と伝えられている行法『如法写経行』

「慈覚大師さまは延暦寺の横川で、『如法写経行』という行を始められました。それまでの日本では、経典は写経を専門とする人々によって製作され、その人たちが書写した経典を日々の法要で使用していました。それに対して円仁は自分の修行の一環に、写経を行いました。」

如法写経行により書写された法華経を納める「納経堂」

「如法写経行は、石の墨を使い草の筆を使い(『石墨草筆』)、一文字書くごとに3回礼拝を行うという行法で、これは比叡山の様々な文書に残されております。ただ、この行法は現在では比叡山で行われておりません。おそらく平安時代の中頃から行ったという記録がなく、比叡山山麓の大原などでも行われていなかったようです。」

「一方で、立石寺では如法写経行が現在も行われています。実際に行うとお勤めも長く、写経して礼拝してととても時間がかかる行法です。さらに、『石墨草筆』での写経は皆さんが思い起こすはっきりとした墨色での写経ではなく、乾くと文字が見えなくなるような文字で法華経を書写します。この如法写経行は、様々な教えをひたむきに探究された慈覚大師さまの信念を表している行であると感じます。」

焼討ちを乗り越えて建つ「根本中堂」

「さて、今皆さんがいる建物が立石寺の根本中堂です。こちらの建物もたいへん魅力のある建物です。先ほど、大永元年(1521)に立石寺は焼討ちの被害にあったとお話しました。史料では立石寺の山内全てが焼失してしまい、この根本中堂は焼討ちの後に再建された建物であると考えられていました。しかしながら、昭和の修理の際、根本中堂の柱などの部材に焼討ち以前の部材が残っていることが判明し、根本中堂は焼討ちの被害を免れていたのではないかと考えられています。」

「根本中堂の内陣は現在板間となっておりますが、元は延暦寺の根本中堂と同様に土間であったそうです。この根本中堂は延文元年(1356)に建立された建物で、その再建時に土間から現在の状態に変更されたようです。東北で寒さが厳しく、以前は12月半ばから3月半ばまで温度計がプラスになることがなく、雪も2メートルぐらい積もる場所です。そうした場所ですから土間では寒すぎるため、現在の姿になったのでしょう。また、建立時、根本中堂の屋根は大きな杉板を重ねて葺いていました。現在銅板葺きですが、周囲に杉の木があるのは後世の屋根の葺き直すとき用に育ててきた木になります。」

「山形駅の近くに山形城がありますね。その城を整備したのが初代山形城主・斯波兼頼です。斯波兼頼によって整備されたのは650年ほど前で、立石寺の根本中堂ができた年とほぼ同年になります。そのため、山形城の築城のためにこの周辺の木材が使われ、それと同時にこの根本中堂が造られたのではないかといわれております。」

「東北では、よく寺院建築に使用されるヒノキなどの木がないため、このお堂ではブナやヒバの木が用いられています。特にブナの木はあまり建築に向く材ではありません。ブナはまっすぐ育たず、特に柱などには通常用いられませんが、根本中堂を支えているブナの柱は400年以上このお堂をお守りしてくれている材ですので、十分役目を果たしてくれています。昭和の修理の際にも周辺ではブナの大木がなく、秋田の材木を購入したようです。実はこの根本中堂はそろそろ修理をしないといけない周期にはきているのですが、順番待ちの状態でまだ修理を行う目処が立っていないのが実情です。」

根本中堂内陣におまつりされる御仏たち

「根本中堂の中心にある大きな厨子の中にご本尊・薬師如来坐像がおまつりされており、その周囲に十二神将像がおまつりされています。ご本尊は秘仏となっておりまして、50年に一度のご開帳となっています。前回は12年前に行われました。ご本尊は9世紀後半の像で、十二神将像は寛永年間頃のものであるとされています。ご本尊がまつられる厨子は、修理のときに調査で以前はこのような厨子があったということがわかったことから、復元されたものになります。」

立石寺に伝えられている記録には、ご本尊と同じ頃に造立された日光菩薩・月光菩薩・十二神将像がご本尊さまの周囲を守っており、それらのお像は寛永寺ができた折に寛永寺に遷ったと記されています。その代わりとして、江戸で新しく造立された日光菩薩・月光菩薩・十二神将像が立石寺にもたらされたそうです。ですので、ご本尊さま以外の日光菩薩・月光菩薩・十二神将像は、江戸から立石寺に来られてから約400年間おまつりされてきました。東日本大震災のときにもし倒れてしまっていたらバラバラになっていたともいわれておりますが、仏さまたちに大きな被害は無く、さらにこのお寺の被害も石灯籠が倒れたぐらいの被害ですみました。」

「内陣向かって右側におまつりされているのが文殊菩薩像です。僧侶の姿をしており、一般的な文殊菩薩とは異なった姿をしている点が特徴です。以前は室町時代以降に造立された仏さまと考えられていましたが、近年この像を文化庁に見ていただいたところ、鎌倉時代後半の作ではないかとおっしゃっていました。」

「向かって左側に安置されているのが毘沙門天像です。この毘沙門天立像は、鎌倉時代の仏さまであると考えられていましたが、詳しい調査の結果、ご本尊が造られた9世紀とほぼ同じぐらいに造られたお像であると考えられています。この像はご本尊と同じ一木造りで造られております。そのため頭から足の下の邪鬼まで同じ一本の木で造られています。このようなお像を造るにはとても大きな木が必要になります。そのようなことでは需要が供給に間に合いません。そのため、寄木造りがのちの時代にできたのです。同じ場所には吉祥天と善膩師童子がまつられております。こちらのお像は室町時代に造られたといわれております。」

海外の人々に向けたパンフレットとボランティア『Yamaderans』

「近年、立石寺でもたくさんのインバウンドの方々がお参りに訪れます。ですので、そうした海外からの方向けに立石寺の魅力に触れていただく英語版のパンフレットを作成しました。このパンフレットにはお参りの仕方や御朱印についてなど細かく解説を入れております。」

「仏教の内容を英語にして説明することは難しく、このパンフレットを作る時にも大変思案しました。このパンフレットでは、仏教の内容を簡潔に英語にして説明することは難しいことからお寺の歴史についての説明が中心となっております。」

「さらに立石寺では、『Yamaderans』というボランティアの英語ガイドグループがあります。そのグループで案内をしていると今まで考えたことのないことを聞かれることがあります。例えば、『十二神将のお顔はなぜ様々な色が使われているのか?』と質問されたことがあります。確かに言われてみると不思議ですよね。このような取り組みを通して、多様な視点から物事を見る事ができ、非常におもしろいですね。」

参加学生の感想

今回の訪問では、立石寺に灯り続ける「不滅の法灯」について感激いたしました。この活動に参加させていただく中で、比叡山に灯る不滅の法灯は、織田信長の焼討ちによって一度は途絶えてしまいますが、立石寺より灯が分けられ、今日私たちが拝む事ができるとお聞きしていました。今回ご住職のお話を伺う中で、織田信長の焼討ちの数十年前に立石寺でも焼討ちがあり灯は一度途絶えてしまったが、その後すぐに分灯されたこと、その分灯後に今度は比叡山で灯が途絶えてしまったことを知りました。伝教大師が灯して以来、約1200年灯り続ける灯を私たちが拝む事ができることは、先人たちの絶え間ないご尽力によるものだと感銘を受け、そのありがたさを痛感いたしました。

立命館大学 博士課程

今までずっと来たかった立石寺に来れてとても嬉しかったです。ご住職の説明を聞いている中で、立石寺というお寺が慈覚大師円仁さまによって開山されて以来円仁さまのお骨を残されていることや如法写経行が守り伝え残っている等篤く信仰され続けてきた信仰の場であり、このような場であった不滅の法灯が移された唯一のお寺であったのだと知ることができました。今まで延暦寺で不滅の法灯を拝見することは何回もありましたが、立石寺で初めて火の燃えている姿を拝見することができ、しかも至近距離まで近づくことができ、感慨深かったです。立石寺の山を登ってみて、至る所に石仏や巨岩に刻まれた碑、山上の建物等他では見ることのできない山の祈りの場が広がっていて、異空間に入ったようにも感じました。これが、多くの人々に参詣に来られた祈りの場であるのだと思い、感慨深かったです。

奈良大学 博士前期課程2年
立石寺
山形県山形市山寺4456-1
〒999-3301