約45年ぶりにご本尊・胎蔵界大日如来坐像が御開帳されている「平泉寺」を再び訪ねる
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いろり端

特集「一隅を照らす」

約45年ぶりにご本尊・胎蔵界大日如来坐像が御開帳されている「平泉寺」を再び訪ねる

【2025年6月6日訪問】
城下町として栄えた山形市の東南に、まもなく創建1300年を迎える古刹・平泉寺が伽藍を構えています。平泉寺のご本尊である胎蔵界大日如来さまは10世紀後半に造立された仏さまであるとされ、全国的に見ても造立時期の古い胎蔵界の大日如来坐像として注目を集めている仏さまです。ご本尊さまは秘仏としておまつりされているため、通常そのお姿を直接お参りすることはできませんが、2025年5月1日から7月31日まで約45年ぶりに御開帳されております。夏らしさを感じる6月の初旬、学生たちが平泉寺を訪れました。
山形十三仏霊場開創30年を記念し、山形県内の13カ寺で御開帳が執り行われています。
第12番札所である平泉寺においても約45年ぶりにご本尊・胎蔵界大日如来さまが御開帳されております。
期間は2025年5月1日(木)~2025年7月31日(木)。
ぜひお参りください。

1981年以来、約45年ぶりに御開帳されている胎蔵界大日如来坐像を参拝する

「平泉寺の住職をつとめております、難波良淳と申します。平泉寺にお参りいただきありがとうございます。本日みなさんとお会いできることを楽しみにしておりました。」

難波良淳師は学生たちに優しく時にはユーモアを交えて語り掛けます。

「それでは平泉寺の歴史を簡単にお話ししながら、平泉寺のご本尊さまのもとへと足を進めてまいりましょう。」

「実は、最初にお参りしていただく大日堂は、平泉寺よりも古い歴史をもつお堂になります。記録によれば、大日堂の管理を担う「別当」のような役割を担うお寺として平泉寺が創建されたと記されております。ですので、最初に大日堂の歴史を、続いて平泉寺についてお話していきたいと思います。」

「時は約1300年前の天平9年(737)に遡ります。皆さんが居る場所から山側にさらに入ったところに少し平らに開けた場所があるのですが、その場所に行基菩薩が大日如来さまを安置したことにより大日堂は始まりました。」

「この天平9年という年は、たいへんな時代であったと記録に残されております。どのような年であったかといいますと、日本で天然痘が大流行し、当時政治の中枢にいた藤原四兄弟(藤原不比等の4人の息子)をはじめ多くの人々が亡くなった年だったのです。ですから、当時疫病の終息を願い日本各地にたくさんのお寺が創建されたといいます。記録が伝えられていないため詳しいことは不明ですが、こちらの地に大日如来さまがおまつりされたのも、疫病の終息を願ったためだったのかもしれません。」
弁財天をまつる祠と錫杖池

「それから、約120年後の仁寿2年(852)に慈覚大師円仁がこの地を訪れ、行基菩薩がおまつりしたという大日如来さまを現在の地に移したといいます。その際、大日如来さまにお供えする閼伽水を求めて錫杖で地面をつくと白い蛇が姿をあらわし、その場所からコンコンと清らかな水が湧き出したといいます。その場所がこちらの「錫杖池」になります。現在もお寺の背後の千歳山に降った雨水がしみだしているので池の水が枯れることはありませんが、いつのまにかザリガニや金魚などが入ってしまったので残念ながら水は濁ってしまっています。よく近所の子供たちがこの池でザリガニ釣りをして遊んでいますよ。中には近くの竹を使い自分専用の釣り竿を作って、池の近くに置いている子もいます(笑)。」

「そのようにして創建されたお寺ですので平泉寺という名前のお寺になりました。ちなみに、平泉寺のある地域は「平清水(ひらしみず)」という名称ですが、昔は「平白水」と書いて「ひらしみず」と読んでいたそうです。ですから、先ほどお話した慈覚大師の逸話はお寺の名前の由来でもありますし地域の名前の由来でもありますから、この錫杖池はお寺だけでなく地域にとっても大切な存在だと言えると思います。」

大日堂や平泉寺、平清水地域のなりたちについて難波師と語り合いながら杉並木の参道を歩いていくと、五色の幕に彩られる銅板葺のお堂へとたどり着きました。

「こちらのお堂が「大日堂」と呼ばれている建物になります。建物の名前の通り、中央にはご本尊さまである胎蔵界の大日如来さまをおまつりしております。建物の外観を見ていただくと、五色の幕が建物の周囲を飾り、建物の前には、ご本尊の手からつながった五色の紐を結ぶ角塔婆がたてられております。なぜこのように鮮やかな装飾をほどこしているのか、それはご本尊さまを1981年以来、約45年ぶりに御開帳しているためになります。」

「それでは、堂内に入ってご本尊さまにお会いしていただきましょう。」

ご本尊さまの手と繋がる五色の紐を手に持ち祈りを捧げ、期待を胸に堂内へと進む学生たち。
そして、学生たちの前に、座った人よりももっと大きな仏さまのお姿があらわれます。

「中央の大きなお厨子の中におまつりしている仏さまが、平泉寺のご本尊である胎蔵界の大日如来さまになります。胎児の『胎』に『蔵』という文字の通り、女性が赤ちゃんを宿しているような優しい慈悲の面を私たちに示す大日如来さまになります。」

「こちらの大日如来様、文化財的な視点で申し上げると、10世紀後半ころ、950年~1000年くらいの間に造立された古い時代に造立された仏さまであると考えられています。実は、ご本尊さまのように1000年以上昔に造立された胎蔵界の大日如来さまは、全国的に見ても残っている例が少ないようです。」

「先ほどお話したとおり、慈覚大師がこの地域を訪れたのが仁寿2年(852)ですから、約100年のタイムラグがあるということになります。以前の大日如来さまが朽ちていたために新しい大日如来さまを造立したのか、こちらの大日如来さまの胎内に以前の大日如来さまが入っているのか、そこまでの詳しい調査は実施していないので詳しいことは判明していませんが、もしかしたら現在の大日如来さまより古い大日如来さまが伝えられている可能性があるかもしれませんね。」

「こちらの大日如来さまは秘仏としておまつりしております。ですので、日ごろは正面の大きなお厨子の扉を閉じておまつりをしております。残されている記録を見ますと、江戸時代までは21年に一度、定期的な御開帳をして一般の方々に直接お参りしていただいたようです。江戸時代の御開帳のうち、最後に実施したのが嘉永4年(1851)。その後、本来でしたら明治初めに御開帳が実施されたはずなのですが実施はされませんでした。なぜ実施されなかったのか、その一番の理由は当時の信仰の急激な変化によるものだと思います。当時神様と仏さまを明確に分けるようにと信仰の形が変わり、盛んに仏さまやお寺が破壊されていた時代でもありました。ですので、当時の住職がその影響をさけるためか御開帳をせず、それっきりになっておりました。」

「江戸時代より後に御開帳されたのは、昭和56年(1981)のこと。この御開帳は、この大日堂の屋根を茅葺から銅板葺への葺き替えを完了したことを祝ったことによるものでした。江戸時代以前は、この土地を治めた領主の方々の御祈祷を行い、屋根の葺き替えに必要な材料などを援助していただいておりました。例えば、外陣の壁面の札には江戸時代の終わりごろの殿様である堀田家によって茅葺に使う茅をご寄進いただいたことが記されております。その後、明治時代以降は信者の皆さんの援助をいただいて茅葺を維持しておりましたが、これ以上続けていくことは難しいということで、やむなく銅板葺に変更しました。」

「このようなお寺にとって大きなタイミングの際に御開帳をするということで、私自身も今後しばらくは御開帳をすることはないだろうなと考えておりました。しかし、この大日堂も札所の一つとなっている「山形十三仏霊場」が開創30周年を記念し初めて13カ寺すべての寺院で御開帳を行うということで、平泉寺も御開帳を実施することとなりました。」

「御開帳といいますと、通常仏さまのお姿全身をお参りいただく皆さんに見ていただくと思います。ですが、こちら平泉寺には「御開帳をしてもご本尊さまのお顔を決して見えるようにしてはならない。」と代々伝えられてきました。実際、昭和56年の御開帳の際にはご本尊さまの前に白い布を垂らして、お顔を見えないようにしたそうです。」

「お寺に伝わる決まりは守る必要がある。しかしそれではご本尊さまのお姿を見ることができずお参りいただいた方にとっては良い機会にならない。今回の御開帳はどうしようかと私は必死に考えました。」
「まずはお寺に伝わる決まりを守ること。正面からご本尊さまを見ていただくとお分かりになると思いますが、ちょうどご本尊さまの顔の位置に華鬘という荘厳が重なりお顔が隠れるようになっておりました。これは上手いことできているなと思いました。おそらく、厨子を作る際にあえてお顔が隠れるように設計したのかなと感じております。」

「続いて皆さんにとってどのように良い御開帳としていくのか。今回史上初めて、ご本尊さまをLEDで照らしてはっきりと拝んでいただけるようにいたしました。お顔はなかなか見えませんが、ご本尊さまのお顔以外は皆さんにはっきり見ていただけるかなと思います。」

するとここで裏話があるそう。実は、ご本尊さまのお顔を直接拝することのできる場所があるのだといいます。ご住職もお厨子の扉を開いてからお参りの方に教えていただいたのだとか。

ご住職に教えていただいた場所に座ると、確かに隠れていたご本尊さまの凛々しく力強い眼差しやお顔を拝することができました。
お顔を直接拝することはおそらく史上初めてのことであるそう。ぜひその場所をご住職にお聞きしてみてください。

「平泉寺ではご本尊さま以外にもたくさんの仏さまをおまつりしております。ご本尊さまの両脇には平安時代に造立された持国天立像と多聞天立像がおまつりされております。こちらは、寺伝では他に2体、合わせて4体の四天王としてご本尊さまをおまつりしていたと記されておりますが、どうにも調べてみると今のように2体でお守りする配置もあったようですので、最初から二天でお守りしていたのかもしれません。」
「平安時代に造立された仏さまはまだまだいらっしゃいます。下のお堂(客殿)の中央には、大日如来さまよりも200年ほど後の平安時代末期頃に造立されたと考えられている釈迦如来坐像をおまつりしております。以前は鎌倉時代に造立されたとも考えられていましたが、詳しく調査すると後の時代にどちらかの頬を削ったような痕跡があるみたいです。そうしたことから、平安時代末期頃に造立された仏さまであると考えられるようになりました。」
客殿におまつりされる金剛界大日如来坐像

「ご本尊さまのお厨子の前にはお前仏である金剛界の大日如来坐像をおまつりしております。実は、客殿にも金剛界の大日如来坐像をおまつりしているのですが、残念ながらこちらの大日如来さまは印を結ぶ手先が破損してしまっております。造立時代を考えると、客殿の大日如来さまのほうが古いそうですので、もしかしたら、客殿の大日如来さまは、先代のお前仏としておまつりされていたのかもしれません。しかしながら破損してしまったために、現在のお前仏としておまつりされる大日如来さまが造立されたのではないかと推測しております。」
不動明王立像

「ご本尊さまに対して向かって右側には不動明王立像、左側には地蔵菩薩立像をおまつりしております。どちらも江戸時代に造立された仏さまです。お不動さまは大日如来さまの化身ともいえますので、大日如来さまをおまつりしているところでは近くにおまつりする場合が多いようです。ここで珍しいのが、大日如来さまの近くにお地蔵さまをおまつりしている点です。はたして一体どんな理由があるのでしょう。実は、その答えはご本尊さまのお厨子の中にあります。」

ご本尊さまとともに史上初めて御開帳されている「飛地蔵」

ご住職の言葉に従い斜めの方向からご本尊さまのお厨子を見てみると、ご本尊さまの台座の近くに小ぶりで可愛らしい仏さまがおまつりされていました。
「あちらに見える可愛らしい仏さまが「飛行地蔵(ひぎょうじぞう)」、通称「飛地蔵(とびじぞう)」と呼ばれているお地蔵さまになります。江戸時代の初め、山形城下の地蔵堂から平泉寺に飛んできたという逸話を持つお地蔵さまです。」

「時は元和元年(1615)、山形城下の地蔵堂から突如お地蔵さまの姿が消えてしまったそうです。八方手を尽くしても見つからず、羽黒山の山伏さんに頼んで御祈祷してもらったところ、なんと「東の霊地にある」とお告げがありました。そのお告げに従い、人々はここら一帯をくまなく探したのだそうです。すると、この平泉寺大日堂の参道の杉の枝にひっかかっているお地蔵さまが発見されました。人々は安堵し、お地蔵さまを地蔵堂へと連れて帰り、今度は飛んで行かないようにとお体を台座に縄でぐるぐる巻きにして固定したそうです。これで安心だと人々はお地蔵さまをおまつりするお堂の扉を閉めました。」
飛地蔵さまお前仏・地蔵菩薩立像

そして翌年のお祭りの日、人々はお堂の扉を開けました。するとなんということでしょう、扉の内にはお地蔵様の姿はなく、繩のみ残されていたそうです。この光景を見た人々は、これはきっと平泉寺にいるに違いないと思いました。そして平泉寺を訪ねると、本当にお地蔵さまが平泉寺にいらっしゃったそうです。当時の人々は考えました。このお地蔵さまが平泉寺をたいそう気に入ったのだと。そうであるならば、どうかこのお地蔵さまを平泉寺でまつってほしいと当時の住職にお願いし、こうして現在も平泉寺でおまつりしているということになりました。」

「こうした逸話が伝えられている飛地蔵さまですが、通常はご本尊さまと一緒に厨子の内部におまつりしているため、そのお姿を直接お参りすることはできません。ですので、日々のお参りの際に拝むお前仏のお地蔵さまということで、お厨子の左側に大きなお地蔵さまがおまつりされているのだと思います。これが先程の疑問の答えになりますね。」
「前回のご本尊さまの御開帳が約45年前、その時はご本尊さまの前に白い布を垂らしていましたので、この飛地蔵さまのお姿も見えなかったと思います。さらにそれ以前の御開帳でもご本尊さまの姿は隠されていたようなので、今回の御開帳は飛地蔵さまのお姿を直接お参りすることができる史上初の御開帳であると思います。」

江戸時代から続く大仏再興の灯

大日堂の外陣には、ひときわ目立つ大きな仏さまの仏頭が安置されています。

「こちらの仏頭は、寛文12年(1672)頃、当時の山形城主を務めていた奥平昌章(おくだいらまさあきら)公によって平泉寺の背後にそびえる千歳山の西麓に造立された千歳山大仏を起源にもつ仏頭です。奥平昌章公は、京都市の三十三間堂付近にあった方広寺の大仏を参考に、山形を守る大仏を造立しようという願いをもとに大仏を造立したといいます。しかしながら、天保3年(1832)、火災によって焼失してしまいました。」

「その際、当時の平泉寺の住職であった良田和尚によって再興が試みられました。平泉寺には当時実際にまとめられた『大仏勧化帳』が伝えられています。こちらにある仏頭は、山形のメインストリートである羽州街道(うしゅうかいどう)の街角で、千歳山のマツを使用して造立されたのだといいます。今でいうデモンストレーションですね。このようにして大仏再興のために資金を集めておりました。しかしながら、天保8年(1837)、平泉寺も火災で燃えてしまいます。幸いなことに大日堂は無事でしたが、現在の客殿の場所にあった建物群は燃えてしまったと寛永寺に提出した文書に記されております。ですので、大仏の勧進どころではなくなり、頭部だけを造立して中断、このように平泉寺に仏頭がおまつりされることになりました。」

「この仏頭が造立されてから約175年。この仏頭も横や前に傾いたりして倒壊が危ぶまれるようになっておりました。ですので、皆さんのご援助によって令和3年(2021)8月より修理事業を行いました。もともと仏頭の内部は空洞であることに加えて、最初から仏頭としての造立ではなかったため非常に不安定でした。ですので、内部に頑丈な構造材を設置し安定させるという修理事業を実施しました。その時に用いた構造材は大日堂の参道の入口にあった一番大きな杉の木を使用しています。」

「今回の修理を通してたくさんの方々のご助力をいただきました。お参りいただいた方にこちらの般若心経の一文字写経を行っていただいているのですが、現在で32巻目になりました。本当にありがたいかぎりです。」

「今回の修復を通して、たくさんの方々が平泉寺をお参りしていただき、たくさんのご縁がありました。平泉寺は約12年後の2037年に開創1300年となります。この記念の年に向けて、こちらの大仏さまの仏頭を安置するお堂の建立を計画しております。私は記録が残っているところから数えて38番目の住職、大仏さまを再興しようとした住職が32番目の住職になります。この大仏さまを安置する建物の建立は、32代目から私に至るまでの歴代住職、そして平泉寺を信仰してくださる方々の悲願です。お寺に残る史料を整理していると、歴代住職が計画したお堂の設計図が何枚かでてきました。再建が断念されてから、約170年。大仏さまへの信仰の灯を絶やさぬようにと、たくさんの方々が尽力を重ねてまいりました。皆さまのその願いを胸に、江戸時代から続く大仏さまの復興物語を成し遂げられるように精進してまいりたいと考えております。」

約45年ぶりの御開帳を通して

「今回の約45年ぶりとなる御開帳は、住職を務める私も様々なことを学ぶ機会ともなりました。」

「まず感じたことは、伝えていくことの難しさです。今回の御開帳を実施するにあたり御開帳についての過去の記録などを調べてみましたが、最後の御開帳が約45年前、その前が江戸時代と期間が開いてしまうと伝えられていることには限りがありました。日本全国にたくさんのお寺があり、5年に一度や12年に一度、21年に一度、33年に一度など決まった年に仏さまが御開帳されています。何年に一度と決まった年に御開帳を実施することには、御開帳を未来へ伝えるという意味が大いに含まれているということを痛感いたしました。」

「また、御開帳を通してお寺を未来へ繋ぐサイクルができていたのだと感じております。平泉寺も江戸時代までは21年に一度の御開帳を実施していたとお話ししましたね。この頻度は当時の住職が生涯で1回実施することができる頻度でした。御開帳の際に皆さまからいただいたご寄付により、住職生涯一度の事業として定期的に境内の整備や修復を行うことができ、お寺を未来へ繋いでいくことができていたのだと思います。」

「そして、仏さまを未来へ伝えようとした時代時代の人々の存在を改めて強く実感しております。ご本尊さまは後世に修理を施された箇所が多いため、文化財的視点では国の文化財は難しいそうです。しかし、私はその修復こそが先人たちが伝えた大切な証であると思っております。当時、朽ちてしまったご本尊さまを修復するのではなく、新しく仏さまを造立するという選択肢もあったと思います。しかし、当時の人々は朽ちてしまったご本尊さまを修復するという選択をしました。これは、当時の人々が仏さまを未来へ、次の世代へバトンタッチしたいなという願いが強かったからなのだと思います。日々お参りしてくださる方々、仏さまを修復してくださった方々、浄財を出していただいた方々、たくさんの方々が時代時代に存在し、そのような方々の想いがひとつながりになっているからこそ、平泉寺には平安時代から江戸時代にわたる様々な仏さまがおまつりされているのです。先人たちの想いを胸に、平泉寺の仏さまや歴史を未来へ伝えていきたいと思います。」

参加大学生の感想

今回のご住職のお話の中で、「ご本尊さまは後の時代の修復が入っているために国の文化財にはならないが、その修復はどんなに朽ちてもご本尊さまを未来へ伝えようとした人達がいたことが分かる大切な証だ。」という言葉に感銘を受けました。
学術的に、ご本尊さまが造立された時代は今からおよそ1100年前の10世紀後半くらいであるとお聞きしました。1100年前という途方もない時間を越えてご本尊さまが今に伝えられ、凛々しく堂々たるそのお姿を私たちが拝むことができるのは、先人たちがご本尊を必死に守り伝えたからだと強く感じました。

立命館大学 博士課程

大日如来坐像のご開帳の期間に参拝することができ、お姿を拝見することができるとても貴重な機会でとてもありがたかったです。ご住職の説明を聞いている中で、江戸時代までは平泉寺の大日如来坐像のご開帳が21年ごとに行われてきていた歴史があり、時代を超えて守り伝えてきた人たちがいるからこそ現在の仏さまやお寺があるということが心に残りました。お寺のご開帳等の機会があることで、参拝する人々にとってより強く仏さまと縁を結ぶことができると共に、人が集めることで修復や再建等を行うことができ、より後世へ伝えることができるのだと思います。
今まで守られてきたものを後世へと繋げ残していくことはとても大変なことであると思います。今回のご開帳の際に大日如来坐像の姿を拝見する中で、落ち着いたお顔でありながら優しく微笑んでいるようにも感じました。これはご住職をはじめとして大切に仏さまやお寺をお守りしてくださっており、これからもお寺が繋がっていくことを安堵している表情のようにも感じました。

奈良大学 博士前期課程2年
平泉寺 約45年ぶりのご本尊・胎蔵界大日如来さま御開帳
山形県山形市平清水番外1
2025年5月1日~2025年7月31日