穏やかな日差しのもと執り行われた三千院門跡・御懺法講に参列する
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いろり端

特集「一隅を照らす」

穏やかな日差しのもと執り行われた三千院門跡・御懺法講に参列する

【2025年5月30日訪問】
新緑が山々を彩る令和7年5月30日。多くの参拝者が訪れる三千院門跡において、平安時代、後白河天皇が行った宮中法会を起源とする「御懺法講(おせんぼうこう)」が執り行われました。日本各地から約300人の人々が参列し、戦後復興から47回目となる歴史ある法会に学生たちが参列しました。

後白河天皇が行った宮中御懺法講を起源とする

毎年5月30日、三千院門跡で奉修される御懺法講が始まったのは、今からおよそ1000年前の保元2年(1157)のことでした。前年には保元の乱が勃発するなど、まさに動乱の時代。そのような時代に後白河天皇は宮中御懺法講を始められたのでした。

懺法(せんぼう)とは、日々積み重ねた罪を仏の前で悔い改め、心の中にある「貪(とん、むさぼり)」、「瞋(じん、いかり)」、「癡(ち、おろかさ)」の三毒(さんどく)を取り除き、心を清める法式のことであるといいます。混迷を極める乱世の中、御懺法講を奉修することにより、後白河天皇は自分自身を振り返り、乱れている世を平らかにすることを願ったのかもしれません。

後白河天皇が宮中の仁寿殿で奉修して以降、宮中御懺法講は宮中法会の1つとして営まれ、三千院門跡の歴代門主が調聲(ちょうせい)を務めるようになりました。伝えられている記録によると、現在のように毎年奉修される法会ではなく、天皇や皇后などの周忌の年に行われていたといい、御懺法講は宮中における仏教儀礼が廃される明治時代まで続けられました。

宮中での奉修が困難になった御懺法講は、三十数年の中断の後、明治31年(1898)に復興されることになりました。復興された御懺法講は、江戸時代までと同様に、天皇や皇后などの周忌の年に行われ、昭和2年(1927)に三千院門跡の宸殿が建立されるまでは勝林院で奉修されていました。

こうして復興された御懺法講でしたが、再び中断することになってしまいます。これは、時代が第二次世界大戦へと突入し社会が混乱していたためでした。その後、三十数年後の昭和54年(1979)、戦後復興の第1回目となる御懺法講が三千院門跡で奉修され、翌年の昭和55年(1980)から現在と同様に毎年5月30日に奉修されることになりました。そして、「声明懺法・呂様」、「声明懺法・律様」、「声明例時」の3つの法儀を1年に1つずつ、3年で1まわりするように定められ、今日まで奉修されてきました。

日々積み重ねた罪を悔い改める法会が始まる

令和7年度に奉修された第47回御懺法講では、3つの法儀のうち、「声明例時」が奉修されました。
鐘が鳴らされ、雅楽が奏でられる中、御懺法講を奉修する僧侶である式衆(しきしゅう)が御懺法講の道場である宸殿に入堂します。

式衆の入堂が終了すると、「捲御簾」となります。「捲御簾」では、大臣役を務める僧侶が後白河天皇のお像をおまつりする厨子の扉を開き、お像の前にかかる御簾を捲きあげます。

そして、奉行役を務める僧侶が発する「総礼。総礼。総礼。」の言葉に従い、お姿をあらわした後白河天皇に対し、式衆全員で礼拝をします。

礼拝が終わると、御懺法講の本尊である普賢菩薩像を中心に、「伽陀」という声明が唱えられます。「伽陀」は五字四句から構成されており、法要を始めるにあたり、身(行動)・口(言葉)・意(思考)を清らかにするという意味合いがあり、御懺法講ではそのうちの一句と四句が唱えられます。一句は伽陀役を務める僧侶が唱え、四句は笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・龍笛(りゅうてき)の音色とともに唱えられます。

続く「三禮(さんらい)」は、「仏」と仏の教えである「法」、法を実践する人を表す「僧」を敬い、礼拝するという声明。そして続く「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」では、お釈迦さまとお釈迦さま以前にあらわれた六人の仏さまの教えが唱えられます。その後、小声で唱える「六為(ろくい)」に続き、式衆の声をまとめる調聲(ちょうせい)をつとめる三千院門跡門主、小堀光實(こぼりこうじつ)師により「法則(ほっそく、法要の趣旨)」が読み上げられました。

「四奉請(しぶじょう)」は諸仏を招き入れるための偈文であり、式衆は御懺法講の本尊である普賢菩薩さまの周囲を、散華を散らしながら行道(ぎょうどう、僧侶が経を読みながらめぐり歩くこと)をおこないます。

さらに、阿弥陀如来を念じる「甲念仏(こうねんぶつ)」、お釈迦さまが説かれた阿弥陀如来のお経である『佛説阿弥陀経』を唱える「経段(きょうだん)」、念仏を唱える「合殺(かっさつ)」においても式衆は行道を続けます。

諸仏に廻向申し上げる「廻向(えこう)」、御懺法講を通して諸仏からいただいた功徳に感謝し諸仏の徳を讃える「後唄(ごばい)」、日々の生活の中で積み重ねた罪を最後にもう一度悔い改めるという意味合いを持つ「大懺悔(おおいさんげ)」、阿弥陀如来の徳を讃える偈文から構成される「五念門(ごねんもん)」と続き、御懺法講は終盤へと至ります。

調聲をつとめる小堀師は礼盤を降り、後白河天皇の御簾をおろす「垂御簾」へと移ります。式衆が平伏するなか、大臣役の僧侶によって御簾がおろされ、厨子の扉が閉じられます。

心から自分自身の日々の生活を悔い改め、世界の平和を祈る

御懺法講が奉修された後、調聲をつとめた小堀師より、参列した皆さまに向けてお言葉がありました。
「本日は、三千院門跡にご縁のある多くの方々にお参りしていただきました。心から感謝御礼申し上げます。」

「私からも御懺法講について少し触れさせていただきたいと思います。御懺法講のご本尊さまは、正面のお軸に描かれている普賢菩薩さまでございます。日々の生活を送る中で、私たちは意識によって悪い事をしてしまうこともあれば、無意識によって悪い事をしてしまっているかもしれません。御懺法講はそのような日々積み重ねた罪を悔い改めるための行であります。そして、その悔い改めるという心をおこす時に御懺法講のご本尊さまである普賢菩薩さまがしっかりと見守ってくださるというわけであります。」

「1000年ほど昔に後白河天皇が創始されて以来、御懺法講が歴代の三千院門主によって奉修されてきたのは、世界の平和を祈らんがためでございます。心から自分自身の日々の生活を悔い改めるひとときとして伝えられてきたこの御懺法講。途中何度か途絶えてしまったこともありましたが、日々を振り返るひとときのおつとめとして御懺法講は大変尊いものであるという皆さまのお声によって戦後に復興されてから今年で47回目となります。令和10年度には50回目となります。そのときには、御懺法講が多くの方々にご自身を振り返っていただく尊いひとときとなりますよう、皆さまを迎えさせていただきたいと思っております。」

天気予報では雨模様の予報が出ていた令和7年5月30日。しかしながら雨模様の予報は外れ、三千院門跡の境内には穏やかな日差しが降り注ぎ、人々の笑顔が溢れていました。この光景は、三千院門跡に集った皆さまが、心から自分自身の日々の生活を悔い改め、よりよい未来を願ったということを表しているように思えました。およそ1000年以上伝えられてきた御懺法講がこれから先もたくさんの人々の拠り所として伝えられていきますように、そして、三千院門跡の境内に広がる穏やかな光景があたりまえの世界になりますように、そのような願いを胸に抱きながら三千院門跡を後にしました。
三千院門跡 御懺法講(おせんぼうこう)
〒601-1242 京都府京都市左京区大原来迎院町540
2025年5月30日