世界文化遺産登録30周年記念展「比叡山と平安京」(前期)が開催されている国宝殿を訪ねる
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いろり端

特集「一隅を照らす」

令和6年10月5日 ~ 10月30日(前期)(令和6年11月2日 ~ 12月1日(後期))

世界文化遺産登録30周年記念展「比叡山と平安京」(前期)が開催されている国宝殿を訪ねる

【2024年10月19日訪問】
伝教大師最澄が開いた比叡山。794年平安京が整備されて以降、都の表鬼門を護る霊山として多様な信仰・文化が生み出され、たくさんの人々の祈りを受け止めてきました。今年2024年は、1200年の歴史が息づく京の文化が世界文化遺産に指定されてから30周年の節目の年です。その構成遺産である比叡山延暦寺の境内にある国宝殿では「比叡山と平安京」と題し、都とともに歩み続けた比叡山の歴史を体感できる特別展が開かれています。今回、展覧会の企画・展示に携わった人々の一人である岸田悠里学芸員に前期展示の魅力をお話しいただきました。

比叡山の整備に奔走した伝教大師最澄

「本日はようこそ国宝殿へお越しくださいました。早速今回の展示についてお話ししたいところですが、まずは比叡山を開いた伝教大師と比叡山の歴史について簡単に振り返ってみたいと思います。」

「今より1200年近く昔、この比叡山の麓に男の子が誕生します。その名前を広野といいました。みなさんご存じの通り、この男の子こそが後に伝教大師となります。幼少の頃より勉学に励んだ広野は、近江国分寺で出家・得度し「最澄」の名を授かり、その後奈良の東大寺で具足戒を授かり比丘(僧侶)となりました。」

「その後、さらなる修行のために故郷であるとともにその当時から霊山として名高い比叡山に入ります。比叡山に入り修学に励む最澄は自ら薬師如来像を刻み、その薬師如来像を本尊とする一乗止観院を創建します。さらに修行に励む最澄の名は中央にも知れ渡り、内供奉十禅師という天皇陛下をお守りする僧侶に任命されるなど幅広く活躍していました。」

「幅広く活躍し桓武天皇をはじめとする多くの人々から信頼をされていた最澄はさらに歩み続けます。最新の仏教を求め唐へ渡ることを計画します。当時の唐への渡航はまさに命がけの旅路ですが、唐の地へ無事にたどり着き天台山などの仏教聖地を巡り、天台教学や密教を受け継ぐとともに多様な経典や法具を日本へと持ち帰ります。」

「こうして持ち帰った教えや経典をもとに最澄は比叡山の整備を続けます。その結果、延暦25年には天台宗が正式に認められることになりました。その後、最澄は大乗戒による授戒制度を新設し、その施設を比叡山に設置することを目指し尽力します。残念ながら最澄が生きている間に設置の許可はおりませんでしたが、没後7日目に正式に認められ、その翌年にはじめて比叡山で授戒が行われました。」
「このようにして最澄が中心となって整備された比叡山には多くの人・ものが日本全国から集まり、多様な信仰や文化が花開くことになります。その結果、比叡山には様々な仏像がおまつりされ、貴重な経典が集まり、日本屈指の仏教文化を体現する場所となっていきます。」

「しかしながら、様々な人やものが集まるということは争いが生じ戦乱に関わることも増えていくということになります。誰しもが知っている織田信長による比叡山の焼き討ちなど、比叡山は幾度も戦乱に巻き込まれた歴史があります。その都度、比叡山におまつりされていた仏さまや経典は比叡山より避難し、比叡山に戻ってきたものもあれば新たな場所で伝えられているものもあります。そういったことから『比叡山の仏さまには足がある』と呼ばれることもあります。それでは、その代表となる仏さまを最初にご案内いたしましょう。」

比叡山の仏さまには足がある

「国宝殿の入口におまつりされているこの仏さまは、釈迦如来坐像というお名前の仏さまです。お像の彫刻表現などから考えて平安時代後期頃に造立された仏さまだと考えられています。そう聞くと、この仏さまは今から1000年近く昔に造立され、比叡山で1000年近くおまつりされていたと想像してしまいますが、実際は一つの場所に留まらずかなり激動の歴史を歩んでいらっしゃいます。」

「この釈迦如来像が造立された当初、現在の横川地域の霊山院というお寺におまつりされていたそうです。この霊山院は、往生要集をまとめた恵心僧都源信により建立されたお寺でして、お釈迦さまがかつて霊鷲山で法華経を説いたことから「霊山院」と名付けられたと伝えられているお寺です。ですので、このお像もお釈迦さまとゆかりの深い霊山院におまつりされていたということになります。」

「しかしながら、戦国時代、このお像に危機が訪れます。皆さんご存じ、織田信長による焼き討ちです。どうにかして仏さまだけ逃がしたい、そう考えた当時の僧侶はこのお像を山からおろし、琵琶湖をはさんで対岸にある天台宗寺院である芦浦観音寺に舟で逃がそうとしたといいます。なんとかしてこのお像をはじめ様々な仏さまや経典を舟にのせ、対岸に向けて舟を漕ぎます。しかしながら、波が高かったのか、途中でこのお像は琵琶湖に落ちてしまったといいます。そして自ら岸に泳ぎ着き、現在の下坂本の東南寺にまつられ、水難避けの仏さまとして信仰されました。今は山上に戻り、国宝殿を拝観される方々をお出迎えくださっています。」
いつも国宝殿を訪ねるとお会いすることのできるお釈迦さまにこのような激動の歴史が秘められていることに驚く学生たち。岸田学芸員は言葉を続けます。

「このお釈迦さまのように比叡山に再び帰ってきたお像や経典もあれば、場所を変え新しい場所で伝えられているお像や経典もあります。今回世界文化遺産登録30周年という記念の年ということで、延暦寺や天台宗の寺院さまだけでなく天台宗以外の宗派の寺院さまや博物館からも貴重な宝物をお借りしています。まさに記念の年にふさわしい特別展になっていますので、再び比叡山に集う宝物を通し比叡山に花開いた往時の仏教文化を体感していただけたらなと思います。その際、先ほどお話した「比叡山の仏さまには足がある」という言葉を頭の片隅において展示を見ていただけるとよりおもしろいと思います。それでは、展示室へと進みましょう。」

岸田学芸員に続き展示室に歩みを進めていきます。

移動する比叡山ゆかりの宝物:国宝・梵鐘

岸田学芸員に続きたどり着いたのは国宝殿地下の展示室。通常は比叡山の諸堂に伝わっている仏さまがおまつりされています。

展示室の中に入ると、いつもお会いすることのできる薬師如来坐像の前に大きな鐘が展示されていることに気が付きます。

「こちらが今回の展示の目玉の一つである国宝の梵鐘です。こちらは滋賀県守山市にある佐川美術館さまが所蔵されている梵鐘になります。ここで先ほどの「比叡山の仏さまには足がある」という言葉を思い出していただきたいと思います。この梵鐘も当初は比叡山に伝わっていました。」

「梵鐘の前にある文章に注目してください。こちらの銘文は鐘の内側にある銘文で、『比叡山延暦寺西寳 幢院鳴鐘天安二年 八月九日至心鋳甄』と刻まれています。つまり、もともと比叡山西塔の寳幢院というお寺に安置するために天安二年(858)頃に鋳造したことが分かります。この時代の比叡山の様子が分かるだけでなく、日本国内に伝わる梵鐘の中でも屈指の古さであることから国宝に指定されています。もともと比叡山西塔に伝わっていたこの梵鐘ですが、いつしか山をおり京都市の岩倉のお寺に伝わっていましたが、平成10年に佐川美術館さまの所蔵となりました。」

ここで展示の前に普段見当たらないボタンがあることに気が付きます。

「ぜひご来館いただいた皆さんに押していただきたいのが、こちらのボタンになります。誰かこのボタンを押してみてください。」

岸田学芸員の言葉に従い学生の一人がボタンを押します。すると、重厚感のある鐘の音が展示室に響きました。

「この鐘の音は平成11年(1999)に国宝の鐘を実際についたときに収録された鐘の音になります。国宝に指定されていますから、現在はたやすく鐘をつくことはできません。この音を聞いていただき、この鐘の音が響いていた平安時代の比叡山の様子を想像していただけたらなと思います。」

岸田学芸員のお話はまだまだ続きます。

「この国宝の鐘の背後に目を向けていただくと根本中堂におまつりされていた十二神将立像が展示されています。こちらの十二神将立像は根本中堂が修理の期間は国宝殿でいつもお会いできる仏さまですが、こちらの仏さまも激動の歴史を歩んできた仏さまになります。」

「根本中堂の修理の前、根本中堂内におまつりされるこの十二神将立像を調査し修復することになりました。当初、今の根本中堂が建てられた江戸時代に造立された仏さまだと考えられていましたが、お像の内部に鎌倉時代の墨書が記されていることが発見され、鎌倉時代に造立された仏さまであることがわかりました。また、注意深く像に記された墨書を読んでいくと、栄賢という人物が勧進を行い、頼弁という名の仏師が造立したことが分かりました。この2人は比叡山麓の坂本の天台宗寺院である聖衆来迎寺におまつりされている日光菩薩立像・月光菩薩立像(ともに国指定重要文化財)に関わっていることから、この十二神将立像は当時の仏像造立の様子を垣間見える貴重な仏さまであることがわかりました。また、聖衆来迎寺に伝わる文書など様々な記録や文書を踏まえて、もともと現在の京都市・岡崎公園付近にあった天台宗寺院である元応寺に伝わっていた仏さまであると考えられています。このように、比叡山を一つの基点として様々な仏さまや宝物が移動していることが感じられると思います。」
「ここで「比叡山の仏さまには足がある」という観点を少し外して、普段は展示していない仏さまをご紹介したいと思います。まずは坂本の生源寺のご本尊である十一面観音立像をご紹介します。」
「こちらの観音さまがおまつりされている生源寺は、伝教大師の生誕の地と伝えられているお寺になります。この観音さまは通常秘仏として厨子の内部におまつりされ、年に一度の御誕生会の際にしかそのお姿をみることはできません。今回は特別に皆さまにお姿を公開させていただいております。観音さまのお顔の輪郭は丸く、横から見ると顔を少し前に出していることに気が付くかと思います。また、衣は浅く整っていることから平安時代後期に造立された仏さまと考えられています。また鎌倉時代末期にまとめられた『渓嵐拾葉集』には、生源寺に一丈一尺の千手観音がおまつりされており、その腹心に慈覚大師作の三寸三分の十一面観音をおさめていると記されています。記載されている十一面観音とこの観音さまの大きさは異なりますが、もしかしたら書物に記されている慈覚大師作の十一面観音と関係があるかもしれません。」
「続いてご紹介するお像は、理性院におまつりされている如意輪観音坐像になります。理性院は東塔東谷に所属している里坊の一つになります。里坊とは比叡山上で修業していた僧侶が比叡山の麓に建てたお寺のことをいいます。現在も100以上の里坊が坂本に残っています。もともと里坊はお坊さんが日々の生活をするためのお寺ですから、現在も一般の方々に公開はしていません。ですので、里坊におまつりされている仏さまのお姿を皆さんが拝見する機会はほとんどないのですが、今回特別に展示させていただいております。」
「こちらの如意輪観音坐像は鎌倉時代に造立された仏さまであると考えられており、6本の腕を持つ如意輪観音の姿を破綻なくまとめており、鎌倉時代の比叡山を代表する仏さまになります。そのため、比叡山の仏さまを載せる2023年版の延暦寺カレンダーの7・8月写真にこの如意輪観音坐像のお姿が採用されたこともあります。そうしたことから皆さんに親しみのある観音さまかもしれませんが、実際にそのお姿を目にしたことある方は少ないと思います。貴重な機会ですから、ぜひ観音さまの美しいお姿をお参りください。」

高僧たちの直筆の文書と比叡山で花開いた多様な信仰

比叡山に伝わる様々な仏さまに囲まれる展示室を離れ次の展示室に歩みを進めます。
展示室に入ると、仏さまに加え様々な文書や絵画が展示されていました。

「こちらの展示室では、伝教大師による比叡山の開創から多様な信仰が花開くまでの歴史を、宝物類を通して体感していただきたいと考えています。先ほど比叡山だけでなく博物館や天台宗以外の寺院さまからお借りしたとお話しましたが、そのようなお借りした国宝や重要文化財などの貴重な宝物類をこちらの展示室で数多く展示しています。それでは、伝教大師が活躍した時代の宝物から見ていきましょう。」

「伝教大師が生きた時代の宝物のうち前期展示では、大原の来迎院さま所蔵の「伝教大師度縁案並僧綱牒」と延暦寺が所蔵している「伝教大師請来目録」を展示しています。どちらも国宝に指定されている貴重な宝物です。まずは「伝教大師度縁案並僧綱牒」に注目してみましょう。」
「「伝教大師度縁案並僧綱牒」は、伝教大師が得度・受戒した際の関係文書3通をまとめた宝物になります。1通目は宝亀11年(780)に15歳の伝教大師の得度を認める書状、2通目は得度より3年後に近江国司より伝教大師に与えられた度縁(僧になることを許可した交付証)の草稿、3通目は伝教大師が東大寺で受戒したことを示した文書になります。」

「この文書は現在の運転免許証やパスポートのように公的に示す書類になります。ですので、伝教大師の身体的特徴や出自などが詳細に記されています。例えば、ほくろの位置など記されているので、ぜひ探してみてください。」

「続いての宝物は、延暦寺が所蔵する「伝教大師請来目録」になります。こちらは伝教大師直筆の宝物で、唐に留学した際に得た経典や法具のうち越州で入手した経典類の詳細を記入したいわゆる「越州録」の原本になります。伝教大師がどのような教えを学びどのような経典を入手したのかを今に伝える第一級の宝物になります。」
「続いて、伝教大師と同時期に活躍した弘法大師空海や伝教大師没後の天台宗の発展に寄与した慈覚大師円仁、智証大師円珍に関係する宝物類を見ていきましょう。」

「こちらに展示しているのは弘法大師像になります。こちらのお軸は京都の仁和寺さまからお借りしたお軸になります。伝教大師と同じタイミングで唐へ留学した弘法大師は密教を学び日本へともたらしました。帰国後は伝教大師とも深く交流したことも知られていますね。この国宝殿で弘法大師のお軸を展示することはほとんどありませんでしたが、今回伝教大師と並び当時の仏教を代表する存在として弘法大師のお軸を展示しています。」

「また、興味深いことに弘法大師の伝記を描いた絵巻が比叡山に伝えられていました。こちらの「弘法大師行状図」は室町時代の応永14年(1407)に描かれた絵巻で、十巻本の系統にあたります。巻十の最後に記されている奥書には願主の名前のほかに、借用の申し出があっても貸し出しをしないことが記されており、取扱が厳重であったことがわかります。それでは、なぜ弘法大師の絵巻が比叡山に伝えられていたのでしょうか。それは、徳川家康のもとで活躍した天台僧・慈眼大師天海と関係があると考えられています。実はこの絵巻、慈眼大師が蒐集した天海蔵という蔵書群に含まれていました。この絵巻も多様な学問に精通していた慈眼大師が集めたと推定され、天台宗にとどまらず多様な書物を学んだ慈眼大師の姿を今に伝える貴重な宝物であるといえると思います。」
「続いて、こちらの「比叡山東塔図」をご覧ください。こちらは鎌倉時代に描かれた絵図と考えられており、中世以前の比叡山の東塔伽藍の様子を今に伝える最古の絵図として注目を集めています。現在の東塔のように法華総持院や戒壇院が確認できるほか、現在は西塔のみに残る法華堂や常行堂が確認できます。ここで注目したいのが、この絵図の左下です。よく見ると、僧侶の姿の人物が描かれていることに気が付くと思います。この僧侶像の脇の短冊には慈覚大師と記されています。このことから、この絵図は慈覚大師の法流に関係した絵図ではないかと考えられています。」

「また、慈覚大師と双璧をなす存在として知られる智証大師円珍に関する宝物も展示しています。こちらの智証大師像は園城寺さまからお借りしたお像で、国指定重要文化財です。園城寺さまにおまつりされている国宝の智証大師像のうち「中尊大師」とよばれるお像を鎌倉時代に模刻したお像であると考えられています。さらに隣には智証大師が感得したお不動さまのお軸を展示しています。黄白色の姿をしていることから「黄不動」と呼ばれています。こちらのお軸は室町時代に描かれたと推定されており、延暦寺に伝わりました。」

「続いて、慈覚大師や智証大師の後の時代に移りましょう。こちらのお像は比叡山を中興したと言われる慈恵大師良源のお像になります。こちらのお像も国宝殿でいつでもお会いできますが、「比叡山の仏さまには足がある」という観点でみることができる仏さまになります。もともと慈恵大師の住坊であった西塔の本覚院におまつりされていましたが、織田信長による焼き討ちの際、比叡山の麓の仰木村に疎開されていました。その後、権兵衛という人物が納めたため「権兵衛大師」とも呼ばれています。」

「また隣には、「楞厳三昧院解」を展示しています。これは、楞厳三昧院が横川の独立を求めた上申書で、これにより現在のような東塔・西塔・横川の三塔が確立したことが分かります。また、最後から3行目には慈恵大師の自筆の署名を見ることができます。」

「このように慈恵大師は伝教大師や慈覚大師、智証大師が基礎を築いた比叡山をさらに整備したことで、比叡山を中興したと表現されます。その際、公家をはじめとする多くの人々の援助を受け比叡山全体を整備していったと考えられています。その時に強固となった公家との繋がりを示す宝物が現在も比叡山に伝わっています。」

きらびやかな平安貴族の世界を今に伝える宝物

「日本の天台宗の教えは、『法華経』の教えだけでなく、伝教大師や慈覚大師、智証大師が唐より伝えた密教や浄土教、禅、戒律など多様な思想が集合し体系化したことにより生まれました。そうしたことにより、比叡山には多様な仏教文化が花開き多様な宝物類が残されました。ここからの展示では、法華経・密教・浄土信仰の3つの視点から平安貴族と比叡山の関わりを見ていきたいと思います。」

「最初にご覧いただきたい宝物は、今回の目玉の一つ「金銀鍍宝相華文経箱」です。こちらは現在放映中の大河ドラマで話題の一条天皇の皇后・彰子が奉納した経箱になります。箱のふたには「妙法蓮華経」と刻まれていることから内部に『法華経』がおさめられていたと考えられています。残念ながら内部におさめられていた経典は、この経箱が発見された時には無くなってしまっていたそうです。箱全体に花々を題材とした非常に繊細で優美な装飾がされており、当時の技術の粋を集めた貴重な作例であるとして国宝に指定されています。」
「また、比叡山には平安時代に記された法華経がいくつか伝えられています。前期には慈覚大師が書写したと伝えられている法華経を展示しています。紺色の紙に金と銀の文字が交互に記されていることが特徴的です。見返し部分には経典の内容が絵で描かれており、その優美な表現にも注目です。」

「それでは続いて、密教の観点から宝物を見てみましょう。比叡山での密教の観点で思い起こされる人物といえば相応和尚が思いつくかと思います。こちらのお軸は鎌倉時代に相応和尚を描いたお軸で国の重要文化財に指定されています。相応和尚の近くには五鈷鈴や独鈷杵を足元には草履を描き、回峰行をはじめたとされる相応和尚の質実剛健な趣を感じると思います。」

「また、その隣には相応和尚が創建したとされる伊崎寺のご本尊・不動明王坐像を展示しています。このお像は平安時代の10世紀ころに造立されたと考えられている仏さまになります。平安時代の天台密教を今に伝える貴重な仏さまの一つです。」
「それでは最後に、浄土信仰について見ていきたいと思います。浄土信仰といえば恵心僧都源信が思い浮かぶ方が多いと思います。こちらに展示しているお軸は横川元三大師堂に伝わる源信像になります。教科書でよく見る源信像よりも眉毛が白くなっており、表情も柔和になっていることから老年時代の姿を表現していると考えています。こちらのお軸も展示する機会の少ないお軸になっています。また、比叡山麓の聖衆来迎寺さまからは国宝に指定されている六道絵を江戸時代に模写した作品をお借りしています。こちらは模本ですが、滋賀県指定文化財です。迫力ある姿の閻魔さまや鬼の姿、おどろおどろしい地獄の様子に注目していただきたいです。」
「さらに比叡山の麓に伽藍を構える西教寺さまからお借りした「阿弥陀聖衆来迎図」を展示しています。こちらのお軸、なんといってもスピード感のある来迎図として有名です。観音菩薩と勢至菩薩が乗る雲は斜め45度に長く雲を伸ばし、まるで飛行機雲のように見えます。また、興味深い点が、来迎図の上部に仏さまを示す梵字が記されていることになります。一説にはこれらの梵字は比叡山の神様である日吉大社の神々をあらわしていると推測されており、浄土信仰と山王信仰の2つが1つの画面に共存する興味深い来迎図としても知られています。」

ここで登場した山王信仰という視点。今回の展示においても山王信仰に関わる貴重な宝物が展示されていました。

「こちらに展示してあるお軸は「日吉山王本地仏曼荼羅」と呼ばれる曼荼羅で比叡山の守護神である神々の本地仏を描いた曼荼羅になります。極彩色に彩られる仏さまのお姿も魅力的ですが、このお軸の注目したい点はお軸の表装になります。お軸を構成する軸首や八双の表装金具の様式に着目すると、現在の様式とは異なっています。これはこの曼荼羅が描かれた中世当初の表装を残していると考えられていて、表装の歴史をたどるうえで貴重な文化財の一つになります。」

「また、山王信仰に関連して大和文華館さまが所蔵する「日吉山王宮曼荼羅」もお借りしています。こちらは、すべての社殿の正面をこちら側に向け、社殿の内部に懸仏の形式で本地仏を描いていることが特徴的な山王曼荼羅です。現在は剥落していますが、仏さまは金泥を用いて盛り上げで描かれていたようです。ですので、制作当初は画面から仏様が立体的に飛び出してくるような感覚を感じることができたのかもしれませんね。」

最後に岸田学芸員に今回の展示についてお話いただきました。

「今回の展示では、伝教大師が比叡山を整備して以降、多様な信仰や文化が花開いたことを今に伝わる貴重な「本物の宝物」を通して、皆さんに体感していただきたいと考えています。また、これから始まる後期展示では、文書や絵画を中心に大きく展示替えを行う予定です。比叡山や天台宗寺院だけでなく、他宗派の寺院さまや博物館から貴重な宝物をお借りすることができ、世界文化遺産に指定されてから30周年の節目の年だからこそ実現できた展示だと思います。この機会にぜひ国宝殿にお越しいただきたいです。」

こちらは図録です。岸田学芸員にお聞きすると、今回の展示にあわせ図録も力を入れたそう。それぞれの宝物に丁寧な解説文が記載され、非常にわかりやすく、宝物に秘められた歴史を実感することができました。限定500部の販売とのことです(汗)

参加学生の感想

展示室に入ると国宝や重要文化財に囲まれ、伝教大師が比叡山を整備して以降、多様な信仰や文化が生まれたことを体感することができました。今より1200年前に生きた伝教大師の肉筆を実際に見ることができるだけでなく、大河ドラマに登場する彰子が奉納した経箱の実物を見ることができ、歴史上の人物が実際にいた痕跡を味わい自分たちが歴史上の人物が生きた時代の延長線上に生きていることを強く感じることができました。また、「比叡山の仏さまには足がある」という視点でみると、いままで何度もお会いしていた仏さまが波乱万丈の歴史を潜り抜けてきたこと、今に伝えられているのは必死に逃がそうとした当時の人々の存在があったからだということを強く感じることができ、今に伝わる仏さまや文化財をこれから先にどのように伝えていくのか自分自身に落とし込み考えるきっかけとなりました。

(文・立命館生命科学部 博士1年)
比叡山延暦寺国宝殿
世界文化遺産登録30周年記念展「比叡山と平安京」(前期)