奈良時代に開山した古刹・和歌山県日高郡の「道成寺」の文化財を学ぶ
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いろり端

特集「一隅を照らす」

奈良時代に開山した古刹・和歌山県日高郡の「道成寺」の文化財を学ぶ

【2024年8月29日訪問】
和歌山県日高川町に位置する道成寺は、奈良時代に義淵僧正によって開山されたと伝わる寺院です。歴史の渦に巻き込まれながら法相宗・真言宗・天台宗と宗派が変わりながら、お寺の文化や信仰を守り続けてこられています。お寺ができる前の弥生時代の銅鐸や法相宗時代に造られた千手観音、真言宗時代に造られた千手観音等多くの文化財も守られてきました。また、今より1100年前にお寺を舞台に繰り広げられた激動の物語は多くの人々に親しまれ、芸能や美術として昇華されています。そのような魅力ある歴史と文化を今に伝える道成寺を学生たちが訪れました。

弥生時代より続く祈りの聖地

「本日はようこそ道成寺にお越しくださいました。数年前の御開帳の時にもお越しいただき、今回2回目ということで皆さんとたくさんお話しできることを楽しみにしております。」
あたたかく学生たちを迎えるのは道成寺院主である小野俊成師。
「ご挨拶はこの辺りにして、早速ですが道成寺の歴史をご紹介しましょう。」
「お寺の歴史をお話する前にこちらの展示ケースに近づいてみてください。ここには何が展示されているでしょうか。」

学生の一人がご住職の質問に答えます。

「そうですね、正解です。こちらには銅鐸を展示しています。作られた、といいますか錆び始めた年代が酸素同位体測定で西暦200から300年ごろ、弥生時代後期だと判明しています。ご覧いただいたとおりかなり大きな銅鐸で、日本で出土した銅鐸のうち4番目に大きい銅鐸です。この銅鐸が発見されたのは今から300年前の江戸時代、この寺の門前のお土産屋さんあたりで出土した記録があります。当時のお役所に届け出て、その時のスケッチ入りの古文書が今も残っています。」

「銅鐸の用途は今でも明らかではありませんが、祈りの場所と関係があると考えられています。そう考えると、お寺の創建よりも以前よりこの土地が祈りをささげる場所であったということをこの銅鐸が示していると言えるでしょう。日本全国様々な神社仏閣がありますが、明確に弥生時代まで歴史をさかのぼることができるところは珍しいでしょう。」
義淵僧正坐像

奈良時代、法相宗の大寺院として歴史が始まる

「お寺の創建より前にこの場所が弥生のマツリの場であったことをお話したところで、道成寺の歴史のお話に移りましょう。道成寺は1300年以上続く寺ですが、実は天台宗のお寺になったのはつい最近、江戸時代ことです。最初は法相宗、平安時代になると真言宗、そして江戸時代に天台宗となりました。年数でみると法相宗が4分の1、真言宗が4分の2、天台宗が4分の1ほどになります。これから宗派の変遷と歴史をあわせてお話ししましょう。」

「道成寺は奈良時代の大宝元年(701)に創建されたと言い伝えています。当時の日本一の名僧の義淵僧正にこの地に来て開山の法要をしていただいたと言い伝えています。現在お寺には平安時代、10世紀ごろの義淵僧正像が祀られています。」
宮子姫像

「またこの地方の言い伝えによりますと、文武天皇の妻の一人で、聖武天皇の母にあたる藤原宮子姫がこの近くで生まれたとされ、宮子姫の願いにより、文武天皇がこの地に道成寺を創建したと言い伝えています。宝仏殿におまつりされているこちらのお像は藤原宮子姫のお像とされます。もともとは、道成寺から500メートルほど離れた熊野街道にある熊野九十九王子社の内の一つの九海士王子社にまつられていた御神体で、明治の神仏分離の際に道成寺でおまつりするようになりました。

「奈良時代の道成寺は、九州の観世音寺や東北の多賀城観音寺跡と同じ観世音寺式の伽藍配置で建物が建てられ、講堂や金堂、柱が三列の複廊、僧坊などがありました。残念ながら当時の建物は残っていませんが、境内の発掘調査で、藤原京の時代の瓦や、平城京、平安京の時代の瓦が出土していますので、100年以上かけて造営されたと考えられています。」

「それではなぜ和歌山県のこの場所に観世音寺式の寺が置かれたのでしょうか。観世音寺式の寺々は、日本の東西南北を守る寺だとされます。先ほどお話した九州の観世音寺は鎮西の寺、東北の多賀城観音寺は征夷の寺なのでしょう。道成寺も「日本の南を意識して祈る寺」だと和歌山県立博物館の本に書かれています。立地的に見ても日高川の北岸で、南から何かが来た時の対策に向いているのかも知れません。
 そういう学者の意見はともかく、この寺をお預かりする住職としては、奈良時代に日本を観音さまの補陀落世界に見立てて、東西南北から国土と人心の浄化を祈る密教の寺々があった、道成寺は南の担当だったと思います。」
「奈良時代、日本の仏教の主流の一つは法相宗でした。現在のお寺でいうと奈良の興福寺さんや薬師寺さんの宗派です。この法相宗時代に作られた仏さまが現在も祀られています。本堂の中、南向きに安置している初代本尊の千手観音さまです。」

「こちらの千手観音さまは日本で3番目に古い千手観音像で、重要文化財に指定されています。初代本尊の特徴は、頭の上に十一の頭をのせていない、つまり正面のお顔のみの一面の千手観音像という点です。中国の古い千手観音像はみな一面で、初唐や盛唐の時代までは一面千手が多かったようですが、安史の乱で都が長安、洛陽から成都に遷り、そこで十一面化し、乱が終わって再び都が長安に帰った中唐以降は十一面千手観音像が主流になったとされます。」
「初代本尊の千手観音さまをよく拝みますと色が違う部分があることにお気づきになるかと思います。これは、復元された箇所と奈良時代のオリジナル個所という違いになります。黒く見えるところが平成3年の修理で復元した箇所、茶色い箇所がオリジナルの個所です。この修復のおかげで現在、私たちに美しいまなざしを向けていらっしゃいますが、修復以前はお顔はほぼありませんでした。それもそのはず、この千手観音さまは昭和60年から平成3年まで実施された本堂の修復の際に、秘仏としておまつりされる巨大な千手観音さまの内部にバラバラの状態でおさめられている姿で発見されたからです。奈良時代の千手観音さまがおさめられているという記録も残されておらず、私たち道成寺の者でも発見されるまで初代本尊の千手観音さまが秘仏の千手観音さまの中におさめられているとは知りませんでした。発見後にバラバラのお姿をもとのお姿に修復していただいて、奈良時代におまつりされていたもとの場所で私たちも見守っていただきたいと本堂におまつりしています。」

「また、道成寺には千手観音さま以外にも奈良時代から変わらず伝えられていることがいくつかあります。その一つが、本堂の基壇です。先ほど、初代本尊の千手観音さまを奈良時代と同じ場所でおまつりしているとお話しました。実は本堂の解体修理の際、本堂が建っている基壇の発掘調査をしてもらった結果、1300年前の奈良時代の基壇が見つかり、一度も雨にさらされていないことが判明しました。基壇の大きさも同じで、建物は後の時代のものですが、初代本尊がおまつりされている位置は場所も高さも奈良時代と同じだと分かりました。」
「さらに、宝仏殿におまつりされている釈迦如来坐像の両手も奈良時代にさかのぼるとわかっています。年輪の間隔から時代を推定する年輪年代測定という手法で調査してもらうと、740年代に伐採された木が用いられていました。この釈迦如来坐像はもともと金堂のご本尊であったと考えられています。金堂は現在の宝仏殿と本堂の間の開けた場所にありましたが、いつの時代か火事にあったようで、その際に運びやすい手の部分だけ救い出し、鎌倉時代に手以外の全身を作り直したようです。
 この時に金堂も再建されたのでしょうが、戦国時代が終わる頃に、金堂は「礎石ばかり」と記録されています。お釈迦さまは本堂に仮住まいだったようです。金堂の基壇は江戸時代まで残っていましたが、江戸時代の住職が行事のために基壇を平らにしてしまい、現在は地中に痕跡が残るのみとなっています。なお、本堂と宝仏殿の間に広い空間があるのは金堂の遺構を守るためという意味もあります。さらに、宝仏殿は鎌倉時代に作り直された釈迦三尊をおまつりすることから、金堂の意味もこめて建てられました。」
「他にも奈良時代から伝わる仏さまをおまつりしています。宝仏殿におまつりされる持国天立像と増長天立像になります。こちらの2躯は広目天立像と多聞天立像とあわせて四天王像としてまつられています。先ほどお話しした年輪年代測定法で四天王を調べてもらったところ、持国天と増長天は奈良時代、広目天と多聞天は平安時代に作られたことがわかりました。この調査を踏まえてみると、四天王像は、大きさも様式も二天と二天で特徴が違いました。このように、美術史からも文化財の科学調査からも、それぞれの仏さまの特徴が分かるっていることも道成寺の魅力の一つかも知れません。」

真言宗時代に国宝のご本尊さまが造立される

「それでは平安時代へと移りましょう。平安時代になると天台宗と真言宗ができましたが、道成寺がある紀伊国には高野山が開かれました。平安時代の紀伊国は真言宗一色になったでしょう。道成寺はもともと奈良時代の密教の寺で、道成寺もいつしか法相宗から真言宗に変わりました。ただし、改宗のきっかけは高野山では無かったようです。平安時代に宇多法皇という方がおられました。宇多法皇は仁和寺を開いたお方ですが、西暦907年に熊野御幸をされるなど熊野信仰とも深い関りがありました。道成寺のすぐ近くを熊野街道が通っていますので、宇多法皇か仁和寺さんの関係者が道成寺に立ち寄られたかもしれません。」
「おなじころ、西暦900年ごろに、国宝で現本尊の千手観音・日光菩薩・月光菩薩の三尊が作られました。ふつう日光菩薩と月光菩薩は薬師如来の脇侍で、道成寺の三尊の組み合わせは日本で唯一です。ただし、中国の唐の時代に、千手観音像の脇侍に日光菩薩または日天、月光菩薩または月天を従えた例が沢山あります。道成寺の現本尊三尊を作らせ、それを開眼した大阿闍梨は、中国密教を参考にしてこの組み合わせを選んだと考えられます。」

「この現本尊三尊と、宇多法皇や仁和寺さんとの関わりがあるのではないか、と教えてくれていそうな仏さまがいらっしゃいます。道成寺の月光菩薩の作風と仁和寺さんのご本尊の国宝・阿弥陀三尊の脇侍の観音菩薩の作風が似ていると指摘されています。写真で横からのお姿を拝むと素人ながらそっくりに見えます。おそらく、仁和寺周辺の仏師が月光菩薩を作ったのではないか、中国密教にならって千手・日光・月光の三尊形式を選んで開眼できたのは仁和寺さんではないか、という推測も浮かんで来ます。月光菩薩は「道成寺は仁和寺末、真言宗御室派になったんだよ」と黙って教えて下さっているのかも知れません。」

「ところで、千手観音さまは様々な持ち物を持っていますね。この持ち物を持物(じもつ)と言いまして、『千手千眼陀羅尼経』というお経にそれぞれの持物の意味が説かれています。例えば、薬壺を拝むと内科的な病気が治り、柳の箒を拝むとウイルスや寄生虫をとってくれると書かれています。私たちは仏像の迫力ある美しさに意識が向きますが、仏像ををよく拝むことで難しい経典の内容を理解することができます。ちなみに、先ほどお話しした『千手千眼陀羅尼経』の日本で一番古い完本、頭から最後まで揃っている千手千眼陀羅尼経は道成寺にあり、重要文化財に指定されています。」
万寿丸生誕七百年祭にあわせ道成寺へ里帰りした際に撮影

「真言宗時代には、こちらの宝仏殿におまつりされている多数の仏さまが作られました。その中でも特筆すべき仏さまが、現在東京国立博物館から依頼され長年にわたり寄託している毘沙門天立像です。こちらのお像は、四天王の一尊でなく独尊でおまつりされる毘沙門天立像の中で、日本で2番目に古いと博物館が認めた毘沙門天です。どんな信仰があったかは不明ですが、9世紀に作られた非常に古いお像になります。東京国立博物館を訪ねる際はぜひ拝んでください。」

「さて、真言宗時代に作られた仏さまについてお話してきましたが、この時代に道成寺を象徴する事件が起きました。そうです、安珍と清姫の事件です。せっかくですので絵解きをお聞き下さい。」

500年間続く絵解きの文化

「絵巻は、絵解きという説法に使われる道具でもありました。絵巻が痛むことから、今も絵巻を絵解きしているのは日本中で道成寺だけです。絵解きに使う絵巻の原本が室町時代に作られ重要文化財に指定されていますので、この時から絵解きしたはずで、およそ500年間絵解きし続けたことになります。道成寺の絵解きは、特別な行事で行うわけではなく、毎日平均6回、年間2000回以上絵解きしています。今では海外からお越しくださる方々もいますので、4カ国語の音声ガイドもできました。回数と、古さと、原本が重要文化財という芸術性で、世界に稀な伝統のようです。」

「この安珍と清姫の事件が発生したのは、平安時代の延長6年(928)のときの話であります。あと4年で1000年の節目になります。そこで、イベントを頑張って計画中ですので楽しみにしていてください。」

「それでは『道成寺縁起』という絵巻の写本を広げて絵解きいたしましょう。」
絵解きが始まると、ご住職はすらすらと絵巻を読み上げます。時にはユーモアを交えて、時には迫力を感じさせる口調で語ってゆきます。道成寺を舞台に繰り広げられる安珍と清姫の物語の世界に引き込まれたひと時でした。ぜひ皆さまも道成寺にて500年続く絵解きの文化を体感してみてください。

「ご清聴ありがとうございました。今お話しした安珍と清姫のお話は後の時代に様々な芸能に取り入れられました。これらの演目はまとめて道成寺物と呼ばれ、その数は主なものだけで20以上になります。こちらの絵解きの部屋には、道成寺物で使われる大道具を展示しています。」

「また、芸能の題材になったことで知られる安珍と清姫のお話ですが、最初は法華経の霊験を説く説話でした。もともと、このお話は比叡山横川首楞厳院の鎮源さんによってまとめられた『大日本国法華験記』ではじめて文章化されました。こうしたことから、男女の物語ということだけでなく、法華経の功徳譚という視点で捉えることができるお話でもあります。そうしたことから親しみやすく、深味もある物語となったのだと思います。」

天台宗のお寺となり現代へ

「それでは最後に天台宗の寺になった江戸時代のお話をしたいと思います。長い間真言宗のお寺であった道成寺ですが、戦国時代に危機が訪れます。それは羽柴秀吉公による紀州征伐でした。このとき道成寺は本堂以外の全ての御堂を失い、本堂は駐屯地となり検地や刀狩りのオフィスになったようです。そのせいで道成寺はいったん破産しまいました。その後、徳川家康が天下を平定し紀州の地に紀州徳川家が入りました。紀州徳川家は天台宗を信仰しており、道成寺は天台宗のお寺となることで紀州徳川家の庇護を受けるようになりました。」
「天台宗のお寺となってから作られた仏さまをご紹介しましょう。念仏堂におまつりされている阿弥陀如来ですお名前を「五劫思惟阿弥陀如来坐像」と言いまして、全ての人を救うにはどうすればいいか五劫という長い間瞑想をしている姿を表していて、その瞑想の期間に髪の毛が伸び放題になった姿をあらわしています。類例の少ないお像で、和歌山県指定文化財になっています。」

「いままでお話してきたように、道成寺には様々な宗派の時代に作られた多様な仏さまがおまつりされています。この多様な仏さまをたくさんの方々に拝んでいただくとともに、その価値を鑑賞していただける美術館に負けない施設を建てたいということで、国が補助して下さった文化財収蔵庫に、自費で御堂のような内装を追加して宝仏殿という建物を建てました。外国人観光客に向け、30年前からライブの英語絵解きを、令和6年からスマホで聞ける4カ国語の音声ガイドを導入し、個人目的に限り仏さまの写真の撮影とSNSへの投稿を許可しました。」

「また、仏さまだけではなく、先ほどお話しした安珍と清姫の伝説とそこから花開いた芸能の数々も道成寺にとって大切な文化です。道成寺は、1800年続く祈りの場としての営みと、伝説や芸能などの文化という両輪があるからこそ続いて来ました。この信仰と文化の両輪を大切にし、道成寺を訪れる参拝者の皆さまとともにこれからの歴史を紡いでいきたいと思います。」

参加大学生の感想

「伝える」ということを非常に大切にしている寺院であると感じました。弥生時代の銅鐸や奈良時代・平安時代・南北朝時代の千手観音さま等多くの仏さまに加え、今でも続けて行われている絵巻を用いた道成寺縁起の絵解きが伝えられ、数時間滞在しても興味の尽きない寺院でした。ご住職のご案内の中で、ご本尊の千手観音さまをおまつりする殺風景な収蔵庫にするのではなく、訪れる人々が美術的に楽しみつつ仏さまにお参りする空間づくりを目指していることや多言語対応、撮影の自由化など様々な取り組みを行っていることを教えていただきました。銅鐸が埋められた弥生時代から奈良時代、平安時代と時代が移り変わり存続の危機が訪れても、道成寺の人々がお寺の魅力をどのように伝えていくのか様々な工夫をおこない、行動してきた精神的な文化が受け継がれているからこそ、お寺が守られ現在までも続く篤い信仰空間が伝えられているのだと感じました。

奈良大学博士課程前期1年

今回の訪問では、ご住職の『道成寺の文化は1800年以上続く祈りの場所という側面と鐘を取り巻く人々の存在という両輪があってこそ伝えられている』という言葉が印象深く残っています。和歌山県を代表する古刹として道成寺を知っていましたが、道成寺のある場所が仏教伝来よりも数百年も昔から祈りの場所であることに驚いたとともに、祈りの仕方や宗派は移ろいながらも人々の願いを受け止める場所という根幹の部分が1000年以上も受け継がれてきたことに感動しました。そうして受け継がれてきた祈りの場所という歴史の中で安珍清姫伝説に代表される人々の営みが組み合わされることで、たくさんの人々が親しむ道成寺の独特の文化や雰囲気が作り出されているのだと感じました。

立命館大学博士課程後期1年
道成寺
〒649-1331 和歌山県日高郡日高川町鐘巻1738