比叡山延暦寺国宝殿・春季企画展「延暦寺の宝物を守り伝える-修理・保存・継承-」特別見学
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いろり端

特集「一隅を照らす」

令和6年5月18日(土)(春季企画展 令和6年4月20日~6月17日)

比叡山延暦寺国宝殿・春季企画展「延暦寺の宝物を守り伝える-修理・保存・継承-」特別見学

【2024年5月18日訪問】
延暦寺には、国の指定を受けている文化財だけでも国宝が9件、重要文化財が50数件ほどあります。古いものは焼き討ちなどで失われてしまっている印象も強いと思いますが、仏像や書跡といったものが意外と多く残っていることに驚かされます。今回の企画展示「延暦寺の宝物を守り伝える」では、これまで最澄さんが延暦寺を開かれてからどういう風にして宝物が守り伝えられてきたのか、また現在行われている文化財修理の裏側を紹介するという展示を行っています。
今回は比叡山延暦寺の宇代貴文学芸員にご案内いただきました。

釈迦如来坐像

 宝物館を入ってすぐにありますこの釈迦如来坐像は、もとは延暦寺にあったものではなく、東南寺という比叡山麓の下坂本から持ってこられた像になります。東南寺は、今は戸津説法が行われている寺院です。戸津説法は、天台座主になるための登竜門になる儀式で、8月下旬に5日間かけて法華経について講義を行うというものです。それを行うと「望擬講」になり、天台宗のお坊さんとして学問的に上の職に就くことができます。天台宗は修行とともに学問も重要視しており、これを解行双修といいます。修行と学問の両方ができることで、バランスの良いいいお坊さんになると最澄さんがおっしゃっており、その両方をしっかりとやる必要があるとされています。その東南寺にあった像なのですが、もとは横川の霊山院に安置され、焼き討ちの時に東南寺へと移されてきたといわれがあります。この像に限らず焼き討ちのときに移されて難を逃れたというのには、延暦寺が仏さまを避難させるシステムが構築されているからであり、そのため「比叡山の仏さまには足がある」というようにもいわれています。

この像は平安時代後期に造られました。霊山院は、日本の浄土教を大成した恵心僧都源信によって建てられた寺院であります。源信によって書かれた『往生要集』の中には六道について説かれ、人間の住む世界以外にも地獄・餓鬼・畜生・修羅・天という世界があり、人が死んだ後に別の世界へ輪廻転生するという考え方があり、悟りを開かなければこの六道のどこかに生まれ変わってしまうというのです。源信さんは仏さんに対して念じていれば極楽浄土に行くことができると考え、南無阿弥陀仏と念仏を唱えることを勧めました。お釈迦さまが、かつて王舎城というお城の裏にある霊鷲山という山で法華経を唱えたことから、霊山院という名がつけられており、本尊として釈迦如来坐像がまつられていたそうです。
古い記録によると、霊山院には、定朝の父であり師匠にあたる康尚によって造られた釈迦如来像があったといわれています。平等院鳳凰堂の阿弥陀さまを造ったことでも知られる定朝の時代は、日本史で国風文化といわれるように仏像も大陸から伝わってきたものがだんだんと和様化していきます。この釈迦如来坐像もそのような影響を受けた像であります。そのような平安時代の仏さまが比叡山に残っているのは何かしらの形で残すために工夫や努力が行われたために今も残っているのだといえます。

阿弥陀二十五菩薩来迎厨子

 これは厨子といいまして、仏さまを納めるケースのようなものです。室町時代に造られました。もとは律院という東坂本の阿闍梨さんがいらっしゃるお寺にありました。今の律院の建物は近代に移築されており、もとは大阪府高槻市にある金龍寺の建物でした。金龍寺というお寺は寺門派の「千観」というお坊さんがいらっしゃったお寺です。その千観さんというお坊さんは、『観無量寿経』に説かれる十六の極楽浄土に行くための方法の一つである「日想観」を行った人で、日想観は太陽の没するのを観想することです。そこに伝わっていた厨子になります。
 この厨子には西方極楽浄土から二十五菩薩を従えた阿弥陀さまがこれから亡くなる人を迎えに来る様が描かれています。下の方にも願主と思われる尼さんが描かれています。よく見ると真ん中に銘があって聖真というお坊さんが亡くなる前に事前にお勤めをし、極楽浄土へ行けるようにする「逆修」を行ったと書かれます。この銘は後書きであるとみられており、この聖真さんが造ったものではなく受け継がれたものを、逆修の時に用いたようです。
 厨子には仏さまを納めるものであるにも関わらず、背面に絵が描かれています。答えは分からないのですが、この厨子の中に何かの像が入っていたことは間違いないと思っています。そうした中で願主の像や金龍寺にあったことから開基の千観のお像がおまつりされていた可能性があると考えています。千観さんが平安時代で、この厨子が室町時代に造られたことか時代は異なるのですが、室町時代に何らかの目的をもって造られたことが想像できます。どういった目的で造られたのか考えながらみていくのも面白いと思います。

薬師如来坐像 

 一階展示室の奥にいらっしゃる仏さまが薬師如来坐像です。元々は篤志家の方から寄進を受けて根本中堂の護摩壇におまつりされていて、その後国宝殿に来られました。近年になり、もとは奈良の興善寺にあった仏像であることが分かりました。その興善寺にも江戸時代に移されていたようで、付近にあった粟原寺からもたらされたようです。粟原寺は古い歴史をもつ寺院で、サンフランシスコアジア美術館等に粟原寺にかつてあったとされる仏像がある他、三重塔の伏鉢などが残されています。この像が造られた平安時代中期(10世紀)ぐらいに栄えていたと考えられ、いわゆる談山神社の別当寺のような位置であったとみられます。また談山神社はもともと天台宗ではなかったのですが、良源さんの弟子である増賀というお坊さんが入って天台化した時期がありました。
 この仏さまの特徴的な点として、右手が下がった施無畏印をしています。興善寺に明治時代の同じ姿の写真が残っており、この延暦寺のお像が興善寺からもたらされたのだとわかりました。

十二神将・梵天帝釈天立像

 こちらの十二神将・梵天帝釈天立像は根本中堂におまつりされている像で、今ちょうど修理が終わったものを国宝殿で展示しています。これから残りの二体の修理が始まります。以前は根本中堂が再建された寛永期の像であると思われていましたが、修理の際に銘文が見つかったことで鎌倉時代の作であることが分かりました。像内の銘から頼弁という名の仏師の作であることが分かりました。聖衆来迎寺の客殿にある日光・月光菩薩にも同じ仏師の名が書かれているようです。また勧進を行なった栄賢という人物も同じであるため、聖衆来迎寺像の方が古いようなのですが同じ人々のもとで造られた像になります。延暦寺像も聖衆来迎寺像も京都の元応寺から伝わった考えられています。延暦寺が室町時代に焼けてしまったときに十二神将像を元応寺の人に頼んでいることが、聖衆来迎寺の歴史書である「来迎寺要書」に書かれています。

焼き討ち等で延暦寺の仏像が他所に移されることもあったのですが、目録といった資料は残っておらず、伝承や墨書などから延暦寺から移ってきたことが分かります。特に滋賀や京都、八瀬周辺には比叡山と関わりのある仏様が残っています。

五大明王像

 こちらは無動寺に本尊として祀られていた五大明王像です。この中の不動明王像は、焼き討ちのときにお坊さんに担がれて京都に避難したという伝承があります。鎌倉時代末から南北朝時代にかけて記された門葉記という書物が青蓮院にあります。その中の比叡山に関する記述の中で明王堂の指図があり、その中に五大明王像が描かれています。その絵図の中に五大明王とは別に回峰行を始められた相応和尚が造った不動明王像もあったとされています。そのため、無動寺明王堂の中には複数の不動明王像がおまつりされていたようです。
この像は生彩に富んだみなぎる姿等から、運慶の子である湛慶の作風と近いのではないかといわれています。ちなみに、X線透過撮影を行ったところ、明治時代の修理の痕跡が分かりました。明治時代は仏像の修理にボルトを使うことがあり、X線透過撮影ではっきりとボルトが映っていたそうです。

葛川明王院 千手観音菩薩立像・毘沙門天立像・不動明王立像

 比叡山の北部の葛川にある明王院の本尊である千手観音・毘沙門天・不動明王像です。7月になると行者たちが夏安居を行い、太鼓回しという行事が行われる回峰行の聖地と言われる場所です。明王院で、千日回峰行を始められた相応和尚が修行をしていました。葛川明王院にある滝で修行中にお不動さまを感得して滝に飛びこんだところ、お不動さまが木に代わり、これをもって不動明王像を彫ったという話があります。
 本来の本尊は不動明王像であったと思われるのですが、現在の本尊はこの千手観音・毘沙門天・不動明王像です。相応和尚の師匠にあたる円仁さんが創建した横川中堂の本尊が聖観音で、脇侍が毘沙門天・不動明王像になります。葛川明王院の三尊は、横川中堂の三尊に倣ったものではないかといわれています。このお像自体は相応和尚がいた10世紀からくだり、12世紀の像になります。截金や彩色等がきれいに施されていますが、衣の彩色は当初の部分と後補の部分が混ざっています。葛川明王院は、実は室町時代が全盛期になります。参籠札があって足利将軍家が参籠していることが分かる他、結びつきが強かった青蓮院が力を持っていた時期も鎌倉時代終わりから室町時代にかけてでした。4度天台座主を務めた尊円法親王が青蓮院門主をしていた時期で、経済的に恵まれていたことから、仏像の彩色もこの頃の修理のものと思われますが、様式的には平安後期の仏画に見られるようなきらびやかな団花文や截金が多用されています。
 観音・毘沙門天・不動明王という三尊形式は天台系であるとよくいわれているのですが、この三尊形式で有名な横川中堂がこの形になったのは、円仁さんから下り良源さんの時代であるといわれます。元々は聖観音と毘沙門天をまつっていたところに、後で不動明王を加えたようです。そのため、相応和尚さんだからこの三尊形式であるとは言えないかもしれません。またこの三尊は別の場所から移されたともいわれています。厨子には銘文があり、鎌倉時代の銘文があります。延暦寺の中世の記録に西塔に宝幢院というお寺があり、そこでは千手観音と毘沙門天・不動明王の三尊がまつられていたようです。ひょっとすると、葛川明王院に伝わったこの像が、もとは宝幢院や関係寺院に伝わっていたのかもしれません。
 葛川は鯖街道が通る交通の要所であったほか、林業によっても栄えていました。鎌倉時代の葛川周辺と伊香立が土地争いをしたときに描かれた地図が残っています。炭焼きが盛んに行われており、炭焼きの利権をめぐっての土地争いだったようです。

正親町天皇綸旨

 織田信長による焼き討ち後に比叡山の復興が行われますが、復興時には豊臣秀吉が許可を下し、その翌年に正親町天皇が各大名に復興のための資金を募るための勧進が行われます。本書はそのときに出された正親町天皇の綸旨で、伊達家に宛てたものです。天皇の文書であるのに、灰色の紙が使われていることに疑問に思うかもしれません。天皇の出される綸旨には宿紙と呼ばれる漉き返しの再生紙が用いられます。平安時代に綸旨には再生紙が用いられ、以来綸旨にはこの灰色の紙を用いるようになります。

 延暦寺の焼き討ちが行われた後から復興に向けた準備が行われていたと思いますが、織田信長が天正10年に亡くなったあとの天正13年にこの綸旨が出されており、タイミングを見計らっていたのだと思います。この時の復興では施薬院全宗と詮舜というお坊さんが活躍しました。全宗は豊臣秀吉と懇意の関係であったお坊さんで、天台宗のお坊さんでありながら秀吉の侍医でもあり、交渉役も担っていました。また草津の芦浦観音寺の住職をしていた詮舜というお坊さんは、豊臣秀吉だけでなく織田信長とも繋がっていた人物です、詮舜は焼き討ちの前にある程度情報を得て観音寺に逃げていたため、焼き討ちの被害から逃れ西塔釈迦堂の復興に尽力しています。観音寺は琵琶湖の水運の要所でありました。嘘か本当かわからないのですが、延暦寺に天正再興文書というものがあり、そこでは天正期に再興を行おうとして芦浦観音寺が仮の比叡山として復興するということがあったようです。ただし、このことを実証できるような資料が他になく、天正再興文書が明治時代に書かれた文書であることからも、あまり正確な情報ではないのかもしれません。ただし観音寺が山門復興のカギを握っていたようでこの寺には延暦寺関係の文書が多く残されています。

慈眼大師坐像

 慈眼大師天海は東京上野の寛永寺を創建した人物で、江戸時代に比叡山再興に尽力されたお坊さんです。徳川家と強い繋がりを持ち、比叡山の再興で根本中堂の再建や東塔の整備を指揮していきました。慈眼大師天海は比叡山の南光坊にいらしたとされ、ケーブルを上がったところに南光坊跡の石碑が建てられています。
 このお像は麓の慈眼堂というお堂にありました。その慈眼堂には慈眼大師天海のお墓があります。彩色が施されている像です。栃木県日光にある輪王寺に寛永17年に造られた天海のお像があります。天海は寛永20年に亡くなっていることから、輪王寺の像は生きているときに造られたお像ですが、輪王寺の像とこの像が似ており、天海の雰囲気を正確に表しているとみられます。頬骨が張ったがっちりとした顔をして、探題帽と呼ばれる探題さんが着けることが許される白い頭巾のようなものをかぶっています。この帽子は天座主や探題さんだけが着けることを許されたもので、天台宗でも学問に優れたお坊さんの一人であるということになります。

慈恵大師坐像

 慈恵大師良源は、平安時代中期に活躍したお坊さんで、18代目天台座主であります。比叡山を再興し、今の東塔・西塔・横川という三塔の形を作ったのが慈恵大師良源になります。また法華大会という天台宗のお坊さんの最終試験を始めるなど、教学を盛り上げ、お坊さんの規律を作り今の比叡山の基礎を作った人物であるとされています。そのようなすごい人物であったため、鎌倉時代に篤い信仰を集め、お坊さんなのですが半分神様のように比叡山の守り神として崇拝されます。伝教大師最澄よりも多くお像が造られており、横川の元三大師堂には慈恵大師良源を鏡に映したところ鬼に変わった姿を写した角大師の札があり病魔を払ったり降魔の力を持っていたりするとされています。
 国宝殿には鎌倉時代に造られた2体の慈恵大師坐像がおまつりされています。本覚院の慈恵大師坐像は像内に墨書が残っており、横川のお坊さんである栄盛さんが33体の慈恵大師坐像を造ったうちの1体であることが分かります。この像の兄弟は金剛輪寺や曼殊院にもお祀りされており、本覚院のお像はその中の5番目に造られたお像になります。

千手観音菩薩立像

 千手観音菩薩立像は、延暦寺内で現存最古の木彫像で、平安時代(9世紀)に造られた像になります。山王院というお堂におまつりされていました。山王院は5代天台座主を務められた三井寺の智証大師円珍がいらした住坊のようなお堂です。良源さんの時代に円仁さんの派閥と智証大師円珍の派閥があり、座主の後継者を交互に務めていましたが、円珍派の余慶が座主を務めたときに抗争があり円珍さんの派閥の人たちは山を下りざるを得なかったという出来事がありました。三井寺には貴重な智証大師円珍等に関わる書状が残されており、近年ユネスコの「世界の記憶」に登録されています。

維摩居士坐像

 この維摩居士坐像は平安時代(9世紀)に造られた像です。黒谷の青龍寺というお寺に伝わった像で、法然さんが源空であったときに修行していた地になります。この維摩居士は維摩詰ともいう在家の長者で、弁舌がとても上手でお釈迦さまのお弟子さんに問答で勝つほどの人物でした。維摩詰が病気にかかり家で療養していたときにお釈迦さんがお見舞いに行ってあげたらということになりましたが、問答で論破されたことがあったので、みんなお見舞いに行くことを嫌がりました。文殊菩薩がその中で最も頭がよかったことから維摩詰のところに行き、仏教の教えの真理について問答するという話でよく知られています。
 この像の頭はてっぺんが尖っています。そのためこの像は、円珍をモデルにしているのではないかともいわれています。円珍の頭の形は特徴的で、いわゆるおにぎり頭で尖って表されています。円珍はこの盛り上がった頭の形で危ない目にあっており、特徴的な尖った頭は中国では霊骸といわれ、その霊骸を持つとすごい力を持つことができるという迷信があり、命を狙われたことがあるそうです。円珍さんは弁舌がたつことでも知られており、その姿を維摩さんと重ねたのではないかという意見もあります。

春季企画展「延暦寺の宝物を守り伝える―修理・保存・継承―」

 延暦寺の宝物・文化財というものが古くからどのようにして管理されてきたのかということを紹介する展覧会になります。宝物の保存・管理は草創期の最澄さんの時代から行われていました。延暦寺で最も古い蔵は根本経蔵と呼ばれ、根本中堂の中にあり中国から持ち帰ってきたお経や袈裟といった貴重な法具が納められていました。そういったところから延暦寺の宝蔵・経蔵の歴史が始まったのでした。

根本中堂霊宝目録・勅封唐櫃

 根本中堂に納められている宝物の目録になります。今は根本中堂に宝物を管理する場所はないのですが、この目録には桓武天皇像や伝教大師筆と伝わる法華経といったものが根本中堂にあったことを示しています。実は延暦寺の特に重要な宝物を納めた勅封唐櫃というものがあり、法華大会という法要でのみ開けられます。その中に現在も納められている宝物が、根本中堂霊宝目録に記される宝物とリンクしています。おそらく焼き討ち以降に霊宝目録や勅封の形ができ、その形が今に残っているようで、焼き討ち以前は異なっていたようです。ただ宝蔵や経蔵といった宝物を守る蔵のあり方は残っていて、霊宝目録というのも中世までの延暦寺の中堂にあった宝物を管理するシステムが受け継がれているのだと思います。 
多くの文書が焼き討ちの被害を受けて焼失してしまっている中、最澄さん直筆の書など残っているものもあります。根本中堂にあったものなのですが、一時期横川の飯室の松禅院に移されていたことがあるそうです。そのようなことがあったために現在まで残っているのかもしれません。
 勅封唐櫃の中央に挟まれている紙には天皇の勅使さんの花押が記され、その中に、勅符が施されています。

比叡山御造営官宣旨

 寛永期に山内を整備して根本中堂や大講堂を復興するときの公文書で、地鎮や地曳、柱立といった儀式を行う日を決めています。この官宣旨にはセットとなる文書があり、そちらは陰陽道が出した文書になります。日にち関係は陰陽道の人に依頼することが多く、適した日にちを3つほど上げてもらいその中から選んでいます。儀式等はお寺だけで勝手に決めるのではなく、朝廷に確認を取りながら行っていきます。

江戸時代の仏像・仏画・工芸等の修理記録

 江戸時代の延暦寺で絵画や彫刻等修理した時の記録になります。延暦寺に出入りしていた業者は仏像では七条仏師、絵画では木村了琢、仏具関係では浜岡道泉によって行われたことが分かります。色や特徴等の基本データや状態を記した上で、上・中・下の3つの見積もりが出されています。その中でどれを修理するかどのような修理を行うかを選択していきます。延暦寺のこういった修理目録は叡山文庫に残っています。

例えば、西塔関係の修理記録は生源寺の蔵書に多く残っていますが、これは生源寺が西塔の総里坊であったためです。

比叡山延暦寺宝物目録・鑑査状

 明治時代に作られた目録です。延暦寺も幕末から明治にかけて神仏分離に伴う廃仏毀釈によって、仏像、経典が破壊されるなど甚大な被害を受けました。比叡山では特に麓の日吉大社が影響を受けていて、延暦寺が管理していたお堂の鍵を取り上げられ、仏教関係の仏像や懸仏といったものをすべて捨てるということが記録に残っています。その時期は明治政府が上知令を発布したことで、寺社領が没収され、延暦寺も経済的に困窮していました。そのような中で文化財も流出してしまうことがありました。それではだめだということで明治21年に九鬼隆一らが臨時全国宝物取調局を設置し、近畿一円の調査が行われました。その中に延暦寺も含まれており、明治24年以降に評価がされた鑑査状が公布されました。
明治30年に古社寺保存法という文化財保護法の前身の法律ができ、いわゆる旧国宝と呼ばれる古社寺保存法での国宝が指定されました。国宝目録は、その国宝に指定された宝物を記した目録になります。
昭和25年に文化財保護法が制定されたことにより国宝と重要文化財という新たな枠組みができました。

護法童子立像

 鎌倉時代の護法童子像です。修理のため解体したところ、像内から金銅不動明王立像や水晶五輪形塔舎利塔、不動明王印仏が出ていました。従来通りの修理を行うつもりでしたので、像内からこのようなものが出てきて驚かされました。造形当初から像内に納められていたもので、きれいな状態で守られていました。

薬師如来坐像

 薬師如来坐像は西塔の瑠璃堂にまつられていた像で、現在は延暦寺会館でおまつりされています。最近修理が完了した像になります。この像はだいぶ傷んでしまっており、崩壊しかかっていました。
延暦寺が仏像の修理する時には、修理専門の工房に頼むことになります。延暦寺では地元の楽浪文化財修理所に依頼をしますが、重要文化財や国宝の場合は美術院が修理することになります。

阿弥陀八大菩薩像

 朝鮮半島の高麗時代(14世紀)に造られた仏画で、近年滋賀県の指定文化財になりました。この絵の修理では古い表具を取り外しており、取り外した表具の部材も一緒に展示しています。以前の修理の記録が軸木に書かれることも多く、この絵の場合、寛文・元禄・寛政の三度の修理が行われていました。江戸時代には根本中堂にあったようです。
 日本には高麗仏画が多く残っており、確認されている約160件のほとんどが日本に伝来しています。そして韓国にはほとんどありません。韓国は仏教を一度廃絶している時期があり、そういった時期に日本にもたらされています。
 延暦寺にはこのような朝鮮半島や中国といった外国から伝来した掛軸等もあります。修理としての必要な技術としては同様なため、修理の方針としては日本のものと変わらず行われます。
 絵画の文化財の修理を行う前に事前の調査を行い修理の方針を決めていきます。文化財の修理では現状のままを維持し、後世に伝えることを重視しますが、その中でも欠失箇所をどうするかということは難しい問題になります。欠失箇所をとってしまうと絵の印象が変わってしまうため、除去せずにそのまま残して置く場合もあります。例えば阿弥陀八大菩薩の光背は後補に描かれた部分になります。しかしその部分をとってしまうと印象が大きく変わってしまいます。補絹という後の時代に補われた絹もありますが、結構上部が傷んでいました。事前調査をもとに、当初の形を生かすか、後世の修理の形を残していくかどうか修理方針を決定します。国指定の文化財の場合は文化庁の方々と相談しながら進めていきます。
欠失しているところの絹はできるだけ背景の色に合わせた自然な色合いを残して、違和感があれば補絹の部分を補彩して色を付けていきます。その時には加筆といわれる線を新たに加えるようなことはしません。
江戸時代の修理では、肌裏紙と呼ばれる本紙の裏に貼られる紙があるのですが、墨染めの黒い紙が用いられていることで暗い印象がありました。今回の修理では、明るめの茶色っぽい肌裏が用いられることで、絵が見やすくなります。ただ汚れて見えてしまうところがあり、それをどう合わせていくかは難しい問題になります。
文化財の修理は、ぱっと見で何が変わったのかわからないといわれることがあります。実は折れがありボロボロになっていたのですが、新たな裏打ちが施されたことにより平たくなり画面が見やすくなっています。修理の時に外された古い軸なども基本残し、記録として重要な資料として残していきます。延暦寺では毎年予算を組んで文化財修理を継続的に行っていますが、膨大な量の宝物があるため、すべての修理が完了することはありません。
今回の展示で修理現場の取材や、修理道具をお借りするなど、ご協力うをいただいた坂田墨珠堂は、国指定文化財の絵画や書跡の修復を行うことが許された国宝修理装潢師連盟に加盟しており、滋賀県内にあることから修理をよくお願いをさせていただいています。また他には岡墨光堂や光影堂に依頼することがあります。

摩訶止観

 書跡の修理では一枚一枚取り外し、虫食いの跡の部分をスキャンして穴が開いてしまっている部分と同じ形の紙を作り、その紙で穴をふさいでいくという修理を行います。細かい部分まで丁寧に穴と同じ紙を作りふさいでいく、大変な作業が行われています。

根本中堂勅額

 最後に入口にあるこの扁額は、普段は根本中堂の中陣の上にかかっているのですが、根本中堂が改修工事を行っているため現在下ろされて、国宝殿にあります。「伝教」という文字は、最澄さんの大師号になります。この扁額は昭和12年に昭和天皇が比叡山に下賜されて以来根本中堂にあるのですが、根本中堂の回収に合わせこちらもきれいに塗り直されました。工事が終われば高い位置に戻されるため、近くで見ることができる貴重な機会になります。

参加学生より

今回お世話になりました。国宝殿が護られている文化財の重要さを改めて考える機会になりました。
本当にありがとうございました。

奈良大学 博士前期1年
比叡山延暦寺
春季企画展「延暦寺の宝物を守り伝える-修理・保存・継承-」特別見学
訪問日 令和6年5月18日