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特集

第7回大学コラボフォーラム

世界最古の企業、日本の寺社建築を支える『金剛組』と日本文化について語る【前編】

大学コラボプロジェクトに参加している大学生が、その活動を通じて出会ってきた「文化」をさらに知るため、文化を支えてこられた方々と対話し、その魅力を深める大学コラボフォーラム。

第7回目の今回は、日本社寺建築を支え続ける世界最古の企業、金剛組の取締役大阪本店長、阿部知己さんと、宮大工の棟梁で金剛組の7つある宮大工の組を束ねる匠会の会長でもある株式会社木内組代表取締役社長、木内繁男さんをお招きし「伝統文化を未来につなぐには」をテーマに語り合いました。
■開催概要
令和4年6月11日(土)10:30~11:30(約1時間)
会場(キャンパスプラザ京都)・オンライン視聴(Zoomウェビナー)同時開催

出演
阿部 知己さん金剛組 取締役大阪本店長
木内 繁男さん
株式会社木内組 代表取締役社長

ファシリテーター
長崎 真拓 京都大学
矢島 朋弥
 京都大学大学院

Profile

阿部 知己さん

・1981年 株式会社金剛組入社
・工事部配属(大阪)四天王寺境内整備工事、(京都)長岡天満宮造営工事、(兵庫)長圓寺本堂・納骨堂・庫裡新築等の工事管理に携わる。
・2003年より営業部に所属。
(大阪)住吉大社境内整備、(大阪茨木市)総持寺包丁式殿、(京都)赤山禅院食堂、(大阪寝屋川市)成田山明王院新山門等 話題性のある建物を担当する。
・2020年より取締役大阪本店長に就任。

木内 繁男さん

株式会社木内組 
代表取締役社長

・昭和44年 工業高校卒業後、金剛組宮大工の父に弟子に入る。
・四天王寺伽藍復興に従事、太子殿奥殿、南大門、東大門、太鼓楼、管長内司等、新築工事及び、五智光院、湯屋方丈、兵庫県、長遠寺本堂解体工事など重要文化財建造物の修理工事も行う。
・現在、大阪府 成田山大阪別院明王院新山門新築工事施工中。長崎県(重要文化財)聖福寺大雄宝殿・山門保存修理第1期工事施工中。

長崎 真拓(京都大学)

幼い頃から日本史と世界史を愛しており、特に静岡県で育ったこともあり、徳川家康の生き方を仰ぎながら育ってきました。自分の置かれた状況や社会情勢を歴史の一場面に重ね合わせて考えるのが好きで、大学コラボプロジェクトの参加もその延長にあります。また中学生の頃から国際政治に強い興味があり、将来は国際社会で活躍できる人間になりたいと考えております。
「グローバル化」や「グローバル教育」がしきりに唱えられる昨今、世界へ目を向ける若者の多さは素晴らしい潮流だと感じる一方、自分たちの足元にある大切なもの(=日本の歴史や文化)を見逃して、「日本人自身を語れない日本人」になってはいないか、ということに問題意識を持っています。本プロジェクトを通して「日本文化」を様々な観点から同世代の人々に伝えていくことで、「私たち日本」を深く語れる若い世代を増やしていきたいと考えております。

矢島 朋弥(京都大学大学院)

私は小学校の修学旅行で京都・奈良の寺社仏閣を訪問したことをきっかけにお寺の建築や仏像などの文化財や歴史に関心を持つようになり、大学では日本古代史を専攻しております。私の関心を活かすことのできる場所であると考え、大学コラボプロジェクトに参加させていただくことになりました。 このプロジェクトを通じて多くのお寺を訪問しそこに携わる方々とお話させていただくなかで、文化財は単なるモノではなく、多くの人々の想いが込められた地域の財産であると考えるようになりました。同時にそれらを後世に伝えることの難しさも痛感し、強い危機感を抱くようになりました。本プロジェクトを通して、これからの日本を担う若い世代が中心となって、さまざまな視点から文化や文化財の魅力を発信することで、微力ながらその継承に貢献したいと考えております。

【前編】

はじめに、阿部さんから金剛組についてご紹介いただきました。
金剛組の創業は飛鳥時代、578年で、世界最古の企業と言われています。現在、大阪の本社をはじめ全国各地 9か所の拠点があり、社員113 名と金剛組専属の宮大工7組・約110 名が在籍し、連綿と受け継がれた伝統を守り技術を磨いています。
創業以来、日本最古の官寺である四天王寺正大工(お抱え大工)として四天王寺の建物を守るのが仕事でしたが、明治の神仏分離により、四天王寺も含めた多くの寺社仏閣の寺領も減ったことから、宮大工の仕事環境も大きく変わったと聞きます。
(以下、敬称略)

日本建築と宮大工

長崎いまご紹介された中で、木内さんが担当した建築は何ですか。

木内法然寺五重塔、長保寺の山門と多宝塔、を担当しました。

長崎法然寺五重塔を担当された時、印象に残ったことはありましたか。

木内五重塔は地震には強いですけれど、火災と台風に弱いんです。ですからだいたい、風の来ない山の際に建てるんですけれど、法然寺はみんなが見られるよう、一番下の駐車場の横に建てたので、風がすごいんです。ですから台風のたびに電話して「大丈夫でしたか?」と確認していたんですけれど、いつも「金剛組さんですから大丈夫です」という返事で安心しています。

工事は長期にわたりますが、一番印象に残ったのは心柱の伐採です。心柱は1本じゃ難しく、法然寺は2本継ぎだったのですけれど、その材の伐りだしに吉野の大台ヶ原の下の方に行きました。山主さんが目星を付けた木に赤いテープを巻いておいてくれて、その中からまっすぐな木を選びます。でも、斜面に立って見るので、本当にまっすぐなのかの見きわめが難しいのですよ。伐るときは普通、谷に向かって倒すのですが、吉野は山の背に向かって倒します。その方がダメージが少ないからです。伐採後はヘリコプターで吊れるだけの長さに切断して山から降ろし、トレーラーで製材所まで運びます。心柱を加工する際、長いので、置いておくとクセで曲がってくるんですね。ですから1週間に1回向きを変え、クセが付かないように養生します。建てるときは1本目の心柱を立て、まわりを3層目まで組んでから、2本目の心柱をレッカーで立てて継ぐのですが、とにかく大きいし、現場では湿度などの関係もあり、工場で何回もすり合わせした通りにはいかないんです。この時はうまく入ってくれてホッとしました。五重塔は5回同じような層を組むので、1層目は時間がかかりますが、それ以降の作業は繰り返しになるので、5層目はものすごく早く仕上がりました。1層目の時に僕が3分の1の模型を作って前日にシミュレーションしたこともあり、割とスムーズに組めたと思います。

長崎大工事になると思うのですが、最もやりがいを感じたのは、どんな瞬間ですか。

木内完成したときはいつもやりがい感じます。ですが、僕がいつも感動するのは、建てる前日の景色です。この景色はいつもいいなと思って見ているんです。というのは、今日しか見られない景色ですから。朝には柱が1本立つのですから。何もない景色というのは、この瞬間しか見られない。建物が建ってしまえば、あと何百年かはこの景色が見られないですからね。

会場からの質問

長崎ではここで、会場からの質問を受けたいと思います。

――――――毛越寺という奥州の寺院がありますが、昔の設計図が全くないらしいのですね。図面がなくても建てることはできますか。

木内設計図がなくても、結果的にはできます。まず、設計図をつくるところからはじめるのですけれど、昔の絵図などで「こんな形です」というのが残っていれば、それをもとに時代検証し設計図を作って、それからスタートすることになります。

矢島僕もこの前毛越寺へ行きましたが、礎石とかが残っていて、だいたいこれくらいの大きさかということが想像でき、面白かったです。



――――――逆に、金剛組さんでは、過去の設計図や古い図面などのアーカイブをお持ちなのでしょうか。

阿部残念ながら火災に遭っていますので、現存しているものでは江戸時代のものが最も古い資料になります。

――――――五重塔を建てるとき、シミュレーションしてからというお話でしたが、現代の技術、3DのCGとかを使っても対応するのでしょうか。

阿部法然寺の時は十数年前でしたが、そのようなことはしないですね。シミュレーションはぜんぶ私の手づくりの3分の1の模型でやっています。

矢島この前、金剛組さんの工場に行かせていただいたんですけれど、修理の際につくった建物の模型がたくさん残されていました。細かいところまで精密につくられていて、それを見ているだけでも面白かったです。

木造建築はメンテナンスが肝心

矢島先ほど説明いただい内容に関連して、もう少し木造建築の魅力というものを深く話していきたいですけれど、そもそも、ヨーロッパの古い建物を想像すると、石造りのものが多かったりしますよね。でも、東アジア、日本では木造の建築という印象があります。石造と木造では、どのような違いがあるのでしょうか。

木内石の建物は手がけたことがなく、見るだけですが、全く違いますね。想像ですが、石の建物は建てたらメンテナンスがほとんど要らないのではないかと思います。木造の場合、50年に1回は屋根の瓦のチェック、100年に1回は瓦を下ろして、建物のゆがみを楔を打ってもう一度締め直すとかの作業が必要です。あるいは、100年または200年に1回は全解体してしまう。木造にはそういうメンテナンスを絶対しないといけません。

矢島つまり、日本で古い木造建築が残っているということは、そこに絶えず人の手が加わってきたことの証左であるということですね。

木内例えば築300年の時に建物を全解体したとすると、次の全解体はその半分、150年後、その次は75年後が目安になるんですよ。つまり、解体修理のタイミングは、最初に何年後に解体修理したかによって決まります。ですから、最初からちゃんとした仕事をしていると、メンテナンスの周期が延びるんです。

矢島なるほど、最初が肝心ということですね。木造建築は修復というのが一つの大きな特徴になってくる訳ですけれど、金剛組さんは新築も修復もどちらもされます。修復のやりがいや面白さはどんなところにありますか。

木内修復の場合、イヤなところはまず、汚いなと(笑)。面白いのは、解体していくと、昔の人はこういう技術があったんだなとか、見えないところまで丁寧な仕事をしているなとか、そういう発見があるところです。

矢島木内さんは昔の人が造ったものに何度も触れていらっしゃると思いますが、中でも一番感動したのは何でしたか。

木内仕事の一環として見ているので、感情を持って見る余裕や時間はあまりなくて。工事がスタートしたら、工程表通りに進めないといけないので。でも仕事が終わって、後で現場を見に行ったとき、よかったなと感動することはあります。

時代の荒波を乗り越えて

矢島金剛組さんの歴史の中で、廃仏毀釈から現在にかけて苦しい時期があったと聞きました。昔から続いてきた組織が現代の企業に生まれ変わるという過程を経験してきたと思うのですけれど、組織が大きく変わったところはありますか。

阿部それまでは四天王寺の境内に仕事場があって、毎日毎日四天王寺の仕事をしていたのが、廃仏毀釈で突然、表に出ることになったという記録が残っていまして、いまで言う営業活動や、どういう形で自分たちの仕事を探していたのか興味を持っていて、残っている資料を見ますと、まず明治にそのような大きな変化がありました。昭和30年に株式会社化するんですけれど、戦後間もない頃でまだまだ会社といいましても棟梁が社長という状態で、昭和から平成のバブル期をひとつの機として、時代とともに当主イコール社長という体制は厳しくなりました。いまから18年前に、大阪市内にあります高松建設さんの支援を受けて、金剛家の当主と金剛組の社長という形で、いわゆる技術と経営の部分を分けて体制を整えました。どうしても情報社会になりますと、技術や仕事は一緒なんですけれど、会社のバランスを取るというのはそれまでの組織体系ではしんどくなってきたということを、私も経験いたしました。現在は毎年、方針を立てて1年間の目標を定め、それをみなさんにお伝えしてガラス張りの運営をしており、本来の事業に徹することができる環境になったと思います。

機械の使用が効率的とは限らない

矢島そのような時流の中で、木内さんは宮大工の仕事というものにどのような思いを持っていましたか。

木内宮大工の仕事は全然変わらないです。基本的な道具も、飛鳥時代に使っていた、釿(ちょうな)、墨壺、指矩(さしがね)、これをずっと使っていて、仕事の内容についてもあまり変わっていません。ただ、大きい材料を加工するのに木工の機械を導入したところが、一番変わったところです。材料を運ぶのにもいまはフォークリフトなどを使っています。ですから、昔の大工さんのように筋肉がごっついというイメージはありません。
機械を使うようになっても、やってる仕事の内容は昔と一緒です。大きな材料を機械に入れて削ったら速いかというと、実際は速くないんですよ。例えば大きな10メートルくらいの隅木。ボタンを押せば勝手に削ってくれて終わったら勝手に止まります。隅木の見えるところは5分の1くらいなのでそこだけ削れば良いのですが、機械だと全部削ってしまうんですよ、途中で止めることができないので。昔は手で削っていたのですが、削る部分は5分の1。つまり、機械が人の手よりスピードが5倍速くても、結局は昔のスピードと同じです。何千万円する機械を使ってもただ楽をしているだけで、能率とかは変わらないので、それで良いのかと。
昔の人は体力勝負なところがありましたが、それしかするべき方法がなかったのですね。ですから柱でも、縁の下や天井裏は八角形のままで、見えるところだけしか丸くしていません。いまはそんなことをする方が難しいから、見えるところも見えないところもぜんぶ丸くしてしまいます。
ですから、機械を使った方が良いのか、手でやった方が能率が上がるのかというと、よくわからんのですよ。

矢島機械で利便性を追求しようと思えばできるのでしょうけれど、人の手ですと温かみが建築に入るじゃないですか。

木内いまでも機械で削った後に、必ず手で仕上げています。機械ですと寸法的には正確に仕上がるけれど、結局それで、僕ら「ツヤ」と言うのですけれど、柱に、木にツヤが出るか出ないかと。ですから、機械で削っても最後に手で仕上げて、そのツヤを出すんです。機械で終わらせることは絶対ないです。

矢島人の手を加えるということに関連して、宮大工というとただ木造の建物を造るということではなく、神様や仏様を祀るためのお堂を造る、人の思いが込められたところを造るという特色があると思うのですけれど、そのあたりの宮大工の職人としてのこだわりであったり、軸となるところはどこにあるのでしょうか。

木内この前、工場へいらっしゃった時に、最新の機械など一個もないなと感じたと思います。本当に昔のように手で削ったり、穴を掘ったりすることを延々とやっている。それを、コンピュータを導入して、自動車工場のようにロボットで部材を造って、それを組み立てて本堂にしましたと。それは数値的にはものすごい正確にできると思うけれど、魂が入っていない。それで本当にみなさまが手を合わせてくれるかどうかが問題です。本堂自体が信仰の対象ですから。中の仏様も信仰の対象だけれど、表側の建物自体も信仰の対象ですから、それをつくる宮大工もやっぱり気合いを入れて、心を込めて造る。それで良いと思います。機械で造ってしまうと、ありがたみがなくなってしまうので。

矢島職人さんの手が入ることで、建物に命が吹き込まれ、魂が入る。それで、無機質な木が人の思いが詰まったものに生まれ変わることに、宮大工さんのこだわりがあるということですね。

宮大工の仕事の話から、いよいよ話題は今回のテーマ、「文化をつなぐ」へと展開。後編では未来について深く語り合っていきます。