衆生を現世利益に導く「北向観音堂」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

衆生を現世利益に導く「北向観音堂」を訪ねる

信州の奥座敷に位置する別所温泉は、古くは日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東征の際に、この地の温泉を発見したともいわれる信州最古の温泉です。その後、東山道の発展と共に、別所温泉も整備され1400年の歴史を誇ると言われています。周囲には古刹の寺院も点在していますが、その中でも現在、多くの観光客が詰めかけているのが、「北向観音堂」です。
こちらは、本坊を常楽寺とした飛び地境内としてにぎわっていますが、江戸時代までは、ほど近い場所にあった「長楽寺」が火災により廃寺となり、常楽寺の直轄になったといいます。近年、「北向観音堂」が脚光を浴びるきっかけになったのは、地元では古くから習俗となっていた「両詣り」信仰が全国的に認知されたから。全国から参拝客が集まる善光寺とのつながりについても思いもかけないエピソードが披露され、初見の学生たちにとっては大いに刺激を受けた時間だったようです。執事の石川賢明師にご案内いただきました。

「まず北向観音堂の由来について、お話しします。北向観音堂は本坊常楽寺からは少し離れていますが、飛び地境内として、常楽寺が管轄しているお堂になります。あえて『北向』という呼称がついているのは文字通り、北向きにお祀りされている観音様です。ご本尊は秘仏の千手観音様の座像です。さらに全国的にも珍しいようですが、御前立ちも秘仏です。
こちらの秘仏であるご本尊の御前立ちの御開帳は、住職一代が代わった時にだけ行うというしきたりになっています。直近では第二百五十六世の天台座主であった半田孝淳猊下が、こちらの住職として昭和36年(1961年)に晋山したときが最後となっていますから、御開帳は60年ほど行われていないことになります。


どうしてこの観音様が北向きかと言いますと、立地条件ではなくちゃんとした理由があります。
実は、この場所は天長2年(825年)に、慈覚大師円仁により開創されました。ある時、現在の常楽寺境内の裏手の山の中腹の地面が割れ、火柱が立ったそうです。それを東北の地を巡っていた円仁様が『吉兆である』と聞きつけてこの地に参ったそうです。そこで呪法を唱えたところ、火口から紫の煙が立ち上り辿り着いた場所が、北向観音堂がある場所にあった桂の木でした。すると、その桂の木の枝に黄金の千手観音様がお姿を現して『我をこの地の奥に北向きに安置せよ』と仰られました。そこでその言葉を受けて北向きに千手観音様をお祀りしたのがその由来だと言われています。
「北」という方角は、古の時代から旅人や航海する人にとって非常に重要な意味を持ちました。ふと夜に空を見上げれば、天頂にひときわ輝いているのが北極星です。たとえ暗い時でも北極星を見れば方角が分かります。つまり、旅人にとって常に進路を示してくれるのが北極星です。

翻って観音様もしかり。右も左もわからない心の迷っている場合や救いを求めている方々を正しい方向に導くのが観音様です。
こちらに出現された観音様も『私を北極星の方向に祀ってください』と北向きで安置されることを願ったと言われています。この因果が広まったのが江戸時代です。
地理的に善光寺のある長野市と北向観音堂のある上田市は南北に位置しています。そこで、善光寺の阿弥陀様が南向きであるのに対し、こちらの観音様は北向きであることから、片方の参拝だけでは『方詣り』に過ぎないと、両方の仏様を参拝するという『両詣り』の習俗が地元で広く信仰されるようになりました。
善光寺さんは極楽浄土で来世を願う仏様。こちらは観音様で現世利益を叶える仏様。現世と来世の二世に渡って拝めるのがいいのではないかということで、かなり盛んになっていったそうです。最近では、地元のみならず全国的にも『両詣り』の習俗が知られるようになりまして、2022年も善光寺では御開帳がされていますが、御開帳のたびに、『両詣り』ということでこちらの北向観音堂を参拝される方が増えています。


なぜこの『両詣り』が広がったかと言いますと、今から300年ほど前の弘化4年(1847年)に善光寺地震という大きな地震が発生しました。
その際、尾張国から市之介ほか15名ほどの一行が、善光寺を参拝のために訪れたそうです。ただ途中で、北向観音への参拝をした市之介だけが災難を逃れたことから、絵馬を奉納されたそうです。それ以来、厄除けの観音様としてその功徳を求めてお参りする方が増えたと言います。」


現在も観音菩薩が影向されたといわれる霊木が境内に存在しています。
愛染堂

昭和13年(1938年)に公開された映画『愛染かつら』の原作である川口松太郎の小説のタイトルにもなった霊木「愛染カツラ」は樹齢1200年あまりの老木で、戦前に一大ブームとなって以降、カツラの葉がハート型をしていることから、恋愛成就のパワースポットとして、今も参拝者が絶えません。また霊木に程近い場所には、「愛染堂」が建立され、江戸時代に造られた「愛染明王」もお祀りされています。
お話の後には学生からの質問にもお答えいただきました。

こちらの寺紋の由来は何でしょうか。

「こちらの寺紋は笹竜胆です。笹竜胆といえば、清和源氏の家紋として有名ですね。このあたりは、源平合戦の時に、木曽義仲公が逗留されていたことでも知られています。後にこの一帯の寺院は災禍に遭いますが、源頼朝公や後の塩田北条氏によって寺院の再興がなされます。以来、源氏のお力添えがあったということで寺紋にもなっているということです。

お檀家さんはいらっしゃいますか。

「ここは祈願寺なので、お檀家さんはいないですが、常楽寺の本坊で100軒ほどでしょうか。ただ、これまで話したように、多くの参拝者の方が訪れます。別所温泉自体にお泊りになる観光客は、年間で30万人ほどと言われていますが、おそらくその10倍とはいかないまでも近い数字の方々がこちらに、参拝に来られます。以前と比べると、『両詣り』の影響もあってでしょうか、団体の観光客が多くなりました。」

観音堂の天井が善光寺と似ていますが、何か関係があるのでしょうか。

「おっしゃる通りですね。この観音堂の天井は撞木(しゅもく)造りで正面は妻入、背面は平入になっています。非常に特徴的な善光寺の本堂と同じ建築様式です。建物自体は350年ほど経過していますが、昭和36年(1961年)に改築した時に今のような観音堂になりました。昨今のコロナ禍で多少、観光客の方は減少しましたが、今年の御開帳でまた盛り返しています。また元のような生活に戻ることを切に願っています。こちらは厄除けの観音様ですからきっとご利益があるのではないでしょうか。」
コロナ前は正月ともなると、この境内から徒歩で10分ぐらいの場所にある上田電鉄別所温泉駅まで参拝者の行列ができるのが年始の風物だったそうです。地域の方が境内で語り、温泉に来られた方々が参拝に来られる、とてもくつろげる優しい雰囲気を感じるお寺でした。

参加大学生の感想

北向観音堂は別所温泉の温泉街の中にあるお堂で、常楽寺というお寺の飛地境内となっています。寺伝では慈覚大師円仁によって創建されたとされています。源平争乱の際、木曾義仲によって焼かれてしまいますが、源頼朝の命によって復興されたそうです。

北向観音という名前の通り、北を向いてお堂が建っており、これは大変珍しいそうです。御本尊は千手観音で、現世利益の仏です。北向観音の興味深いところは、来世利益の仏様ある阿弥陀如来をお祀りしている善光寺と併せて、2カ所お参りすることで、よりよいご利益が得られるとされているところです。南向きの善光寺本堂と北向観音堂は向かい合っているだけではなく、北向観音堂の建築は善光寺と非常によく似ており、内部の天井の模様もよく似ていました。善光寺の影響力の強さを窺えるお堂でした。

江戸時代の信仰を示すエピソードとして、江戸時代後期の弘化4年(1847年)に尾張からグループで善光寺に参拝した一行のうち、一人だけが北向観音にお参りに行ったところ、道中で大地震が起こり、北向観音に参拝した一人だけが生き残ったというものがあります。このエピソードは絵馬に描かれて奉納されており、今もお堂で見ることができます。

別所温泉周辺には北向観音の他にも常楽寺や安楽寺、大法寺など優れた文化財を残す寺院が多く残されおり、信州の鎌倉とも称されるそうです。これらの文化的な景観が別所温泉の魅力を高めているのではないかと感じました。
北向観音堂
〒386-1431 長野県上田市別所温泉1656