阿弥陀様との結縁を願う庶民の大寺「善光寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

阿弥陀様との結縁を願う庶民の大寺「善光寺」を訪ねる

コロナ禍で多くの行事が中止・延期を余儀なくされましたが、1年の延期を経てようやく御開帳を執り行うことができたのが、日本を代表する「庶民のお寺」長野県の善光寺です。通常、数えで七年に一度ですが今回は7年ぶりに、御本尊の御身代わりである「前立本尊」が御宝庫から本堂に迎えられ、参拝できる貴重な機会となっています。

善光寺を参拝されたことのある人ならお分かりかもしれませんが、信州の抜けのいい青空に加え、本堂内の前立本尊である阿弥陀如来の右手に結びつけられた金糸が5色の糸に変わり、さらに白い「善の綱」となり、本堂正面に屹立する高さ10メートルもの回向柱に結びつくコントラストが、自然と調和し、参拝した後は不思議な解放感に包まれます。前回の御開帳では、770万人もの参拝者が訪れました。


御開帳直前の慌ただしいタイミングでの訪問をご快諾いただいた善光寺の御厚意に感謝しながら、本堂を始め本坊大勧進まで、善光寺 事務局 庶務部長 小林玄超師にご案内いただきました。

「御開帳で本堂にお迎えする前立本尊は阿弥陀如来立像で、鎌倉時代初期の造立です。現在は重要文化財に指定されています。なぜ、阿弥陀様かといえば、この本堂は宝永4年(1707年)に再建されましたが、本堂が建つ以前には弥勒堂があったのではと推測されています。おそらく元々は阿弥陀堂の御本尊として安置されていたのではないかと云われています。
この善光寺はおよそ1400年の歴史を誇ります。過去には11回の焼失があったそうですが、再建の際には5年ほどかけて北は陸奥から南は九州まで浄財を集めたそうですから、善光寺の本堂は皆様のご先祖様によって建てられたといっても過言ではありません。創建当時の寺宝は散逸してしまって、ほとんど残っていないと云われています。『善光寺縁起』、成り立ちについての物語によれば、仏教が日本に伝来した時と同時に渡ってきた仏様がこちらの善光寺仏と言われています。その出現はインドにお釈迦様がいらっしゃった頃にまで遡ります。


かつてインドに月蓋長者(がっかいちょうじゃ)という大金持ちがいました。ところがある時に、悪疫が流行し、娘も病魔に襲われてしまいます。名医に頼るなどあらゆる手を尽くしても一向に回復の兆候がないことから、最終的にお釈迦様に教えを乞うことにしました。するとお釈迦様は『阿弥陀如来様に御祈願をして南無阿弥陀仏と称えれば人民を救ってくれる』とおっしゃられたそうです。
阿弥陀如来像(大勧進宝物館))

そこで念仏を唱え続けると、阿弥陀様が観世音菩薩と大勢至菩薩を伴って三尊のお姿で顕現されて、病魔を追い払ったそうです。その出現に感銘を受けた月蓋長者はそのお姿を遺したいとお釈迦様に申し出て、弟子である目連尊者(もくれんそんじゃ)が竜宮城から閻浮檀金(えんぶだんごん)という黄金を献上され、そこから三尊像のお姿が顕現したといわれています。

絶対秘仏とされる御本尊の一光三尊(いっこうさんぞん)阿弥陀如来は、善光寺の歴代の貫主でもその姿を見ることがかないません。善光寺の開創は極天皇元年(642年)とされていますので、1300年ぐらいは誰も見たことがない仏様になります。
本堂は昭和28年(1953年)に国宝に指定された日本でも最大級の木造建築です。間口は約24メートルで奥行約54メートルに及びます。よく2階建てではないかと聞かれるのですが、高さ29メートルの1階建てです。
本堂は外陣、内陣、内々陣に分かれていまして、参拝者がお参りするのが内陣です。この内陣は明治初期まで『お籠り』というのが行われていました。お籠りというのは一晩中ここに泊まって念仏を唱えながらご先祖様のことを想いながらここで朝の勤行まで待っていたそうです。
国宝に指定された時点で『お籠り』自体は火の用心の問題があったようで、なくなりまして、今は宿坊やホテルに泊まって早朝に善光寺にお参りに来るという習わしになっています。この大きな内陣は大きさが150畳ほどになります。ですので、畳1畳に2人ずつ座っても300人ほどの方が座れますからお籠りができたのと思います。」
日本への仏教伝来から期間を経ずに開創した善光寺は無宗派の寺として、現在の維持管理は、天台宗と浄土宗の共同運営によって行われています。しかし、仏教が分派発展していくよりはるか以前に開かれた寺院であることから、様々な宗派の祖師の「痕跡」を本堂でもうかがい知ることができます。


外陣に入るとひときわ目を惹くのが、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)様の木像です。

こちらの賓頭盧様はお釈迦様の十六羅漢の一人で、中でも呪術的な功徳に通じた方だと言われています。この賓頭盧様を触ることで、病気が治ると言われていまして、木造の表面は参拝された方が撫でているのでツルツルになっています。
およそ300年前のお像で、この触れて撫でるというのは、庶民信仰としては非常に根強いもので、極楽の錠前に触れるお戒壇巡りも同じような信仰の有り様ではないかと感じています。善光寺はご年配の参拝者が多いですから目や耳、腰やひざを撫でる方が多いみたいです。

そして賓頭盧尊者像の横に松の枝が刺さっています。これは『親鸞松』と呼ばれています。
浄土真宗の開祖である親鸞聖人が善光寺をお参りになった時が冬だったので、お花の代わりに松を奉納されたことから1年中、松を飾るようになったそうです。
善光寺はどの宗派にも属さない単立寺院ですので、外陣の妻戸台(つまどだい)と呼ばれる舞台も時宗の一遍上人と深い関係にあります。ここに置かれた大太鼓は踊念仏を今に伝える太鼓で、かつては本堂の前庭の舞台で踊念仏が奉納されていたことから、その名残としてあると聞いています。」
通常ですと、御本尊様は本堂中央に祀られることが多いですが、善光寺では参拝者から見て左側の内々陣の最奥の瑠璃檀の内厨子の中に安置さています。厨子は5代将軍の徳川綱吉公の母である桂昌院により奉納されたものです。厨子の外側には、鳳凰と龍の戸帳が掛けられています。外側にある鳳凰の戸帳は朝の法要の際に上げられ、日没の時に下げられます。一方、日中の法要の際には短時間ですが、内側に掛けられている鳳凰の戸帳が上がります。
「内陣からさらに奥の位置が内々陣となります。通常は、住職がお経をあげる場所で法要などの際には参拝者の方もこちらに入る場合もあります。向かって左手にあるのが、御本尊がいらっしゃる瑠璃檀。右側には大きな神鏡がありますが、明治以前の神仏習合の信仰形態が今でも善光寺には残っていますので、神鏡もお祀りしています。神鏡の奥にお祀りされているのが、三体のご神体で、善光寺を開いた本田善光が中央に、右側には奥様の弥生御前、左側には息子の善佐卿(よしすけきょう)が安置されています。

なぜ仏様とその開創した人物が同じ場所に祀られているかと言いますと、もともと善光寺というのは、お寺ではなくて善光公の住居に、御本尊を運んだことから始まっています。善光寺の本堂というのは、今もなお善光さんのお家として居間があって仏間があるというイメージをしていただくといいかと思います。

善光寺の縁起では、善光公の家の西側の庇の下に仏様を安置したとされています。その後、お堂を建てても庇の場所に戻ってしまうという逸話がありますので、御本尊は善光公の家の西側に位置するようにしています。
内々陣の右手奥には瑠璃檀の床下を巡る『お戒壇巡り』という信仰もあります。
御本尊は絶対秘仏ということもあり、なかなか見ることがかないません。そこでお厨子の置かれた瑠璃檀の床下の回廊をめぐり極楽の錠前に触れることで、仏様とのご縁が結ばれ、極楽に行けることが約束されます。回廊は真っ暗ですので、どこに極楽の錠前があるかわかりません。ですので、『お戒壇巡り』をされた後に、『錠前に触れることができなかったので地獄に行くのですか』と聞かれますが、触ることができなくてもいいのです。

でも触ること、握ることを通して私たちは、仏様とのつながりを感じられるのだと思います。仏様は目に見えなくても心の中にいらっしゃいますよね。仏様に触れることで極楽行きの証拠を得て安心したいという信仰なのでしょう。善光寺の御本尊は一光三尊阿弥陀如来ですので、いつか自分も極楽に行きたいという信仰、さらにはご先祖様のご供養の両方が善光寺参りだと言われています。ぜひ、極楽の錠前に触ってみてください。」

ここで学生たちは実際に、「お戒壇巡り」を体験しました。普段は、真っ暗な回廊ですが、コロナ禍の対応で、わずかな明かりを頼りに、この世とあの世をつなぐ扉を探します。勇気を振り絞れば、大きな功徳が得られることでしょう。
続いて本堂では、日中法要にも立ち合いました。荘厳な僧侶による読経の中、鳳凰の戸帳が上がり内厨子を拝することが可能です。時間にしてわずか30秒ほど。目を閉じて合掌している間に戸帳が下がってしまうこともあるそうで、小林ご住職も「あっという間ですから。」と参加者に声をかけます。

「本堂では、戸帳の龍の顔の位置が、内厨子内に祀られている御本尊のお顔の位置と同じ高さにあると言われて、極楽に一番近い場所とされます。戸帳が上がっているのはごくわずかな時間。本堂の左右の鐘が鳴り響き、あの世とこの世が呼び合っている音と解釈してもいいかもしれません。
この日中のお勤めには、3人の僧侶がいましたが、そのうち2人が天台宗のお坊さんで、もう一人が浄土宗のお坊さんです。2つの宗派のお坊さんが一緒にここを運営していますから一緒にお経をあげるのは全国的にも珍しいようです。朝のお勤めなどはそれぞれの宗派ごとで行っていますが、御開帳の際には一堂にこの本堂に集まります。」
現在執り行われいる御開帳(令和4年6月29日まで)では、本堂の中央に前立本尊が祀られ、それを祀るように仮のお堂が本堂内に建てられ参拝できるようになっています。さらに本堂の前庭には、松代藩の真田家によって運ばれた巨大な回向柱と前立本尊が結縁され、多くの参拝者が回向柱に触れ、御祈願とご供養の祈りを捧げます。ここでも「聖なる存在」に触ることで安心するという「庶民信仰」の有り様が体現されているのかもしれません。

最後に一行は、高さ約17メートル、奥行約15.4メートル、重さ約5トンの八角形の輪蔵が納められている経蔵を訪ねました。宝暦9年(1759年)に建立された経蔵は国の重要文化財に指定されている善光寺でも古い堂宇です。
「こちらの経蔵は2017年に大規模な改修が終わって、年間を通じてお参りできるようになりました。大きな輪蔵には、すべての仏教経典を網羅した大蔵経(一切経)が納められており、この輪蔵から出ている腕木を押して1周すると、すべてのお経を読んだことのと同じ功徳が得られると言われています。ぜひ、押してみてください。意外と重くありませんか? 
内部はコマのようになっていて、駆動する部分の部品は交換しやすいようになっています。今回の修復で輪蔵の動力部分にあたる中心のベアリングは比較的交換しやすい仕様に変更しています。そういう意味では文化財保護として新しいテクノロジーを活用するのは決してマイナスではないと考えます。
修復の工期は実に5~6年かかっていますが、最近の寺院は大規模な修復や工事を公開するケースも増えてきました。普段は見ることのできない場所を特別に公開している場合も多いので、機会があれば覗いてみるのも興味深いと思います。

現在は文化庁の指導の下、輪蔵の中心部分にベアリングを入れたことで毎日、経蔵を回しても強度として大丈夫ということになっています。この輪蔵最初に造ったのは中国の傅大士(ふだいし)という方です。
ただ、最初から功徳を得るために経蔵が造られたわけではないようです。この経蔵はいわばお経を納める本棚として使われていたようです。中国では場所によっては非常に湿気の多い地域もありますから、風通しのためにこの経蔵が造られたという逸話もあります。
いずれにしても修行に励む僧侶にとっては、勉強する時間も非常に貴重ですから、こうした短い時間でも輪蔵を回まわすことも修行の一環だと考えるようになったのではないでしょうか。その点では実に合理的な考え方と言えそうです。

その他にも経蔵に入って左手に、制作されて250年ほどの伝教大師と慈覚大師のお像が祀られていることからも善光寺創建後の早期には天台宗がこのお寺に入っていたのではないでしょうか。ただ、ご存じのように善光寺の寺宝の多くは、武田信玄公によって、他の場所に移されてしまっています。幸いにして御本尊は豊臣秀吉公によって返納されたと言われていますが、ほとんど散逸してしまっています。
それでも多くの参拝者が絶えないのはこのお寺が古くから『庶民の寺』として親しまれてきたからに他なりません。このお寺の境内には、壁がありません。ですから地域の人々の散歩道であり通勤や通学、あるいは警察の巡回路でもあります。御開帳に限らず、常に多くの方に身近に感じていただいてご参拝いただければありがたいです。」
その成り立ちから庶民のためのお寺であり続けた善光寺。なぜ1400年にもわたって、これほど多くの参拝客が絶えないのでしょうか。昔も今も庶民にとって仏様と触れ合える場所であり続けた善光寺参りに関西出身の学生たちも大いに感銘を受けたようでした。

参加大学生の感想

善光寺は、1998年の長野オリンピックにおいて、善光寺の鐘楼の鐘が開会の合図となったことからもうかがえるように、長野を象徴する寺院です。江戸時代から「遠くとも一度は参れ善光寺」と言われており、古来人々に親しまれてきたお寺です。中世には現在の長野市の基礎となるような門前町が形成されるなど、人々に与える影響力は非常に大きく、戦国時代には御本尊の阿弥陀三尊像が武田信玄や織田信長、豊臣秀吉といった大名たちによって、甲斐国(山梨県)や美濃国(岐阜県)、尾張国(愛知県)、さらには京都へと転々としたこともあったそうです。

この多くの人々を惹きつけてきた善光寺の御本尊は、絶対秘仏でありその姿を直接拝することはできませんが、七年に一度御開帳される鎌倉時代に造られたお前立のお像からその姿をうかがうことができます。「善光寺如来」と称されるこの様式の仏像は盛さかんに模倣品が作られたほか、全国各地に善光寺が勧進され、崇拝されてきました。このように善光寺が多くの人々に愛されてきた背景には、善光寺が「民衆のお寺」であるということがあり、現在の善光寺にも、その性格は引き継がれています。

国宝に指定されている大きな本堂の内陣には広い参拝スペースがあり、昔はここで一晩を過ごし、御本尊に祈りを捧げたそうです。御本尊の阿弥陀如来は人々を極楽浄土へ導いてくださる仏さまで、死への恐怖という人間の普遍的な感情に応える御本尊の存在が、多くの人々を惹きつけているように感じました。

本堂では暗いお堂の地下を巡り、御本尊の真下にある錠前に触ふれることで阿弥陀さまとご縁を結ぶ「お戒壇巡り」というものも体験できます。実際に形あるものに触れることで、阿弥陀さまの存在を感じることができるものでした。
通常、御本尊はお堂の中央に置かれることが多いのですが、善光寺の御本尊はお堂の左側(西側)に置かれています。そのルーツは飛鳥時代の創建時に遡り、善光寺を開いた本田善光さんがはじめ御本尊を住居の西側の庇に置いたためであることに由来しています。現在でも、本堂奥の左手(東側)には本田善光とその妻子のお像があり、その西側に御本尊がお祀りされ、善光の信仰を今に伝えています。僧侶や貴族のためのお寺ではなく、庶民のためのお寺であるということが本堂の構造から強く感じられました。

拝観の案内をされているのも僧侶ではない、地域の人たちであり、山門から延びる参道には多くのお店が立ち並んでいて、お寺が民衆を守り、民衆がお寺を支えるという善光寺の姿をうかがうことが出来ました。

取材の翌日から始まった御開帳では非常に多くの人が訪れているようで、ニュースにも盛んに取り上げられ、長野全体が御開帳で盛り上がっているようです。善光寺はお寺と地域が一体となって長野の街を盛り上げていくという素敵な関係性が今なお残る、魅力的なお寺でした。
善光寺
〒380-0851 長野県長野市大字長野元善町491