東の比叡山「寛永寺」を訪ねる(前編)
TOP > いろり端 > 東の比叡山「寛永寺」を訪ねる(前編)

いろり端

探訪「1200年の魅力交流」

東の比叡山「寛永寺」を訪ねる(前編)

上野動物園や東京国立博物館など東京の観光名所を擁する上野恩賜公園。かつてその敷地はすべて「東叡山 寛永寺」の境内でした。京都の鬼門(北東)をお守りするために、比叡山が大きな役割を果たしたように、江戸幕府を開いた徳川家康公は、江戸幕府の安泰と万民の平安を慈眼大師天海大僧正に託し、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に寛永寺を建立しました。上野の山に開かれた寛永寺は、江戸時代には約30万坪の広さを誇り、今も上野動物園には旧寛永寺五重塔(昭和33年に東京都に寄付)が威容を見せるほか、寬永寺輪王殿正面には彰義隊と官軍の戦闘の弾痕が生々しく残る本坊円頓院の表門が残されています。

比叡山延暦寺を倣ったという寛永寺の根本中堂で、石川亮岳執事にお話しを伺いました。寛永寺の栄枯盛衰の歴史から徳川家との関係、さらには「東の京(みやこ)」である江戸の成立についても重要な役割を果たしてきた慈眼大師天海大僧正についても質疑応答を交えお話しいただきました。まずは、根本中堂で江戸時代の初期から幕末以前の発展についてご説明いただきました。

「最初に『寛永寺』がどのようなお寺かについてお話ししたいと思います。江戸時代には寛永寺の境内は約30万坪。東京ドームでいうと21個分の広さが寛永寺のお寺の境内でした。
ところが、明治政府によって境内地は没収されます。そして、境内の大部分が公園の敷地となった経緯があります。今も上野公園の中にお堂が点在しているのはこうした歴史的な背景が関係しています。

それでは、なぜ寛永寺が江戸時代にここまで大きなお寺になったかと言いますと、江戸時代の初期に徳川家康公が豊臣秀吉公から命令をされて『関八州を治めなさい』ということで関東にいらっしゃいます。家康公が来る以前は、後北条氏が関東を治めていて、中心地は小田原にありました。江戸城は、室町時代末期から戦国時代に活躍した太田道灌によって築かれます。しかし、城は築かれたといっても関東はまだ田舎の町にすぎませんでした。

江戸という名前はそもそも由来がありまして、アイヌの言葉で『えと』という言葉から来ています。『えと』とは、アイヌ語で『岬』という意味だそうです。今から400年ほど前の江戸時代はそこまでではないですけれども中世から古代、縄文時代にまで遡ったりすると上野の山のあたりも海になっていたそうです。江戸時代初期でもこの辺りは湿地が広がっていて、井戸を掘っても海水が出ていたほどでした。しかし、水上交通という面で考えれば、利根川や荒川、石神井川などいろいろな川の終着点は東京湾になります。
つまり江戸という場所は、川の上流に位置する関東地方の様々な特産品を下流である江戸に運ぶには、すごく便利な場所でした。この物流拠点としての江戸に目をつけたのが、家康公です。関八州の太守という権力を背景に、大胆な川の灌漑整備をしたことで、江戸の町を人が住みやすい場所に作り替えたのです。そして江戸は世界でも類を見ない百万都市にまで成長するのです。

家康公はすごく信心深い方でいらっしゃいましたので、ただ街を作るだけではなく、神仏にも守ってもらえる都市にしたいと考えました。そこで、様々な宗教指導者を招いて、論議を深めたそうです。今私たちは意見を交換することを『議論』と言います。これに対して、当時の仏教では『論議』という言い方をしました。
今でも寛永寺では毎年10月2日が天海大僧正の御命日。あと6月4日には伝教大師様、11月24日は天台大師様・・・・と、それぞれのお大師様の御命日に『論議法要』をしています。その内容は、『法華経の第何巻について解説しなさい』という風にお題が出され、毎回違った形で議論が交わされます。それを寛永寺では『論議』と呼んで、今でも大事な節目では必ず執り行うこととしています。
そうした中で家康公は、川越の喜多院の住職をしていた天海大僧正が抜群の成績を収めたことで目にかけました。その上で、家康公はまず天海大僧正に対して比叡山延暦寺の復興を命じたというふうに言われています。
当時の比叡山延暦寺は織田信長の焼き討ちにより、かなり寂れた状況に置かれていました。

慈眼大師(天海)坐像 (重文) (比叡山延暦寺国宝殿所蔵)

『比叡山延暦寺の復興』と聞くと堂塔の再建を考えると思いますが、天海大僧正はそうではありませんでした。天海大僧正はもともと陸奥国会津高田(福島県)のお生まれで、全国を回って勉強を修めてきました。それこそ、焼き討ち前の比叡山延暦寺に学び、栃木県にあった最高学府として知られた足利学校で禅や儒教を修めたほか、武田信玄に招かれて甲斐の国に住んでいたこともあり全国各地の事情に通じていました。
そこで、比叡山の復興にあたっては、まず焼き討ちで焼失した経典を再び集めようと奔走しました。ご存じの通り、比叡山延暦寺は『日本仏教の母山』と言われているように、比叡山延暦寺で学んだ僧侶は写経した経典や写本を全国の寺院に持ち帰っています。つまり、延暦寺にあった貴重な経典が全国の寺院に残されていました。それを今一度、再結集すれば、『比叡山延暦寺は学問を復興させることができた』と評価を得ることができると考えたようなんです。木材と職人がいれば堂塔の再建は可能です。しかし一度失われた知識や智慧は取り返すことはできません。

全国の寺院から経典を集め比叡山延暦寺の復興を成した遂げた天海大僧正は高く評価され、家康公との知己を深め、江戸に比叡山延暦寺に並ぶようなお寺を作ろうというプロジェクトが始まるわけです。




残念ながら家康公はプロジェクトの途中で亡くなってしまいますが、そのご遺志を今度は2代将軍の徳川秀忠公が引き継がれます。そこで、『ではどんなお寺にしようか』というとことで『東の比叡山』つまり『東叡山』と名前をつけるのがよかろうと。加えて名前だけでなく、ありとあらゆることを比叡山延暦寺に倣うようになります。
まず比叡山延暦寺は平安京、京都の御所から見て北東の位置にあたってこれが『鬼門封じ』として御所をお守りしています。そこで江戸城の『鬼門封じ』ということで、最初その役割を浅草寺が担っていましたが、より北東の位置に近いということで、上野の山に白羽の矢が立ったと言われています。

そして寛永2年(1625年)、寛永寺本坊が完成します。3代の家光公の時代です。比叡山延暦寺の名前は当時の年号『延暦』を朝廷から勅許を得て頂いています。寛永寺もそれに倣ってやはり寛永2年に完成したことから寛永寺。そういうところも比叡山延暦寺と一緒です。
本坊ができたことで、徳川家のためにお経を読む祈祷寺として、寛永寺はスタートしました。当時のお寺は、祈祷寺と回向寺(先祖供養を行う場)に分かれていました。比叡山延暦寺は今もそうですけど、お葬式は基本的に執り行わないことになっています。それはお葬式というのはやはり穢れというものがつきまとうという当時の感覚があったからです。寛永寺も比叡山延暦寺と同じように穢れを避けて、『江戸城を守る』『日本を守る』という御祈願専門のお寺でした。そして、寛永寺の創建がひと段落すると、今度は比叡山延暦寺の根本中堂の再建の方に幕府は力を入れるようになったと言われています」

江戸城の鬼門を護る寛永寺のみならず、天海大僧正は上野の山全体のプロデュースを手掛けました。上野の山自体は400年前までは何もないただの雑木林のような山だったと言われていますが、地方のお殿様や大名とも交流を深め、上野の山を整備します。
上野公園と言えば、春は桜の名所として、毎年380万人以上が詰めかけるお花見スポットとなっています。江戸時代には、上野の山と浅草の浅草寺周辺が観光地として多くの人たちを惹きつけ、落語や歌舞伎の舞台に数多く取り上げられるなど、今でいうトレンドエリアとして、脚光を浴びます。この上野の全体構想計画を手がけたのもまた天海大僧正だったという先見の明と行動力には驚かされます。
「天海大僧正は、徳川3代将軍に限らず、外様ながら家康に重用された津藩の藤堂高虎や越後の村上藩主の堀直寄。さらには津軽藩の2代目にあたる津軽信枚という殿様の下屋敷を建設中の上野の山に寛永寺の建立を進言。
それと同時に天海大僧正は修行時代に、色々な有力者の知己を得ていたことで、尾張や水戸の徳川家とか日本全国各地の殿様の協力を得て、境内の整備を進めました。当時の寛永寺には法華堂と常行堂がありましたが、これは比叡山に倣ったもの。徳川御三家のうちの紀州徳川家と尾張徳川家によって造られました。また上野東照宮は藤堂高虎公がお造りになり、後には子院として『寒松院』も造られました。越後の大名である堀直寄公は上野大仏を建立してくださいました。あとは天海大僧正が修行時代に常陸国を訪れた際に知遇を得た水谷伊勢守(勝隆)という殿様がいらっしゃいましたが、この方の協力を得て不忍池をきれいな形に造成したと言われています。

また、中洲の小島を人工的に大きくして弁天様をお祀りしたと言われています。当時、関東で言えば『銭洗弁天』や『江ノ島弁天』と有名な弁天様がいましたが、近郊の関東の弁天様ではなく、上野の山は比叡山を模していますから琵琶湖の中にある竹生島の弁財天様をお迎えしました。大仏様は、当時、豊臣秀吉の発願によって造られた方広寺大仏がありましたので、それを見立てて建立されました。こうやって日本各地、特に比叡山延暦寺や延暦寺にほど近い京都、滋賀といった延暦寺周辺の名所を再現したのが上野の山のモチーフになったといいます。これが天海大僧正による上野の山の開発が画期的と言われる所以です。
当時はお寺に参拝することは『楽しむためにお参りをする』という感覚があまりありませんでした。しかも寛永年間前後の時期は、旅行そのものがまだ一般的ではありませんでした。ところが天海大僧正は誰もが楽しんで感心するような施設を次々と作って、多くの参拝客が訪れるようになる画期的な観光名所を作り上げた。その点でも天海大僧正としてはすごく先見の明があったというわけです。
寛永寺というお寺は幕府のためのお寺でもありましたが、同時にみんなが楽しめるお寺でもあったこういうことですね。元禄の時代、5代将軍綱吉公の治世ですと、多くの人が寛永寺にお花見に来るようになります。そこで、8代将軍の吉宗公の頃に『人の流れを分散させよう』といって飛鳥山公園が作られます。これは吉宗公が寛永寺と飛鳥山公園に花見の名所を分散させるために造り、桜の名所が続々うまれた契機となりました。」
徳川家と密接な関係を築いてきた寛永寺が「祈願寺」から「菩提寺」の地位を獲得したのは、3代将軍家光が1651年に亡くなったときのことでした。家光の遺言により寛永寺で葬儀が営まれると、4代将軍家綱、5代将軍の綱吉、8代将軍の吉宗、10代将軍家治、11代将軍家斉、13代将軍家定の霊廟も造営されるようになります。結果的に江戸期を通じて寛永寺は、芝の増上寺と並ぶ「徳川家の菩提寺」として大きく発展することとなります。

「徳川家の菩提寺として、歴代将軍の霊廟ができる一方で、寛永寺を本院として子院が随分とできるようになります。子院は、各地の大名が寄進して造った寺院のこと。最盛期には36もの小院があったそうです。この子院はいわばお殿様が出資したお寺で、将軍の命日の際の装束着替所として、また大名たちが参勤交代により、江戸での生活が長くなったことで、江戸で亡くなったときの葬儀所としても子院が増えることになります」
天海大僧正と徳川家、さらには有力大名たちが手に手を携えて築き上げた上野の山と寛永寺の繁栄に興味津々な学生たちも終始、メモを取りながら熱心に話に聞き入っていました。そんな学生たちからはいくつか質問が出ました。

徳川家霊廟について。お墓を信仰や観光に結びつけることの難しさはありますか。

「これは良い質問です。正直ありますね。今でも通常であれば将軍霊廟では、『帽子は絶対脱いでください』とか『撮影禁止』とか注意事項をお伝えします。またご説明する時に拡声器などを使うと静寂な場所が崩れるのではないかという気持ちもございます。一方で、江戸時代の最高権力者である将軍がいかに尊ばれていたかというのを知る上では、実際に目で見て感じてもらえる場所でもあります。聖地(信仰)と歴史遺産(観光)の両立というのは実に難しいと感じています。静寂な場所を造るのであれば一般の参拝を取り止めにすればいいだけですが、それでは意味がないのではないでしょうか」


上野戦争や太平洋戦争を乗り越えて今日まで伝えられている寛永寺当初の建物や文化財はどれくらいあるでしょうか。

「主だったところで言いますと、まず『清水観音堂』ですね。これはもう創建当時の江戸時代のいわゆる失火または街の火事こういったものからもすべて影響を受けずに残っています。明治維新を経て太平洋戦争でも無傷で現在に至っています。それと4代将軍と5代将軍の霊廟にある『勅額門』という門とそれから『水盤舎』という手洗い場も健在です。将軍霊廟は他にも御位牌所とかの木造建築もあったんですが、ほとんどが太平洋戦争で焼かれてしまって、こちらの『勅額門』と『水盤舎』の2つだけが残っています。

根本中堂は明治維新の時に一度燃えてしまっています。しかし明治12年(1879年)に再建するときにリノベーションしたのがこちらのお堂です。どういうことかと言いますと、根本中堂は大きなお堂ですから、川越の喜多院と上野の東照宮の2つのお堂を移築して1つのお堂に組み直しています。それぞれのお堂は江戸時代初期の建立ですから三百数十年がたっていることになります。ちなみに、根本中堂の入り口に掲げている『瑠璃殿』の額も江戸時代の創建当時のものがそのまま残っています。元々根本中堂は薬師瑠璃光如来様をお祀りするお堂なので『瑠璃殿』です」


天海大僧正は寛永寺にとって、天台宗中興の祖なのでしょうか。または徳川家康公に江戸鎮守の任を命じられ上野の山を開発した政治家なのでしょうか。

「とかく天海大僧正って言うと、『黒衣の宰相』や『明智光秀が実は生き延びて天海大僧正になった』なんて言われていますが、寛永寺としては肯定していません。
天海大僧正と同時代に以心崇伝(金地院崇伝)という臨済宗の僧侶がいらっしゃいました。以心崇伝さんは、家康公に請われた役人でした。対して天海大僧正は寛永寺の住職。それ以前は喜多院の住職ですから、宰相ではありません。天海大僧正は政治的な野心ではなく、『お寺とは何ぞや?』と考え抜いて、庶民に開かれた寛永寺を構想し寺づくりをしたのは、お話しした通りです。
いわば信仰に対して確固たる信念があった人であり、信念だけでなく、人とのご縁によってこの信念を成就させた人です。寛永寺としては令和7年に、寛永寺創建400年の節目にあたるので、それまでに私たち寛永寺の人間で、天海大僧正の真実のイメージというのを広めていきたいなというふうに思っています」


寛永寺から発信したいメッセージみたいなものはありますでしょうか?

「そうですね。上野と言えば、花見の名所として取り上げられる機会も多いですが、元々は京都では春に梅を愛でる花見の文化がありました。そうした時期に、豊臣秀吉公が『醍醐の花見』というのを催して『桜の花見がすごいようだ』と噂が立ったそうです。いわば京都の最新の流行をいち早く取り入れたのが、天海大僧正でした。そこで天海大僧正はわざわざ奈良の吉野山から桜を持ってきて寛永寺の境内に桜を植えたと言われています。天然のヤマザクラは寿命が長くて100年以上も楽しめる。結果的に江戸時代を通じて、上野の桜並木というのは評判を呼びました。
天海大僧正は桜だけでなく、モミジとかイチョウとかも植えて、上野の山は紅葉の季節にも人が集まるようになりました。東京都のマークはイチョウですが、かつては「火事と喧嘩は江戸の華」といって江戸の街はとかく火事が多かった。明治以降火災に強い街づくりというのが大きな課題となっていました。そうした際に、脚光を浴びたのがイチョウの木でした。街路樹としてイチョウを植えれば、防火樹として機能するとして、都内の街路樹は軒並みイチョウの木が代用されたのです。

その先鞭となったのが、天海大僧正が上野の山に植えたイチョウの木です。いわば、今の東京の街づくりの基礎を作ったのも天海大僧正にゆかりがあることも知っていただければと考えています。実は私たちが目にしているものは、江戸時代に由来するものが実に多いんです。そういったことも後世に伝えらたらと思っています」

寛永寺案内後編では、幕末以降に寛永寺を襲った苦難の歴史をゆかりのスポットを訪ねながら紐解いていきます。

後編はこちら

寛永寺
〒110-0002 東京都台東区上野桜木1丁目14番11号