地域とともにお寺を伝える ―湖南三山 長寿寺 ご住職との語らい―
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探訪「1200年の魅力交流」

地域とともにお寺を伝える ―湖南三山 長寿寺 ご住職との語らい―

古来より、お寺は、地域に暮らす人々が集うとともに心の拠所でありました。

湖南三山の一つとして知られている長寿寺では、地域との深い繋がりが原動力となり、奈良時代の創建から1300年以上にわたり歴史と文化が紡がれてきました。そして、現在、地域の皆さんとともに、日本全国へ長寿寺の魅力を発信する様々な取り組みに挑戦されています。

今回、地域の皆さんの想いに溢れる長寿寺を学生たちが訪れ、「お寺と地域」をテーマに、ご住職を務める藤支良道師とざっくばらんに語らいました。

これまでの長寿寺への訪問(記事)

長寿寺のご由緒や仏様についてはこちらへ

◆国宝・本堂『先人たちの気概が表れる名建築』

美しい檜皮葺きの山門前でご住職と待ち合わせ。
まるで自然に柔らかく包まれているかのような、青もみじが彩る参道を、少しばかりの緊張と溢れる期待感を抱きながら、ご住職とともに進んでいきます。

「お参りする方々が喜んでほしい」と地域の方々が飾る可愛らしい置物に心惹かれる学生たち。
地域の方々との心温まるエピソードと時折聞こえる地域の子供たちが遊ぶ声に、おのずと笑みがこぼれます。

青々としたもみじのトンネルを抜けると、柔らかな屋根の曲線が美しい国宝・本堂の姿が見えてきました。

本堂《国宝/鎌倉時代の再建》

あまりの美しさに息をのむ学生たち。
本堂の内部に入り、最初に、ご住職より長寿寺の国宝・本堂の歴史と魅力を学びました。

「突然ですが、皆さん、長寿寺の本堂が国宝となっている由縁を考えてみましょう?ぐるっと見渡していただいて、気になるところを探してみてください。」

学生たちは、ご住職とともに本堂の内部をじっくりと観察します。

「長寿寺が創建されたのは、今から約1300年前の奈良時代のことです。本堂は、平安時代に火災で焼失後、鎌倉時代初頭に再建された建物が現在まで伝えられています。ですから、築年数でいうと、約800年前の建物ということですね。」

「再建されてから今日までの800年間で大規模な改築・リフォームがされていません。つまり、今皆さんが目にしている空間は800年前からほとんど変わっていないということです。このことから、中世を代表する建物として建築の教科書に度々掲載されています。」
本堂外陣の天井

「建物のつくりに注目してみましょう。非常におもしろい構造をしています。皆さん、天井をご覧ください。」

「天井が三角屋根になっていますね。さらに、仏様をおまつりしている内陣の天井も三角屋根となっています。つまり、檜皮葺の大きな屋根の下に、三角屋根が2つ並んでいる構造となっています。言い換えれば、2つの建物が並んでいるような空間ですね。」

「ただ、長寿寺の本堂は増築してこのような構造となったわけではありません。再建するときに、あえて1つの大きな屋根の下に2つの建物が並んでいるような構造としたと考えられています。」
左:外陣からみた柱、右:内陣からみた柱

「このことをわかりやすく示している部分が、内陣と外陣の境にある柱です。皆さんが座っている外陣から柱を見てみると、横方向の部材である桁と組み合わさる部分で柱が終わっているように見えますよね。しかしながら、内陣からこの柱を見てみると、この桁よりも上までもっと高く伸びているのです。」

「このような手間をかけなくても建物を建てることはできますから、この独特な構造にこだわっていると言えると思います。このような建物は、長寿寺の本堂を含めて全国で3例ほどしか伝えられていないそうです。」

「それでは、なぜ、わざわざ2つの三角屋根が並ぶ構造としたのでしょうか?様々な説がありますが、この構造には、当時の大工の棟梁の気概・想いが込められていると言われています。このことを紐解いていくために、内陣からも建物の構造を見てみましょう。」
ご住職に続き、薄暗い内陣へ進みます。

「この真っ暗な状態が内陣のデフォルトの状態です。長寿寺の本堂は、天台宗の密教を行うために建てられた本堂ですから、構造的に外の光が入らないように工夫がされています。お坊さんたちは、真っ暗な内陣の空間に灯明をたてて、わずかな光のもとで仏様に向き合い、修行に励みました。」

国指定重要文化財《木造阿弥陀如来坐像》平安時代

わずかな光に照らされ、暗闇の中に浮かび上がる仏様。
柔らかな影と金色をまとう仏様に学生たちは向き合います。

しばらくすると、暗闇に目が慣れ、だんだんと内陣の建築構造の様子が見えるようになりました。

「内陣にも珍しい構造がいくつかあります。まずは、天井をご覧ください。先ほどお話ししたように、内陣も三角屋根になっています。いくつかの建築の教科書を見てみると、内陣の天井の様式は「切妻造り(きりづまづくり)」と紹介されています。」

「切妻造りとは、本を伏せたように、山状の大きな傾斜が手前と奥にある屋根の形式です。この切妻造りの屋根の下にさらに庇を設けると「入母屋造り(いりもやづくり)」という形式になります。」

「屋根の様式に基づいて天井を見てみると、手前側と奥側に大きな傾斜があり、横側に庇があるように見えますから、一見すると内陣の天井は入母屋造りのように見えますね。しかしながら、先程お伝えしたように、建築の教科書では切妻造りと紹介されています。これはどういうことなのでしょう?」

「私も長年疑問に思っていましたので、本堂の調査に来られた建築の専門家の方々にお聞きしました。すると、おそらく入母屋造りの完成形と構造が少し異なっていることから切妻造りとしているのではないかとのことでした。このことが一番分かる部分が、内陣の三角屋根を支える柱の上の部分になります。」

「この柱の上をご覧いただくと、奥から手前に伸びる部材が半分だけ柱に乗っているように見えると思います。この半分だけ柱に乗っているという構造が独特で、入母屋造りの完成形では柱の上に全て乗るのだそうです。この点が内陣から分かる珍しい構造の1つです。」
「長寿寺の本堂には、他にも珍しい点があります。今度は内陣と外陣の屋根を見比べてみましょう。皆さんは違いに気が付きますか?」

本堂内陣の天井

「それぞれの屋根を支え方に注目してみましょう。内陣の屋根は「への字」のような形で支えていますね。一方、外陣を見てみると、真ん中を組物(くみもの)という部材で支えています。同じ建物なのに屋根の支え方が大きく異なっているのです。」
国指定重要文化財《木造釈迦如来坐像》平安時代

「なぜ屋根の支え方の様式が異なるのか?この疑問の明確な答えは、残念ながら分かっていません。しかしながら、建築の専門家の方々が様々な説を考えてくださっています。その中で一番ロマンがあると感じる説が、当時の大工の棟梁のプライドを表しているという説です。」

「内陣と外陣の支え方の違いは、それぞれの建築様式が流行した時代の違いであると言われています。内陣の「への字」のような支え方は、現在の本堂が建てられた鎌倉時代よりも古い平安時代以前から用いられてきた支え方で、外陣の支え方は当時の最新の支え方なのだそうです。」

「この時代の違いのどのようなところから当時の大工の棟梁のプライドが感じとることができるのでしょうか。皆さん想像してみましょう。」
《木造毘沙門天立像》平安時代

「最新の建築様式のみで本堂を再建したとします。現在の私たちの感覚で言うと、今までの木造の建物からガラッと変わり、鉄筋コンクリートで再建したようなものでしょうか。その姿を想像してみると、これまで紡いできた歴史から離れてしまったような、ありがたみが薄れてしまったような感覚を抱いてしまいますよね。」

「その一方で、今までの様式のみで再建したとすると、最新の技術を本当に身につけているのか?と大工の棟梁は後ろ指を指されてしまうかもしれません。技術力で勝負している棟梁の気持ちになってみると、やるせない気持ちになります。」

「そこで、当時の大工の棟梁は考えたのだと思います。このように2つの技術を1つの建物に共存させれば、『従来の技術も最新の技術もどちらも身につけているのだ』とアピールすることができるのだと。」

「残念ながら当時の記録は残っていませんから、正確なことは分かりません。ただ、建物には、棟梁のような建物を作る人たち、そして建物を発注した人たちの意図や考えが必ず表されていると思います。約800年前から大きく変えずに伝えられているからこそ、800年前に生きた人々の息づかいに触れることができる。このことこそ、長寿寺の本堂が国宝たる由縁であると私は考えています。」

◆御本尊・子安地蔵菩薩様『仏様のお姿となる以前より地域の祈りを受け止め続ける』

本堂に込められた800年前の人々の想いに触れた学生たち。
続いて、内陣中央におまつりされている長寿寺の秘仏御本尊様へ眼差しを向けます。
国宝附《秘仏御本尊・子安地蔵菩薩様をおまつりする厨子》文明12年(1480)

「こちらのお厨子の内部には、長寿寺の御本尊様である子安地蔵菩薩様がおまつりされています。御本尊様は秘仏でして、なんと50年に一度の御開帳となっている仏様となっています。ただ、流石に50年だと長いですから、丁度半分の25年目に中開帳(なかがいちょう)を設けています。」

「とても珍しいことなのですが、御本尊様の御開帳を始めた方の名前が伝えられています。江戸時代初めの住職で、藤岡坊聖珊(ふじおかぼう しょうさん)という方です。」

「この方は、もともとこの地域の生まれで、今でも家がある青木家の出身であったと伝えられています。聖珊さんは次男坊で家を継がなかったので、お坊さんとなり、京都のいくつかのお寺の住職を務めていたそうです。」
《藤岡坊聖珊坐像》江戸時代 本堂後堂におまつりされている。

「月日は流れ、聖珊さんがしばらくぶりに地元に戻ってみると、なんと長寿寺がボロボロになってしまっていたそうです。」

「『これはえらいこっちゃ』と考えた聖珊さんは、御開帳を通してお参りの方々から広く支援をいただいてはどうかと考え、御本尊様の御開帳を行い、これより先33年に一度の御開帳とするように定めたそうです。その後、なぜか現在のように50年に一度の御開帳となり、今日まで御開帳の文化が受け継がれています。」

《本堂外陣にかかる懸仏》

「数年前のことですが、御本尊様に対して専門的な調査が初めて実施されました。その結果、現在の御本尊様は平安時代の12世紀に造立された仏様であることが判明しました。その調査のときに特別に撮影した写真がこちらになります。」

ご住職の手元の写真には、中央の大きなお地蔵様と御本尊様の脇をかためる観音菩薩様と毘沙門天様のお姿がありました。

「中央のお像が御本尊である子安地蔵菩薩様です。写真では少し小さく見えるのですが、実際の大きさは私と同じくらいの大きさの一木造りの大きなお地蔵様です。お地蔵様のお姿をじっくりとご覧ください。実は、御本尊様の左右の肩の高さが違うのです。」

「それではなぜ高さが違うのかと申しますと、一方の肩の部分に木の節が残っているからだそうです。この木の節が非常に硬く、削りきることができなかったことから、左右の肩の高さに違いが生まれたと考えられています。」

「ここで不思議なのが、なぜわざわざ節のある木を使ったのかという点です。通常、節が残る木は、きれいな仏像を造立するには適していませんから、使われることはほとんどありません。ですから、節が入っていてもこの木を使う理由があったのだと考えられています。」

「おそらく、御本尊様が造立された木は、この地に枝を広げていた御神木だったのでしょう。もしかしたら、ある時、この御神木が倒れてしまったのかもしれません。今まで地域を見守り、人々の祈りを受け止めてきた御神木を拠所としていた先人たちは、御神木からお地蔵様を造立しておまつりしたのだと思います。」

「御本尊様のお姿が造立されたのはおよそ1000年のこと。御本尊様を形作る木は、それより以前の時代から、御神木として人々の祈りを受け止め、地域を見守り続けてくださっているということになります。このように考えると、御本尊様はこの地域のシンボルであると言えると思います。」

◆後堂の仏様たち『地域の秘められた歴史を伝える』

続いて、本堂の後堂へ歩みを進めました。
後堂へ続く幕を開くと、そこにはずらっと並ぶ大きな仏様たちのお姿が。
至近距離で仏様と相対する圧巻の光景が広がっていました。
《木造地蔵菩薩坐像》江戸時代

「こちらは後堂(うらどう)と呼ばれる空間です。もともとは、祈りの空間というよりも、通路や仏具などを保管するための物置として使われていた空間です。現在は、お堂がなくなってしまった仏様をこちらにおまつりしています。」

「一番左側にお地蔵様をおまつりしています。最近、このお地蔵様について新たな発見がありました。もともとこちらのお地蔵様は、鎌倉時代に造られたお像と言われていたのですが、仏像の専門家の方々に調べていただいたところ、お像のつくりは鎌倉時代、ただ表面の劣化の様子がもっと新しい時代の特徴を表しており、なかなか判断が難しいとのことでした。」
《木造地蔵菩薩坐像》江戸時代

「そこで、何回か詳しく調べていただいたところ、やはり時代は近世、江戸時代に造られたお地蔵様ではないかとのことでした。」

「ただ、鎌倉時代の特徴が色濃く表れているので、おそらく、このお地蔵様のモデルとなった鎌倉時代のお地蔵様がいらっしゃって、その鎌倉時代のお地蔵様のお姿を、すごく腕の良い江戸時代の仏師さんが写して造立したのがこちらのお地蔵様ではないかとのことでした。なかなかロマンがあるお話ですよね。」

「また、江戸時代に描かれた東海道のガイドブックのような書物を見てみると、長寿寺の近くに「地蔵堂」が描かれているのです。おそらくですが、こちらのお地蔵様は地蔵堂にいらっしゃったお地蔵様なのだろうと思っています。」

「もしかしたら、モデルとなった鎌倉時代のお地蔵様もどこかにいらっしゃるのかな?もしご存知の方がいらっしゃったら教えてください!」
滋賀県指定有形文化財《木造伝聖観音菩薩立像》平安時代

秘仏御本尊様の御開帳を通して長寿寺を復興された藤岡坊聖珊のお像の隣には、金色に輝く穏やかな聖観音菩薩様と伝えるお像がおまつりされていました。

「こちらのお像、今でこそ綺麗なお姿でお立ちになっていますが、私が子供のころはバラバラの状態で立つことができず寝かされていました。」

「ただ幸いなことに、滋賀県の文化財に指定されていましたから、およそ10年間修理工房にお預けしてお戻りになられました。」

「現在は両手で蓮の花をお持ちになっていますが、修理実施前は、確か手首か肘くらいから先が失われてしまっており、何もお持ちでなかったと記憶しています。」

「しかし、聖観音菩薩様として伝えられていたこともあり、修理からお戻りになった際にどこからか両手で蓮の花をお持ちになって帰ってこられました(笑)。」
滋賀県指定有形文化財《木造伝聖観音菩薩立像》平安時代

「せっかく綺麗な蓮の花をお持ち帰りいただいたのですが、仏像の専門家の方々にご覧いただくと、もともと聖観音菩薩様ではなく、お薬師様の脇侍である日光菩薩様だったのではないかとのことでした。」

「日光菩薩様も聖観音菩薩様と似た髪型で、蓮の花の先に日輪を乗せる持物をお持ちですから、ポーズが似ているのです。ですから、いつの頃からか、日光菩薩様から聖観音菩薩様にお代わりになって、私たちを見守り続けてくださっている仏様です。」

◆鬼走り『長寿寺が地域のシンボルであり続ける由縁の行事』

後堂には、毎年1月に行われている鬼走り(おにばしり)の様子を写した写真も展示されています。

湖南市指定無形民俗文化財《鬼走り》

「長寿寺が地域の方々から地域のシンボルと言われる由縁がこちらの「鬼走り」という行事です。こちらの鬼走りは長寿寺の行事なのですが、地域の行事でもあります。この地域では、地域の長老である十人衆が決裁権を握る仕組みが今も残っており、鬼走りや法要を取り仕切っているのも、この十人衆と呼ばれる長老たちです。」

「ご高齢の長老さんも多いので、集まる機会があっても全員集まることは難しくなってきているのですが、鬼走りの時はほとんどの長老さんが集まります。それだけ地域にとって特別な行事なのです。」

「鬼走りは、毎年1月に行う1年の国家の安泰を祈る法要である修正会(しゅしょうえ)の一環として行われます。「正月に修す(しゅす)」ということで修正会ですね。また、節分のように悪い鬼を追い払う追儺(ついな)の側面も持っています。」

「この鬼の役(鬼子、おにこ)を担当するのが、古来より地域の15歳の男の子と決まっていました。鬼走りで無事に鬼子を終えると、地域で一人前となります。昔ですと元服(げんぷく)、今の価値観ですと成人式のような行事ですね。」

「ですから、今の地域の皆さんは全員経験しています。自分が経験したときに、地域のみんなから祝福されて嬉しかったからこそ、今度は自分たちが子供たちを祝福する番だということで、長老さんをはじめ、多くの地域の方々が鬼走りに携わっていただいています。」

「しかしながら、今は少子高齢化の時代ですから、以前のように毎年15歳の男の子が地域にいるわけではありません。ですから、14歳、13歳とだんだん下がっていき、現在は小学校6年生が鬼子になるという形に変わりました。この写真の鬼子は15歳の鬼子で勇ましい姿ですが、今はもっと可愛らしい鬼子ですね(笑)」

「ただ、それでも途切れることが多々あります。途切れてしまった際、「今年は休止する?」と聞いたこともあるのですが、地域の方々全員「休止することは絶対ない。」との熱意があふれる返答でした。」

「そこで、途切れそうになった際には、1度鬼子をやったことのある人がもう一度行う「花がえり」や、地域の外で暮らしているゆかりの深い方々にもお声がけして続けています。ありがたいことに、どの方々も二つ返事で引き受けてくださり、鬼走りが地域でいかに大切にされているかを実感しています。」

「また、地域の小学校にもご協力いただいて、地域のことを学ぶ体験学習としても取り入れていただいています。鬼走りでは、太鼓や鐘を鳴らしたりする役など、鬼子以外の役もたくさんありますから、実際に様々な役を子供たちに担当してもらっています。太鼓や鐘の叩き方などを通して、地域のおじいちゃんたちと子供たちが交流する場ともなっていますね。」

「以前、芸能人が作った俳句を審査するテレビ番組で、「鬼走り」が季語として使われた俳句が登場したことがありました。その際、テレビ番組から問い合わせがあり、番組用に資料提供をしたことがあります。ちなみに、「鬼走り」が入った俳句は、残念ながらかなり添削されていました...。」

「鬼走りという行事は、今では長寿寺と奈良の陀々堂の2カ所でのみ行われている珍しい行事だそうです。ただ、「鬼走り」という単語が季語として使われているということは、誰もが「鬼走り」という単語を聞いて思い起こすことのできる、全国的に親しまれていた行事だったのかもしれませんね。」

◆丈六仏・阿弥陀如来様『自ら地域へお戻りになった大仏様』

本堂を出てアジサイが彩る小径を進むと、大きな阿弥陀如来様がおまつりされている収蔵庫へたどり着きました。

こちらの大きな阿弥陀如来様にも地域の方々との逸話が伝えられています。

「こちらの仏様は阿弥陀如来様で、平安時代末期に造立された仏様です。近くでご覧いただくと、かなり大きな仏様であることが体感できると思います。お像の高さがおよそ2m80cmの大きな仏様です。」

「この阿弥陀如来様のような大きな仏様を丈六仏(じょうろくぶつ)と呼ぶことがあります。これは、お経の中で説かれている実際の仏様の大きさで表した等身大のお像のことを呼ぶそうで、立像だと一丈六尺(約4m80cm)、坐像だと八尺(約2m40cm~2m80cm)の大きさとなるそうです。そう考えると、こちらの阿弥陀如来様は少し大きめの丈六仏ですね。」

「地域の伝承では、こちらの阿弥陀如来様は伯耆国(ほうきのくに、現在の鳥取県)から遥々長寿寺へお越しになったと伝えられています。本当かな?と思っていたのですが、仏像の専門家の方々にご覧いただくと、特にお顔の造形表現が、中央の仏師さんというより地方の仏師さんによるものではないかとのことでした。ですから、あながち間違いではないのかもしれないですね。」

国指定重要文化財《木造阿弥陀如来坐像》平安時代

「この阿弥陀如来様には、この地域らしい逸話が伝えられています。今から約80年前、太平洋戦争が終結したときのお話しです。こちらの阿弥陀如来様は、なんとGHQに接収されてしまったのだそうです。地域のおじいさんによると、この阿弥陀如来様を運び出すために、現在のグラウンドのあたりでトレーラーに乗せられていたそうです。」
国指定重要文化財《木造阿弥陀如来坐像》平安時代

「残念ながら、阿弥陀如来様はそのまま大阪湾まで運ばれてしまいました。そして、船でニューヨークまで運ばれ、美術館に収蔵される予定だったそうです。しかし、船へ運ぶ直前になって、この地域で疫病が流行。『これはきっと大仏様が運び出されたからに違いない』となり、地域の方々は『大仏様を返してほしい』とGHQに嘆願をしました。」

「終戦直後のことですから門前払いになるかと思いきや、なんと嘆願が通って、この地域に無事にお帰りになられました。地域では今でも『大仏様が自分でお帰りになったんだ』と言われています。」

「その後、阿弥陀如来様は、木造の小さなお堂におまつりされていました。しかしながら、そのお堂も老朽化が進み、大きな収蔵庫を建てようとなりました。今から40年くらい前のことです。」

「収蔵庫を建てるということは、こちらの阿弥陀如来様を移動する必要があります。阿弥陀如来様は国の重要文化財に指定されていますから、通常は専門の業者に依頼する必要があります。」
地域の方々によって運ばれる阿弥陀如来様

「通例通り業者に依頼するために入札をかけたのですが、なかなか応札がありませんでした。最初は値段が低いからなのかな?と思っていたそうなのですが、なぜか値段を高くしても応札がありませんでした。」

「そこで、いろいろ調べてみると、どうも先程お話ししたGHQによる接収と疫病の流行が影響していたのだそうです。どういうことかというと、この阿弥陀如来様をお移しすると祟られてしまうのではないかということでした。」

「いくら待っても阿弥陀如来様をお移しすることができません。そこで立ち上がったのが、地域の方々です。『自分たちで大仏様をお移しする』となり、隣の十王寺まで地域一丸となって阿弥陀如来様を運びました。」

「私が小さい頃の話ですが、今でもはっきりと記憶に残っています。確か当日の天気が大雪となってしまい、阿弥陀如来様が濡れないようにと、農業用のビニールシートでぐるぐる巻きにして運びました。」

「また、運び先の十王寺は白壁の塀に囲まれているのですが、塀を越えることができないと分かり、急遽塀を壊して十王寺へ運び入れていましたね。」
腐朽の進行を遅らせる応急処置が施された本堂の檜皮葺屋根

「この時の光景を思い返してみると、地域の方々は、『自分達が運ばなければならない』と強い責任感を持って阿弥陀如来様を運んでいらっしゃったと思います。」

「そしてその想いは現在も変わっていません。この強い想いが長寿寺と地域の強みだと思います。長寿寺の住職である私の行うべきことは、地域の方々が抱くこの想いを途切れないようにすることだと考えています。」

「そう考えたとき、必ず付きまとうのが費用の問題です。例えば、先ほどご覧いただいた本堂の屋根ですが、かなり傷みが進んでいます。屋根全体の葺き替えとなると、総額3億円くらいはかかると思います。国をはじめ県や市からご支援をいただくことはできると思いますが、長寿寺だけでも数千万円ほど負担する必要があると思います。」

「地域の方々は約50軒ほどですから、かなり大きな負担となってしまいます。これではお寺と地域の関係を守るどころか、お寺と地域との繋がりが切れてしまいます。そこで、観光やクラウドファンディングを通して、全国の皆様へご縁の繋がりを広げていくことが、地域とともにお寺を伝えていく一助になると考えています。」

「長寿寺はこれまでに3回くらいクラウドファンディングに挑戦しています。その取材にいらっしゃった記者さんから『まさに現在の勧進(かんじん)ですね。』とお話しされたことがあります。勧進とは、お坊さんが全国をまわることで、遠く離れていてもお寺とご縁を結んでいただき、みんなでお寺を伝えていく取り組みのことです。東大寺の復興の際に活躍した重源さんが有名ですね。」

「日本だけでなく世界中とも簡単に繋がることができる今の時代だからこそ、幅広い国・世代・立場の方々へ、長寿寺と地域の魅力を届けることができます。現代だからこそできる挑戦を行い、皆様と長寿寺のご縁を繋いでいきたいと思います。」

長寿寺の境内を巡りながら、長寿寺と地域の方々との強い絆と熱い想いを体感する学生たち。

最後に庫裏へ場所を移し、ざっくばらんにご住職と語らいました。

◆地域の祈りの場所として長寿寺を伝えたい

庫裏へ入ると、青い衣が涼しげにたなびき、切り絵で表現された大きな鯉が力強く大きく飛び跳ねていました。

境内に育つ木々の深緑を背景とするその光景からは、境内に満ちる穏やかながらも凛とした清らかな雰囲気と相まって、自分の心が元気になるような生き生きとした生命力を強く感じました。

「『長寿寺にお参りして良かったな』とお参りの方々が思っていただけるように、地域の方々とも協力して様々なことに挑戦しています。こちらの庫裏の設えもその一つですね。」

学生たちは、それぞれの感性に従い、時を過ごします。
しとしとと降る雨粒の音と鳥のさえずりに耳を傾けながら、ご住職へ質問を重ねました。

―お寺を次世代へ伝えていく上で大切なことの一つに、建物や仏様などの修復があると思いますが、長寿寺ではどのような取組をされているのでしょうか?

 

「最近の例ですと、地蔵曼荼羅の修復プロジェクトを行いました。地蔵曼荼羅は室町時代に描かれたと考えられている仏画で、中央に6つの腕を持つ地蔵菩薩様を中心に約1万2千体の小さなお地蔵様が描かれています。このような仏画は非常に珍しいそうです。」

陶板の地蔵曼荼羅

「しかしながら、劣化が激しく、開くと絵がぽろぽろと剥落してしまうため、開くこともできず巻物のようにずっと保管していました。そこで、『地蔵曼荼羅修復プロジェクト』として、クラウドファンディングに挑戦いたしました。」

「その結果、日本全国の方々から多大なるご支援をいただきまして、無事修復を完了することができました。非常にありがたいことです。」

「また、修復の際に得た地蔵曼荼羅のデジタルデータをもとに、仏様のお姿に実際に触れて感じていただける陶板の地蔵曼荼羅の制作に挑戦いたしました。」

「制作は大塚オーミ陶業株式会社の職人さんたちにお願いしまして、約1万2千体の小さなお地蔵様1体1体を感じていただけるように試行錯誤を重ねていただきながら、素晴らしい陶板の地蔵曼荼羅を制作いただきました。お参りの皆さんには、庫裏の先にある地蔵堂で、いつでも触れてお地蔵様たちのお姿を体感いただいています。」

地蔵曼荼羅の修理の様子(記事)はこちらから

国指定重要文化財《弁天堂》室町時代 文明16年(1484)

「今後の修復について目を向けますと、やはり本堂や弁天堂の檜皮葺になりますね。先ほどご覧いただいたように、本堂の屋根の先の部分に応急処置を施しています。このとき、滋賀県の担当者の方から伺ったのですが、この応急処置で最大10年くらい対応できるそうなのですが、それ以降は厳しいとのことでした。ですから、屋根の葺き替えを行うために準備を進めています。」

「また、国の重要文化財に指定されている弁天堂の屋根も厳しい状態です。正面の唐破風屋根の付け根の部分に雨水が溜まってしまい、檜皮の腐朽がひどい状態となっています。本堂の屋根の葺き替えと併せて弁天堂の屋根の修復も考えています。」

「お寺を伝えていくことと修復は切っても切れない関係ですが、修復するための費用の問題や技術の担い手や活躍の場の減少などのために、現状、文化財を守り伝えていくことは、携わっている職人さんたちや行政の方たちの使命感と献身でぎりぎり成り立っているような状況であると痛感しています。」

「そのような中で、お寺としてできることは、修復を行える費用や準備が整い次第、職人さんたちに修復をお願いして、職人さんたちが活躍する場を増やしていくことだと考えています。」

―長寿寺を守り伝えていく上で、ご住職のこだわりはありますか?

「やはり、地域の祈りの場としてお寺を伝えていきたいということでしょうか。もともと、私がこの地域で生まれ育ったということも大きいとは思いますが、この地域があってこその長寿寺だと考えています。」

「確かに、地域とお寺の関係を完全に切って、お寺だけを守っていくという考えもあるとは思います。ただ、それは、これまで地域とともに紡いできた『祈り』、そして『文化』を絶やしてしまうことであると思います。」

「境内を巡りながらお話ししてきたように、建物や仏様には、先人たちの想いが込められています。この想いが代々地域で受け継がれているからこそ、『自分たちが守る』という意識が育まれ、長寿寺が守り伝えられてきたのだと思います。この地域とお寺の繋がりをこれからも大切にしていきたいです。」

「そして、住職に課せられた使命は何かというと、『祈りを絶やさない』ということになると思います。ただ、この祈りは、住職が一人でお祈りしているということではなく、地域の祈りの場として地域の皆さんが集うお寺を維持し続けるということであると考えています。」

「このことを中心に置いた上で、観光などを通し長寿寺の魅力をどのように地域の外へ発信していくか、考え続けて実践していくことが住職との役割だと考えています。」

―地域のシンボルである「鬼走り」ですが、保存会のような組織が主体となって伝承しているのでしょうか?

「通常ですと、主体となる保存会を作って伝統的な行事やお祭りを伝えていくという地域が多いと思うのですが、実は、この地域はそうではないのです。地域の皆さんは、鬼走りに携わることがあたりまえになっていますから、これまで保存会を作らなくても鬼走りは伝えられてきました。」

「ただ、今年2026年の4月に鬼走りが湖南市の無形文化財に指定されましたから、市からぜひ保存会を作ってほしいとの連絡がありました。このことを地域の皆さんに共有したところ、新しい組織を作るのではなく、長寿寺の信徒さんの組織である信徒会が保存会の役割を担うことになりました。これは、たくさんの信徒の方々が鬼走りを大切なことだと思っていただいているということだと思います。」

「そういう意味では、鬼走りを伝えていくことが地域で当たり前であるからこそ、変に肩肘張らずに自然体で文化を伝承することができているのだと思います。この地域らしい文化伝承を大切にしていきたいですね。」

―御本尊様は50年に一度の御開帳とのことでしたが、次回の御開帳は予定されているのでしょうか?

 

「するどい質問ですね(笑)。現時点では、しばらく御開帳の予定は考えていません。ただ、先程お話ししていた本堂の屋根の葺き替え修理が完了したときに、落慶法要というお祝いの法要を行う予定です。地域の方々ともお話ししていますが、タイミングをふまえるとこの時かな…?と考えています。その時はぜひお参りくださいね!」

―明治の頃の廃仏毀釈運動の影響はあったのでしょうか?

「良い質問ですね。おそらくですが、ほとんど影響が無かったのだと思います。そのことが最も分かるのが、長寿寺の隣にある白山神社です。以前、白山神社の調査を行った際、十一面観音様と可愛らしい女神様のお像が並んでおまつりされていました。」

「これは、本地垂迹説といって仏様が私たちをお救いになられるために神様のお姿で現れたとする説に基づいて、神様とその本地仏を並べておまつりしていたのだと思います。」

「このような祀り方は、古来当たり前であったそうなのですが、明治の神仏分離令のときに、仏様のお像はお寺へ移されることがほとんどだったそうです。ですから、仏様と神像が並んでおまつりされているということは、神仏分離令や廃仏毀釈運動の影響がほとんど無かったのではないかと学芸員の方から伺いました。」

「また、明治の頃にこの地域で仏様の破壊や移動等を行ったという話は一切ありません。ですから、社会全体の価値観が急激に変化していても、地域の方々は自分たちの信じる存在を変わらず守り続けたのでしょう。この祈りと想いの強さは現在にも受け継がれている地域の強みです。」

「風習としても神仏習合の祈りが伝えられています。現在も1年に一度、白山神社で雨乞いの読経を行っています。白山神社の拝殿に座り、雨乞いの石を置いて、本殿へ向かって般若心経をお唱えします。神仏習合の祈りは途絶えてしまった所も多いと伺いますが、この地域では当たり前のこととして途絶えることなく伝えられています。」
ご住職と学生たちによる笑顔溢れる語らいの時間はあっという間に過ぎていきました。
いつしか降っていた雨は上がり、夕暮れの雰囲気が境内に満ちています。
どこか懐かしさも感じる穏やかな境内の雰囲気は、ご住職が抱く「お寺に関わりたいなと思ってもらえるお寺でありたい」という想いを表しているようでした。

地域とともに歴史を紡ぎ続ける長寿寺。
たくさんの方々の想いに溢れる長寿寺への再訪をご住職と誓う学生たちでした。

◆ご住職との語らいを終えて -参加学生の感想-

境内には可愛らしい小物が随所に飾られており、温かみのある雰囲気が感じられました。また、美しく色づいた紅葉がとても印象的で、自然と調和した落ち着いた空間に心が和みました。

特に印象に残ったのは、地域との交流についてのお話です。中でも「鬼走り」という行事が地域の方々にとって大変重要な存在であり、長寿寺と村の人々とのつながりを支える大切な役割を果たしていることを知り、深く感銘を受けました。近年では全国的に、お寺と地域住民との関係が以前に比べて希薄になりつつあると言われています。しかし、そのような状況の中でも伝統行事を通じて人々の交流を維持し、地域の文化や歴史を次の世代へ受け継いでいくことの大切さを改めて感じました。

また、お堂の建築に関するお話も非常に興味深いものでした。一つの建物に二つの三角屋根が設けられているという、日本でも珍しい建築様式であることに驚きました。さらに、それぞれの屋根の様式が異なっている理由について、棟梁の技術や美意識、そして職人としての誇りが反映されているのではないかというお話がとても印象に残っています。建物そのものだけでなく、そこに携わった人々の思いや時代背景にまで思いを巡らせることができ、大変貴重な学びとなりました。

今回の見学を通して、長寿寺が地域の文化や人々とのつながりを大切にしながら受け継がれてきたことを実感することができました。

立命館大学 大学院 修士1年


湖南の名刹である長寿寺にお伺いすることができ、とても幸せな時間を過ごすことが出来ました。

門をくぐった瞬間から参道を埋め尽くしていた木々の緑に圧倒され、所々に姿を現していた動物たちも可愛く、紅葉の時期にもまた来たいと思うような場所でした。普段では立ち入ることのできない場所や屋根裏の入り口などを見せていただきとてもワクワクしました。村人たちが自力で大きな仏像を運んだ話や住職としてどのように寺を守っていくかを日々考えていらっしゃることなど、面白く興味深いお話をたくさん伺うことができました。

そのなかでも印象にのこったのは、村の子どもの通過儀礼である鬼走りという行事です。たとえ子どもが減っても決して中止させないという大人たちの意志の強さから、このお寺がこの地区に必要であり皆の居場所になっていると強く実感しました。また機会があればお伺いさせていただきたいと思います。

龍谷大学 3年