日本遺産「琵琶湖疏水」をクルージング
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日本遺産「琵琶湖疏水」をクルージング

令和2年9月24日、びわ湖疏水船に乗船させていただきました。船から見えるあらゆる光景、ガイドさんによる随所でのご解説…、びわ湖疏水船は、私に数多くの感動と驚きをもたらしてくれました。

文:立命館大学2回生 小林みのりさん

びわ湖疏水の建設は、幕末の騒乱と明治維新による東京遷都により、人口の減少、産業の衰退に陥った京都を再興させようと計画され、京都府第三代知事である北垣国道と、主任技師であった田邊朔郎を中心に、この一大事業は始まりました。
驚くべきは、主任技師であった田邊朔郎についてです。工部大学校(後の東京帝国大学工学部)での卒業論文の題材として「びわ湖疏水工事の計画」について書いた田邊は、卒業後、弱冠21歳にして疏水工事の担当者に抜擢されたといいます。私とさして年の変わらない若者が、そのような未曽有の一大事業に携わり、そして見事完成させたという事実にただただ驚嘆するばかりでした。

びわ湖疏水船には、二つのルートがあります。
一つは大津から出発して蹴上に向かう下り便。
もう一つは蹴上から出発して大津に向かう上り便。
今回私が参加したクルージングは大津発の下り便です。下り便の場合、乗船時間は約一時間程。そこで見たこと全てを書き記していくのは難しいので、以下、私の印象に残った事柄などを中心に、クルージングに参加した感想を書いていこうと思います。
印象に残った事柄の一つ目は、第一トンネルです。第一トンネルは、大津の乗船場から船に乗り込んだ直後にさしかかる、このびわ湖疏水の見どころの一つ。このトンネルで感じたことは、びわ湖疏水建設の事業の巨大さ、その工事に関わった人々の努力と苦悩、そして現在その恩恵にあずかることの出来るありがたさでした。
びわ湖疏水の建設がいかに巨大な事業であったか、それを物語っているのは、扁額(へんがく)と第一トンネルの全長です。
扁額とは、トンネル洞門にある文字が彫られた額のことを指し、びわ湖疏水の建設当時から、そのままに残る三つのトンネル(第一、第二、第三トンネル)全てで見ることが可能です。
第一トンネルの扁額は、初代内閣総理大臣である伊藤博文の揮毫(きごう)によるもの。

第一トンネル東口洞門の揮毫「気象萬千」(意味:様々に変化する風光は素晴らしい)

その他のトンネルの扁額の揮毫者にも、山縣有朋、井上馨、西郷従道、松方正義など、明治期において重要な役職を歴任した偉人たちが名を連ねます。時の元勲たちからの揮毫が彫刻された扁額に、びわ湖疏水建設事業がいかに着目されていたかを窺い知ることができました。

また、第一トンネルの全長は約2400メートルにも及びます。第一トンネルだけでさえこれほどまでに長いのならば、びわ湖と京都をつなぐ疏水を総合的に捉えたときの距離とその建設にかけた労力を考えると、気が遠くなるような思いがしました。
このような一大事業を遂行したのですから、勿論そこには工事に関わった多くの人々の努力と苦労があったことでしょう。その片鱗を垣間見ることのできるのが、まさに第一トンネルです。

前述の通り、第一トンネルの全長は約2400メートルもあります。船のライトがなければ何も見えない暗い闇の中、出口から射し込む光であろう白く小さな点のみからトンネルの長さを想像するのは非常に難しく、「そうは言ってもそこまで長くはないだろう」と500メートル程と推察していた私は、ガイドさんから教えていただいた2400メートルという数を聞いて驚愕しました。
現在のような十分な電気がない当時においては、勿論、トンネル内を明るく照らすことも、動力を搭載した船で移動することもできません。そのような非能率的・非効率的な状況下で、約2400メートルにも及ぶ長距離間にトンネルを築いた人々の営みが、この第一トンネルではひしひしと感じられます。トンネルの中を進む最中、ガイドさんが建設の足跡が残る様々な事柄を紹介してくださいました。
例えば、トンネルの工事をする人々が移動する際にそれを手繰り寄せるようにして使ったというロープを、終始その壁に見ることができました。また、「竪坑(たてこう)方式」により工期を早める目的で作られたという第一竪坑や、炎でトンネル内を明るく照らすことで生じる煤の充満した空気を換気するために作られたという第二竪坑なども見られました。それらの中で、特に印象的だったのは第一竪坑です。真っ暗なトンネルの中に頭上から光が射しこみ、水面がきらきらと光っていた光景は、いかにも幻想的で美しく見えましたが、その美しさとは相対的に、そこでの過酷な工事ゆえに、複数人の殉職者が出たという話は非常に衝撃的でした。

現在でも、びわ湖疏水から京都へと水が運ばれ、その恩恵にあずかることができているのは、びわ湖疏水の建設を計画した北垣国道や田邊朔郎をはじめ、犠牲者を出しながらも過酷な労働環境の中で工事に従事した数多くの先人たちのおかげであることを痛感した第一トンネルでの見聞は、私にとって非常に得難い経験になりました。

印象に残った事柄の二つ目は、びわ湖疏水と地元の方々とのつながりです。それが感じられたのは、疏水脇の遊歩道に沿ってかわいらしく咲いていたコスモスと、その遊歩道を散歩する方々の存在でした。
トンネルを抜けた野外のクルージング中、オレンジ色に咲くたくさんのコスモスを目にしました。ガイドさんのお話によると、地元の方々のご厚意によって植えられたものだそう。びわ湖疏水が地元の方々にとっていかに慣れ親しんだものか、いかに大切に思われているかということが実感されました。
また、きっと日課の一つなのでしょう、その遊歩道を散歩していらっしゃる方々も多く見受けられ、水の活用といった疏水の主たる役割とはまた異なる方向から、地元の方々の生活の一部としてびわ湖疏水が根付いているように思いました。そんな方々はとても温かく、船の中から挨拶をすれば、挨拶を返してくださったり、手を振れば、あちらも手を振ってくださったりと、彼らとのちょっとした交流に嬉しさを感じました。彼らの温かさに触れることができるのも、このびわ湖疏水クルージングの魅力の一つかも知れません。

大学進学を機に、私が京都に住み始めることはや二年。恥ずかしいことに、びわ湖疏水を介して形成された京都と滋賀の間の深い関係性、びわ湖疏水が京都に住む我々にもたらす恩恵、偉大なる先人たちの知恵と努力など、びわ湖疏水に関する様々なことを何一つ知らずに生活してきました。
しかし、おそらく私のように、何も知らないままにびわ湖疏水とつながりを持つ人々は、たくさんいるのではないでしょうか。びわ湖疏水船で得ることのできる知識、経験はそれまでの実生活への意識を覆してしまうほど、私にとっては大きなものであり、びわ湖疏水とともに生活する地元の方々程までとはいかずとも、疏水の存在を身近なものとして捉えることのできるようになったことへの嬉しさを感じています。
是非、びわ湖疏水船を通じて、びわ湖疏水のことをより深く、そしてより多くの方々に知っていただきたいと強く思います。

※びわ湖疏水船の詳しい情報はこちらから