千二百羅漢が見守る寺院「愛宕念仏寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

千二百羅漢が見守る寺院「愛宕念仏寺」を訪ねる

 京都府京都市右京区にある「愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)」には1200躰もの石像の羅漢が並んでいる。愛宕山に近い静かな山間にありながら、個性あふれる羅漢の特別な風景や創作性の高さから、海外から多くの参拝者が訪れるため「日本一有名な隠れ寺」とも呼ばれています。
境内には鎌倉時代の本堂や地蔵堂が見事なまでに整然と並び、千手観音菩薩像等多くの文化財も伝えています。戦時中に無住となり荒れ果ててしまっていたお寺を修復し、復興を行った先代住職西村公朝の意志を引き継ぎ、現在ご住職を務める西村公栄住職に案内していただきました。

愛宕念仏寺の歴史

 お寺の歴史は天台宗の歴史よりも古く、奈良時代の天平神護二年(766年)に聖武天皇の娘である称徳天皇の発願で建てられました。山城国愛宕郡という広い土地があり、その場所に初めて建てられたお寺ということで、土地名そのままが名前となった愛宕寺ができました。元は京都市東山区の六波羅蜜寺や建仁寺の近くにありました。平安時代に鴨川の洪水等の影響を受け、壊滅的な被害を受けましたが、それを比叡山の千観という僧侶が再興したので、そこから天台宗の寺院となっています。その後の時代に本堂と本尊などは代替わりしていますが、本尊は平安時代から「厄除け千手観音」として拝み継がれています。大正11年(1922年)に堂宇の保存の為、この嵯峨の地に移ってきました。

 その後、戦時中の混乱や台風の被害を受けて廃寺寸前となっていた時代がありました。本尊の千手観音さまも腕がばらばらになって無くなっており、周りの仏像やお堂の屋根や壁も全て壊れたまま放置されていて、まるでお化け屋敷のようなお寺となっていました。昭和30年に仏像修理者であった西村公朝がこの寺の住職に任命され、荒れ果てた寺の修復を任されました。そこからの復興により、今の愛宕念仏寺があります。仏像の修復や新たな像の作成の他、多宝塔や鐘楼など全てが公朝によるデザインとなっています。

愛宕念仏寺の本尊「慈面悲面の千手観音」

 公朝がこのお寺を任されたとき、本尊の千手観音の腕は前で合掌している手と鉄鉢を持っている手の4本しか残っていませんでした。公朝はそれでは忍びないと、さっそく修復が行われ現在の姿となっています。お顔を正面から見ると、左目と右目の位置が段がついたようにずれており、体全体の造りも全て右下がりで、左右対称ではないアンバランスな姿となっています。

 正面からみると違和感がありますが、左側から見るのと右側から見るのとでは表情が異なっていることに気がつきます。これは観音様の慈悲の心を左右に分けて表しているのだと考えられます。そのことから「慈面悲面の千手観音」と名付けられました。
「慈悲」と一言で聞くと、ただ優しくしてもらいたい、かばってもらいたい、と良いことだけを望むもののように捉えられますが、厳しい愛情と優しい愛情との、二面性が合わさって慈悲という言葉になっているのです。

親と子供の関係が、仏と衆生の関係であると説明されることがあります。子供を教育しようとするときにお母さんが厳しく叱ったときにはお父さんが優しくなだめる。お父さんが厳しく叱ったときにはお母さんが優しくなだめる。このように同じ愛情のかけ方でも二面性があるのです。この愛情のかけ方が「仏の慈悲」なのです。本来、千手観音は十一面千手千眼観世音菩薩と呼ばれるように頭の上の化仏でその姿を現わしているのですが、この観音さまはその慈悲の二面性を、顔の左右にきっぱりと半分に分けて表現しているという他に例のないとても特殊な像なのです。
また体全体の右下がりのゆがみは歩いている時の動きを表現しており、観音様自らが我々衆生の方へ歩み寄ってきている姿を現しているのです。

鎌倉時代の愛宕念仏寺本堂

 本尊が特殊な像になったのは、この本堂の内陣の造りが関わっています。この本堂は本尊千手観音像と同じく鎌倉時代に造られました。天井が中央で二重折上げ小組格天井となっており、現在と異なり本来はこの下に正方形の須弥壇が置かれ、観音さまがその中央におられたようです。そのため鎌倉時代の人々は左右からだけでなく後ろ姿も観ることができ、仏像もそれに対応した像として造られたのではないかと考えられます。それが後世の様式に合わせ須弥壇の後ろ半分が捨てられ、それに伴い本尊の位置も変わってしまいました。

 本尊の両脇には二十八部衆が祀られていますが、五体満足なものは過去に無くなってしまっており十六躰が現存しています。他にも平安時代前期の梵天立像や西村公朝によって新たに造られた仏像が多く祀られています。

多くの人々の思いが詰まった千二百羅漢

 境内にはそれぞれ異なったポーズをした個性豊かな羅漢さんたちが並んでいます。昭和56年からお寺の再興を祈願して造られました。いずれも一般の参拝者が自らの手で彫ったものです。当初は、釈迦の涅槃のときに立ち会った羅漢の数とされる五百羅漢像を造る予定でしたが、マスコミの影響で広まり希望者が殺到しました。釈迦の涅槃から百年後に700人の羅漢が再度結集し、教えを正しく伝えるための勉強会を開いたという古事にちなみ、五百羅漢に加えて第二結集の七百羅漢が追加され千二百羅漢となりました。無心で彫っていると自然と自分自身の顔になってしまうため、1200人分のそれぞれ異なった表情になっています。

参加大学生の感想

 ご住職にお寺の案内をしていただいた中で、羅漢さまたちが皆さん笑顔で見ていてこちらも笑顔になるようでした。清水寺の近くから移り、台風の被害や無住の期間後の荒廃した状況から再興をさせていくのはとても大変なことで、多くの苦労が伴ったことであると思います。これだけの羅漢さまを造りたいという人々が集まったのは、先代の西村公朝さんたちが明るく迎えていたからであり、現在にまで人々の集まる寺院となっているように思いました。

愛宕念仏寺
〒616-8439 京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町2-5

訪問日 令和5年12月2日