比叡山の守り神「日吉大社」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

比叡山の守り神「日吉大社」を訪ねる

2023年11月18日 訪問
比叡山のお膝元、坂本の町にある日吉大社は、比叡山延暦寺と密接な関係を持ち、共に祈りの歴史を紡いできた神社です。神が宿る山、八王子山を含め、13万坪の広さを誇る境内には、約40の社が立ち並んでいます。今回は秋も深まり美しい紅葉が出迎えてくれる境内を、権禰宜の浅井さまにご案内いただきました。

まずは日吉大社が歩んできた歴史をご説明いただきました。

「日吉大社の歴史は、八王子山に比叡山の神、大山咋神(おおやまくいのかみ)が降り立ったことに始まります。大山咋神は東本宮に祀られる神様です。
飛鳥時代の天智天皇の時、667年に一時的に都が大津京に遷されました。その時に、大津京の守り神として、奈良の大神神社から大己貴(おおなむち)の神がやってこられて、西本宮にお祀りされる様になりました。
東本宮に地元の神様、西本宮には奈良からやってきた神様をお祀りすることになったわけですが、都の神様の方がえらいとされて、西本宮を大宮、東本宮が二宮と呼ばれるようになりました。」
伝教大師が延暦寺を開くよりも前の時代から大津の町を守ってきたという日吉大社。地元の神様のところに都の神様が引っ越してきたというのも面白いですね。
続いては、複雑な経過を辿ってきた「日吉大社」「比叡山」の名前の変遷についても教えていただきました。
「『古事記』には、近淡海国(近江国=現在の滋賀県)の日枝の山(ひえのやま=現在の比叡山)に東本宮の神、大山咋神がいらっしゃったという記録があります。もともとは「ひえのやま」と呼ばれていたわけです。日吉大社についても、今は「ひよしたいしゃ」と読みますが、戦前までは「ひえじんじゃ」と呼ばれていました。「日吉」も「ひえ」の当て字ですが、「日枝」よりも「日吉(ひよし)」の方が、「良い」という意味が含まれて良いということで「日吉(ひよし)大社」となりました。平安時代にはすでに「ひよし」と「ひえ」と両方の読み方が存在していたみたいですね。
伝教大師最澄は「ひえのやま」に「比叡山」という字を当てられて、今の比叡山(ひえいざん)という名前になりました。」

次に、日吉大社と伝教大師最澄、延暦寺との関係の歴史をご説明いただきました。
「平安時代初期、伝教大師最澄が比叡山延暦寺を開くに当たって、比叡山の神様に守り神(護法神)になってもらいました。ここから天台宗、比叡山延暦寺と日吉大社との繋がりが生まれてきたわけですね。
それ以降、1000年以上にわたって、延暦寺と日吉大社は一体のものとして歩んできましたが、明治時代の神仏分離政策によって、お寺(延暦寺)と神社(日吉大社)とが分けられることになりました。
しかしながら今もなお、延暦寺と日吉大社には切ってもきれない関係があり、日吉大社の一番大きなお祭り、山王祭では天台座主をはじめ、天台宗の僧侶が読経を行ったり、神様の御真言を唱えたりということもしています。
毎年5月26日には、山王礼拝講という行事もあり、法華八講が神様に奉納されます。これはある時、比叡山の木々が次々に枯れてしまうという事件があり、神様に修行の成果をお見せしたところ、元通りになったという故事に由来しているようです。」
神社の行事にこれだけ僧侶が関わるのも珍しいのではないでしょうか。神仏習合の祈りの歴史が今も息づいているのが日吉大社の大きな特徴です。

境内をすすんでいくと、まず見えてくるのが大宮川です。

「大宮川には結界としての意味があります。この川を渡らないと境内に入ることはできません。
川を渡る事そのものが、禊(みそぎ)の意味を持っています。そのため、日吉大社の入り口には手水が無いのです。
他の神社でも、水は流れていなくても入り口に石橋が架かっていることがあります。それはそこが結界としての意味を持っていることを表しています。
大宮川には大宮(西本宮)に続く大宮橋、走井社に続く走井橋、二宮(東本宮)に続く二宮橋の三つの橋が架かっていて、いずれも江戸時代初期のものとして国指定重要文化財となっています。」
苔むした400年以上前の石橋からは、日吉大社が歩んできた歴史の重みのようなものも感じます。

大宮橋を渡ると、右手に土が盛り上がった部分があります。

「これは昔の豪族のお墓、古墳です。古来日本人は山のような雄大な自然に神の存在を見出していました。日本人は亡くなると、神のいる山の方に帰っていくのですね。時が経つと、亡くなった先祖は神様になっていきます。日吉大社の周りには、約70基の古墳が残されています。
この古墳は「猿塚」と呼ばれているものです。日吉大社では猿を「神猿((まさる)」と呼び、神様の使いとして大事にしていますが、死期を悟った神猿が、この塚に入っていったという伝承があり、「猿塚」と呼ばれる様になりました。」
境内にまさか古墳があったとは驚きです。古墳時代からずっとこの場所が神聖な場所として大切にされていたことが伝わってきます。

さらに境内を進んでいくと、日吉大社独特の形をした鳥居、山王鳥居が見えてきました。
「山王鳥居は通常の明神鳥居に山がついたような形をしています。鳥居の上の部分が「山」、下の部分が「王」、合わせて「山王」という文字を表しているとも言われています。伝教大師最澄が日吉の神様を延暦寺の守り神としたとき、中国の天台山の守護神である山王になぞらえて、日吉の神を「山王」と呼ぶようになりました。
一説には密教の金剛界・胎蔵界の世界を表しているとも言われています。また、日吉大社にお参りしてから比叡山延暦寺へ登っていったことから、合掌鳥居とも呼ばれていました。
神仏習合を象徴するような存在です。」

山王鳥居をくぐると、まず目に入ったのは本物の猿を飼育している神猿舎です。

「江戸時代の絵図にもこの神猿舎が描かれていて、昔から猿が飼われていたようです。「まさる」には「魔が去る」「勝る」などの意味も込められています。
日吉大社は都である京都の鬼門の方向、北東に位置していて、都の守り神としても崇敬を集めました。現在も京都御所を囲っている塀の北東の隅を「猿が辻」と呼び、猿の彫刻が施されています。」西本宮の入り口にある楼門も神猿と関係のあるスポットです。

「楼門の軒下四隅に神猿の彫刻があり、屋根を支えている様な形になっています。参拝者を神猿が見守っているというわけです。」
授与所では猿のおみくじなども扱っており、日吉大社ではあらゆるところで神猿の存在を見ることができました。もともと比叡山には猿がたくさん住んでいたので、神の使いとされるようになったそうです。

続いて、西本宮の本殿をご案内いただきました。日吉大社の社殿は織田信長の比叡山焼き討ちののち、桃山時代に再建されたものが多く残り、山王七社の本殿・拝殿がそれぞれ重要文化財に指定されていますが、西本宮、東本宮の本殿は「日吉造」という独特の建築様式を持ち、国宝に指定されています。

「本殿は二層の構造になっておりまして、上の階は神様がいらっしゃる内陣・外陣があります。内陣には、京都御所にある天皇陛下が即位の際に座る高御座(たかみくら)と同型式のものが置かれています。
下の階は下殿(げでん)という空間になっています。この下殿には明治の廃仏毀釈までは仏様が祀られていて、仏像や掛け軸が安置されていました。宮仕(みやじ)という日吉大社に仕える僧形の神職がここで仏事を行っていたようで、内部は煤けていて、お香や灯明を点じていた痕跡が残っています。現在は特別祈祷の場として使われています。」
覗き込んでみると確かに広い空間が床下に広がっています。山王七社はいずれもこのような形になっていて、西本宮なら釈迦如来、東本宮なら薬師如来というように、神々の本地仏(仏の姿)をお祀りしていたそうです。

「本殿には獅子・狛犬も安置されています。これはおよそ400年前の本殿再建時のもので、京都の七条仏師の作です。獅子・狛犬というのは、本殿の中に置かれ、神様を守っていましたが、次第に本殿を守るように本殿の外側、さらには境内を守る様にさらにその外側へと時代を下るごとに移動していきました。建物の外に出ると雨ざらしになるので、石造の狛犬が造られる様になっていくというわけですね。日吉大社の獅子・狛犬はその中間の形を示しているもので、木造です。」

西本宮の前には東西に竹が植えられていますが、実はこの竹、伝教大師最澄と関係があるものなのだとか。
「伝教大師最澄は、中国から竹を持ち帰ってきたと言われています。西本宮の左右には竹台が置かれており、東側の竹台には住吉の神、西側の竹台には八幡の神が祀られています。同じようなものが延暦寺の根本中堂にもあります。」
「最澄が坂本にもたらしたものは竹だけではありません。最澄さんはお茶も中国から持って帰ってきました。最澄さんは持ち帰ったお茶を坂本に植えたと伝わっていて、その場所が現在は京阪電車の坂本比叡山口駅の横にある「日吉茶園」です。ここから滋賀県内や近畿地方一体にお茶が広がっていったと言われています。
日吉大社では秋に境内でお茶を販売したり、御祈祷のお下がりに滋賀県産のお茶をつけたりもしています。」
竹やお茶など、今の私たちに身近なもののルーツも、伝教大師最澄、そしてこの坂本の町にあったのですね。

西本宮の次は、お隣の宇佐宮をお参りしました。この宇佐宮の本殿にも神仏習合の痕跡が残されていました。

「正面の向拝部分の木材には、鰐口(わにぐち)が取り付けられていた跡が残っています。カンカンと鳴らす鰐口はもともとお寺のお堂にかけられるものでした。
本殿の外側には、仏様の彫刻を施した鏡、懸仏が架かっていた跡も残っています。
どれも明治時代の廃仏毀釈で失われてしまいましたが、東本宮の下殿の床下から発見されたものもあります。」
神様を祀る建物に、懸仏がかけられ、人々が鰐口を鳴らしてお参りし、下殿では僧形の神職が仏事を行なう。江戸時代まではそんな光景が広がっていたのですね。

続いて、山王祭で使われている現役の宇佐宮の御神輿を特別に見せていただきました。

「山王七社にはそれぞれ御神輿があって、異なる意匠をしています。宇佐宮の御神輿には宇佐宮の紋章である橘紋があしらわれており、屋根には皇室とおなじ菊の御紋があります。東本宮の御神輿には徳川家の葵の御紋が付いていて、その時々に寄進した有力者の紋章が入っていると考えられています。この御神輿は30人くらいで担ぐものですが、長時間担ぐ時には、棒を付け足して、50人から60人で担ぐこともあります。」

日吉大社には、桃山時代に造られたと伝わる、重要文化財の山王七社の御神輿も残されています。その収蔵庫にもご案内いただきました。

「こちらが山王七社の重要文化財の御神輿です。七社それぞれの御神輿に違いがあるのがわかると思います。牛尾宮のものは八角形になっていて、燕が乗っているのが特徴です。樹下宮のものには神猿の彫刻が施されています。東本宮のものには飛龍が付き、葵の御紋が入っていることから徳川家の寄進であると考えられています。一番大きな西本宮の御神輿には龍の彫刻がありますが、通常は三本爪のところ、五本爪の龍が描かれています。これは中国皇帝のみが使用を許された意匠です。なぜここにあるのかはよくわかりません。」
煌びやかな御神輿が並ぶ収蔵庫は圧巻です。一つひとつに特徴があって、それぞれの社が歩んできた歴史を想像させてくれます。
続いて、八王子山にある奥宮へと向かいます。奥社へは坂道を30分ほど歩いて向かいます。
坂道の入り口には、八王子山にある二社、牛尾宮(八王子宮)と三宮の御神輿の蔵がありました。

「山王祭の時には、3月の第一日曜日にこの二つの御神輿を八王子山の上の社まであげて、一ヶ月ほど山上でお祀りします。そして4月12日の晩に東本宮に降ろしてきます。これは比叡山の神様が山から降りてきて東本宮に鎮座したという神話を再現したものなのです。」あの大きな御神輿を担いで、この坂道を登るとは。その苦労を想像しながら、一歩ずつゆっくり登っていきます。奥宮まで登るのはなかなか疲れますが、毎朝お参りに来る地元の方もいらっしゃるそうです。
ようやく奥宮まで辿り着きました。振り返ってみると、琵琶湖を見渡すことのできる絶景が広がっていました。

奥宮には東本宮の祭神、大山咋神の荒魂を祀る牛尾宮と、その妃、鴨玉依姫神(かもたまよりひめ=下鴨神社の祭神)の荒魂を祀る三宮の懸造の社殿が二つ並び、その真ん中に大きな岩があります。

「この大きな岩は神が宿る磐座(いわくら)です。社殿が建つ前は朝日に照らされると黄金に輝いて見えたことから、金大巌(こがねのおおいわ)と呼ばれています。江戸時代の地震の時に半分に割れてしまいまして、一方が社殿を壊して転がっていってものが坂道の途中にあります。」
磐座に手を合わせた後、特別に牛尾宮の中を見せていただきました。
「牛尾宮の門は御神輿が入ることができるようにとても大きく造られているのです。
牛尾宮の神と三宮の神は夫婦で、この山でお見合いをしている様子を再現しています。ちなみに息子は上賀茂神社の祭神、賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)です。」
扉を開けていただき、中に入っていきます。

「麓の社殿は神様を祀る本殿と、人々が祈りを捧げる拝殿とが分かれていますが、この牛尾宮は外からみると、一つの建物しかないように見えます。ですが、中に入ってみると、ちゃんと本殿の部分と拝殿の部分に分かれていまして、本殿の部分には別に屋根が着いています。本殿にはもちろん下殿もあります。
獅子・狛犬もいますが、屋外にある西本宮のものと違って、屋内にあるので風化しておらず、400年前当初の金箔や彩色が残っています。」
牛尾宮の内部には牛御子社(うしみこしゃ)と百太夫社(ももだゆうしゃ)もあります。
「牛御子社には、七夕伝説の彦星にあたる神様をお祀りしています。三宮の方には寵御前社(うつくしみまえしゃ)もあってそちらには織姫にあたる神様も祀られています。」
夫婦の神様の社殿に織姫・彦星も一緒に祀られているのはロマンチックですね。麓の坂本の町からみると、奥宮は星のように高い位置にあるように見えたのでしょうか。

最後に、伝教大師最澄ゆかりの神宮寺の跡地に建つ奥総社にご案内いただきました。
奥総社へは、八王子山への参道から別れた山道を進んでいくとお参りできます。

比叡山延暦寺の修行、回峰行でも通るような山道で、「行者道」とも呼ばれているそうです。道中シカの鳴き声も聞こえるような山道を進んでいきます。しばらく歩くと、奥総社が建つ広い空間が見えてきました。

「この奥総社がある場所では、発掘調査の結果、中世のお堂の跡が発見されていて、日吉大社の神宮寺跡と考えられています。この場所で、最澄のお父さんである三津首百枝(みつのおびとももえ)が、子授けの祈願をして、最澄を授かったと伝わっています。
その跡地に比叡山焼討後に建てられたのが奥総社で、天神地祇をお祀りしています。社殿の扉は比叡山延暦寺にあった本願堂というお堂の扉の古材をもらってきたもので、内部には山王神のお像と、伝教大師最澄のお像もお祀りされています。」
社殿の内外には、中世の神宮寺のお堂の礎石が今もそのまま残されており、往時のお堂の規模感を掴むことができました。神社の境内ゆえに、お堂ではなく社という形で復興されたそうですが、日吉大社と延暦寺とのつながりを象徴するような空間でした。
今回のご訪問では、「神仏習合」というのが一つのキーワードになりました。明治の神仏分離で仏教的なものは廃されてしまったとはいえ、ところどころに伝教大師最澄以来、延暦寺とともに紡いできた祈りの歴史の痕跡をみて取ることができました。
日吉大社と延暦寺と坂本の町の人々とが一体となって形作られてきた、坂本の歴史・文化の魅力を再発見することができたご訪問となりました。

【参加学生の感想】

■境内の景色がすごくきれいで楽しんで落ち着いた雰囲気を感じました。パワーが強くて癒されて元気をたくさんもらいました。はじめて神様のお使いの神猿さんが見れました。「魔が去る」「勝る」という意味を含んでいる縁起のよいお猿さんですね。日吉大社は中国と深いつながりがありますね。見学しているうちに、いろいろ考えさせられました。どうやってこのつながりを中国の友達に伝えるか、どうやって中日の国のご縁を中国の友達に伝えるか、いろいろ考えました。お寺巡りの活動を通じて中日の文化の相違と共通点を知り両国の友好的な交流に役立てばいいなと思っています。日吉大社には長居歴史を経るうちに昔の歴史を語り日本の文化財を大切に受け継がれているのだと感心しました。山を登りながら景色や建物を見学できるなんて、めずらしい機会なのですごく嬉しかったです。
立命館大学大学院2回生 留学生
■普通に参拝する時では気が付かないようなことを今日の説明で知ることができ、とても貴重な体験ができました。また、普段見られない場所を特別に見させていただき、今回参加して良かったと思えました。日吉大社に来るのは今回が初めてでしたが、日吉大社は神仏習合の影響を色濃く残している神社であることがよく分かりました。金大厳への道のりはとても険しい山道でしたが、壮大な岩や牛尾宮の内部、奥総社の内部などを特別に見ることができ、とても印象に残りました。秋も深まり、紅葉のシーズンということもあり、境内のもみじがきれいに色付いておりとてもきれいでした。本当にありがとうございました。
立命館大学 法学部 1回生
日吉大社
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