日光山輪王寺にて神仏習合を学ぶ(2)
TOP > いろり端 > 栃木県 日光山輪王寺(2)

いろり端

探訪「1200年の魅力交流」

「日光山輪王寺」にて神仏習合を学ぶ(2)

2022年9月10日 訪問
第2部は日光山輪王寺の今井執事長から引き継いで、堂者引きの春日武之さんにご案内いただきます。『堂者引き』とは明暦元年(1655)から350年以上も続く社寺案内人のこととのこと。江戸時代まで般庶民が東照宮を参拝するには、堂者引きの同行が絶対だったそうです。まずは大護摩堂へ。

大護摩堂

「日光山輪王寺では明治時代から護法天堂で護摩を焚いていましたが、世界文化遺産の登録に備えて鉄筋コンクリート製の大護摩堂を建てました。堂内の正面に平安時代の五大明王(不動明王、降三世明王、軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)、大威徳明王、金剛夜叉明王)、裏側に七福神、両脇に十二天が安置されています。五大明王と十二天は明治の神仏分離令で、日光東照宮から輪王寺に移されました。江戸時代は日光東照宮でもこれらの仏様を本尊にして、護摩を焚いていたということですね。」

「左端には天海大僧正と元三大師(良源)の像が祀られています。天海大僧正は朝廷から大師の称号を賜った最後の僧で慈眼大師とも呼ばれ、日光山では元三大師と合わせ〝両大師〟と敬っておられます。天海大僧正はとても優秀な方で、最高位の“探題” まで飛び級で昇進しています。本来、探題は耳を隠して帽子を被りますが、天海大僧正は飛び越した方々に申し訳ないと、耳を出されたそうです。尊像は耳を出された姿で、国の重要文化財になっています。」
大護摩堂を出て日光東照宮の参道を少し登り、大猷院(たいゆういん)へ至る「下新道(したしんみち)」に入ります。新道の名前は、四本竜寺から移した新宮(二荒山神社)が由来で、「上新道(かみしんみち)」と「下新道」があります。2本の通りを東側へ伸ばすと神橋で交わるそうです。
下新道を歩くと右側に日光東照宮の五重塔が見えます。
「五重塔は仏舎利塔ですから、明治の神仏分離令で壊されてもおかしくありません。それを〝景観を損なわないように〟と止められたのが明治天皇です。現在、神社境内に五重塔があるのは日光東照宮のほか、山形県の羽黒山神社、広島県の厳島神社の3ヶ所だけです。」
 杉並木が両脇に続く「下新道」を歩くと、まもなく常行堂が見えてきました。

常行堂

常行堂は慈覚大師円仁が嘉祥元年(848年)に比叡山延暦寺の「にない堂」を模して建立したのが始まりで、当初は日光東照宮の三神庫あたりにあったそうです。堂舎は宝形造りで同じ造りと大きさの法華堂が奥に立ち、渡り廊下が2棟を結んでいます。

「天台宗では金堂(本堂)に次いで重要な御堂が常行堂です。本尊は宝冠をかぶった阿弥陀如来で、脇仏の四菩薩とともに孔雀に乗られています。孔雀は毒蛇を食べるといわれ、悪いものを退散させるわけです。
常行堂では「常行三昧」という修行が行われます。ご本尊の周りを90日間不眠不休で歩き続けるそうです。最奥には後堂という部屋があり、昔は14人の修行僧が並んで経を上げると、天井から摩多羅神(またらじん)が降りてきたそうです。
摩多羅神は慈覚大師が唐から移れた阿弥陀経を信じる者を守護する神で、常行堂の守り本尊になります。一説では死を前にした人の元に摩多羅神が迎えて現れ、病んだ内臓を食べてくれるので、苦しむことなく極楽に行けるといわれています。芸能の神としても信仰されています。」

大猷院(たいゆういん)

常行堂・法華堂からさらに奥へ進むと大猷院の仁王門に着きます。

「徳川2代将軍の秀忠公と妻のお江さんは、家光公よりも体が丈夫な弟の忠長公を世継ぎにしようと考えていました。これに異を唱えたのが、家光の乳母・お福さん(後の春日局)で、徳川家康公に長幼之序(後は上のものが継ぐ順番があるという考え方)を崩せば、後世に禍根を残すと訴えます。その結果、家康公は家光公を3代将軍にします。
 家光公にとって家康公は大恩人です。死後は師と仰いだ天海大僧正が眠る慈眼堂近くの大黒山に、家康公を祀る日光東照宮に向けて霊廟を建てよと言い遺します。その霊廟が大猷院です。大猷院とは中国の文献にある言葉で、素晴らしい政治の道を作ったという意味です。家光公の死後、後光明天皇から「大猷院殿贈正一位大相国公」の法号が贈られ、頭の三文字をとったそうです。」

慶安4年(1651)、家光公が将軍職のまま死去すると、4代将軍・家綱は1年4ヶ月かけて大猷院を完成させます。

「家光公は家康公の日光東照宮を上回ることなく、質素倹約に努めて建てよとも言い遺すのですが、仁王門から上に行くほど豪華絢爛になります。当時の大工も腕前を発揮したかったでしょうし、境内は極楽浄土への段階を表しているので、よしとされたのでしょう。」

雨の日でも参詣者が歩きやすいようにと滑りにくい神奈川県根府川の自然石を並べた石畳を歩き、御水舎から長い石段を登り始めます。最初に待つのは「大猷院」の扁額を掲げた二天門です。

※「扁額(へんがく)」・・・建物の内外、門や鳥居などの高いところに掲出される額
「左に東側を守る持国天、右に南を守る増長天がおられます。人は死後、天部の仏様に「あなたは命を奪ったことはあるか」と質問されるそうです。答えは〝はい〟か〝いいえ〟の二択で、不正解者は先に進めません。正解は〝はい〟ですね。私たちはたくさんの命をいただいて生き永らえています。それらの命を裏切らないためにも、自ら命を断つことなく天寿を全うしなければなりません。そう答えると、天部の仏様は通してくれますよ。
 仏像の足元には邪鬼が踏まれています。悪行を積んだ人は天上界では天部の仏様の足元までしか行けず、その上へは上がれないという戒めですね。違う説では悪行を改心した邪鬼が岩の上に立つ天部の仏様を見て「さぞ足元が寒かろう」と身を投げ出し、自分の上に立たせたそうです。どちらにしても、邪鬼は苦しそうですがね(笑)。」

さらに石段を登り、陰陽一対の建物である鐘楼、鼓楼を過ぎると、夜叉門がありました。百花の王である牡丹の紋が刻まれているから〝牡丹門〟とも呼ぶそうです。門には極彩色の四夜叉が睨みを効かせます。
「入口からここまでの階段の数は人間の煩悩と同じ108段です。みなさん、煩悩を1つずつ踏み越えてきたので、浄土に上がれるわけです。四夜叉は悪いものが近寄らないよう、武器を手に守ってくださいます。」
夜叉門、唐門をくぐり、いよいよ拝殿に上がります。建物は本殿、相の間、拝殿が並ぶ権現造りで、眩いばかりの金彩を施してあることから別名「金閣殿」とも呼ばれました。一説では日光東照宮全体よりも多くの金が使われたそうです。拝殿の格天井には昇り龍、下り龍が描かれ、襖には徳川家の御用絵師・狩野探幽・永真兄弟が描いた唐獅子が見られます。

 参拝後、 拝殿、相の間、本殿の外側を見て、最後は皇嘉門へ。奥の院(家光公の墓所)入口となる明朝式の珍しい形をしています。

「大猷院の建物は日光東照宮に向いていますが、家光公の墓所は師と仰いだ天海大僧正の慈眼堂に向けて建てられています。大僧正が亡くなる間際には、何人もの老中を派遣し、寝返りひとつ打っても逐一報告させたそうです。いかに家光公が天海大僧正のことを敬愛していたかが分かりますね。」
来た道を戻り、二荒山神社を参拝して、日光東照宮に向かいます。

東照宮

徳川家康は自分が死去したら、静岡県の久能山(久能山東照宮)に埋葬し、増上寺で葬儀を行い、愛知県の大慈寺に位牌を置きない。そして、一周忌を終えたら日光山に小さなお堂を建てて、私の御霊を勧請しなさいと命じます。諸説ありますが、天海大僧正は御霊だけでなく、久能山から遺体も日光山へ運び、奥之院へ安置します。その移動行列が毎年5月と10月に行われる「百物揃千人武者行列」の起源だそうです。
「徳川2代将軍・秀忠公は家康公の遺言に従い、元和3年(1617)に日光東照宮を造営します。その後、家光公が3代将軍になるとほとんどの建物を建て替え、現在の姿にします。現在の経済価値で2000億円ほどの費用が投じられています。」

 全国でも珍しい仁王と狛犬が鎮座する表門をくぐると、参道は大きく左に曲がります。左側の神厩舎の壁に有名な三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)の彫刻がありました。
「彫刻は8枚あり、16匹の猿が彫られています。左から見ていくと親に抱かれた猿が成長して独り立ちし、家庭を持ち、老いていく、人の一生になっていて、それぞれの教えが含まれています。たとえば、三猿は幼い子供の教育で、自分で判断ができるまで、悪いことを見たり聞いたり、言って他人を傷つけないよう、親がきちんと見守りなさいという意味です。この3つを守れば、子供の身は美しくなります。「身」に「美」をつけると躾の文字になりますね。ちなみに、慈恵大師良源は『七猿歌』のなかで、三猿よりも勝るものは〝思わざる〟としています。つまり、無ですね。」
参道を右に大きく曲がると日光東照宮のシンボルといえる陽明門が正面に見えます。508点の彫刻が施され、1つずつ見ていると日が暮れてしまうので「日暮(ひぐらし)の門」とも呼ばれます。唐破風下の扁額は後水尾天皇の揮毫で「東照大権現」と記されています。
「軒下には口を開けた10匹の龍がいますが、すべて開け方が違います。これは十人十色を意味し、自分と他人の違うところを攻めるのでなく認め合えば、争いは起きないと教えています。天下泰平の世になれば、子供たちも安心して遊べる。回廊の手すりには子供たちの彫刻が彫られていますね。中央の彫刻は「司馬温公甕割りの図(しばおんこうかめわりのず)」といい、子供が甕の中に落ちた友人を助けるため、父親が大切にしていた甕を割って助けすところです。父親は子供を叱るどころか、人の命は何よりも大切だと逆に誉めたそうです。」
江戸時代の名工・左甚五郎が刻んだと伝わる「眠り猫」を経て、拝殿に上がります。大猷院と同じ権現造りで、一段低くなった相の間の先に本殿があります。

「本殿には東照大権現(徳川家康公)、山王権現、摩多羅神の東照三所権現が祀られています。山王権現と摩多羅神が天台宗系の神仏であることから、明治からは名前を変えることになります。山王権現の使いは猿ですから、かつて猿と呼ばれていた豊臣秀吉公、摩多羅神は常行堂を手厚く保護した源頼朝公へと変わりました。」
 最後の訪問は本地堂です。内陣の天井には大きな龍が描かれ、頭の下で拍子木を叩くと金鈴のような妙音が聞こえることから「鳴き龍」とも呼ばれます。妙音が聞こえると開運のご利益もあるそうとか。みんなで耳を澄ませます。拍子木の甲高い音に続いて鈴音が聞こえ、しばし余韻が続きました。

 今回の訪問により、神仏習合の考え方を理解できるとともに、自然を崇拝し、神も仏も分け隔てなく敬える、日本人の懐深さも感じられました。

参加大学生の感想

今回の訪問を終えて、日光における”3”という数字の持つ意味が時代を経るごとに変化しているという点に興味を持ちました。
 勝道上人が日光の山を開いたとき、”3”の持つ意味は日光にそびえる男体山、女峰山、太郎山の3つの霊峰を表すとともに、それぞれの霊山を象徴する日光三所権現を表していました。輪王寺の三仏堂には3躯の巨大な仏様がおまつりされていて、千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音像で霊山を象徴していたそうです。
 江戸時代になると徳川家との結びつきが強くなり、東照宮が造営されました。すると、二荒山神社、輪王寺、東照宮の"3"つの寺社が日光を構成するようになります。また、東照大権現(家康公を象徴としています)を中心とする「東照三所権現」の本地仏として三仏堂には千手観音、阿弥陀如来、馬頭如来像が安置され、三仏堂の外陣の欄間にも薬師如来、阿弥陀如来、釈迦如来の掛仏がありました。
 三仏堂のような1つの空間に、さまざまな信仰の側面が混在していますが、それぞれの信仰を担う人々が互いに対立することなく互いに手を取り合って協調してきたことを示しており、世界に賞賛される日光の文化・日本の文化が紡がれてきたのだと感じました。
日光山輪王寺

〒321-1494
栃木県日光市山内2300番地