一山一寺多院制を残す 上寺山餘慶寺を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

一山一寺多院制を残す 上寺山餘慶寺を訪ねる

2022年12月11日 訪問
報恩大師の開基と伝えられている備前48カ寺の一つ、上寺山餘慶寺(うえてらさんよけいじ)。小高い山に建ち並ぶ諸堂は市街地からも良く見え存在感があります。
江戸時代には岡山藩主・池田氏の庇護のもとで栄え、最盛期には7院13坊を数える大伽藍を形成しました。現在でも6院が残り、「一山一寺多院制」を現代に残す貴重なお寺です。

本堂

まずは、国の重要文化財にも指定されている本堂へお通しいただき、岡本昌幸ご住職をはじめ一山の住職の皆様がお勤めいただくお経に合わせ合掌・礼拝させていただきました。

つづいて、お寺の歴史をご紹介いただきます。

「備前の地域に48ものお寺を開かれた報恩大師さまによって、天平勝宝元(749)年に『日待山日輪寺』という名前で開基されました。今は小高い山になっておりますが、『北島』という住所が残っているとおり当時は海に近く、太陽を拝むのに適した山ということでそう呼ばれておったようです。」
「諸行無常と申しますが、お寺が栄える時代もあれば衰退する時代もありました。9世紀ごろ、慈覚大師円仁さまによって復興し『本覚寺』と名前を変えたとのことでした。今の名前に変わった時期は正確にはわかっておりません。古文書などを調べると、室町時代には『上寺山餘慶寺』という名が出てきているようですから、その頃ではないか、と推測されています。」
「皆様がいまおられますのが本堂です。本堂は永禄13(1570)年に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。途中何度か増改築されていますが、室町時代の特色を表す入母屋造・本瓦葺の木造建築です。お堂に『観音堂』という額が掲げられているとおり、御本尊は千手観音菩薩さまです。御前立の奥にある厨子の中に祀られており、33年に一度御開帳です。前回は平成24(2012)年ですので、次の機会まで少しだけ、お待ちくださいね(笑)」と、優しく語りかけていただき雰囲気も和みます。

「餘慶寺に伝わっている霊験談によると、参勤交代で江戸に行っていた池田の殿様が重病になってしまった際、夢に観音さまが現れたそうです。その観音さまが『私は備前国の東向きの観音である。今の悩む心を祈る心に変えなさい』とおっしゃられたそうです。それを聞いた池田公は備前で東向きの観音さまを探され、その観音さまが餘慶寺におられると知り、一心に祈るとたちまち病が良くなったそうです。そこで、『観音堂』という扁額や掛軸などを納めてくださり、お寺が繁栄していったとのことなのです。」

本堂は東向きに建てられており、参拝者はご本尊がいらっしゃる西を向いて祈ります。「皆様は西向き、『西方極楽浄土』を向いて祈られます。では、本堂の中へお入りいただき、もう少し詳しくご覧ください。」と、内陣へお通しいただきます。

本堂内陣

「ご本尊様はお厨子の中にいらっしゃいますが、どうぞその前で手を合わせてください。横におられる四天王像は江戸時代、初期のころの作と伝わっています。昨年修復を終えてお戻りいただいたばかりです。本堂の中で特に珍しいのは、このお厨子の土台、須弥壇の装飾です。室町時代の意匠とのことなのですが、餘慶寺独特の『葡萄唐草』という模様で、この柄をもとに私の袈裟を作っていただきました。餘慶寺の『餘』を図案化した寺紋とともにデザインしていただいたものです。」
ここからは、餘慶寺の塔頭寺院である圓乗院の西野祐誠ご住職も加わりご説明をいただきます。

「本堂はまだ傷みが激しい部分があります。平成10(1998)年に開基から1250年の法要を行った際に、伽藍をきれいにさせてもらったのですが、まだ手がつけられていない部分もあります。重要文化財に指定されていて、自由に、すぐに修復というわけにはいかないのです。本当は極彩色の装飾がしてあったはずですが、今は覆いをして原画がこれ以上傷まないような状態にしています。」
文化財を保存するご苦労は、歴史ある寺院に共通のものです。
「餘慶寺では、残っているお堂のすべて、また塔頭寺院の建物に至るまで、すべての部屋に火災報知機を備え、消火設備を設置しています。山の上のお寺ですから、どこか一か所で火が出てしまうと類焼を免れません。設備が景観にそぐわないという声もありますが、文化財を守るためには致し方ない、と設備を整えています。1250年の歴史も、なくなってしまうのは1日ですから。」
かつては放火の被害にもあったことがあるという餘慶寺では、万全の態勢を期すため、塔頭寺院のご住職を含め6名の交代で24時間対応ができるようにしているとのことでした。

薬師堂

つづいて拝見した薬師堂は、享保19(1734)年に再建されたものとのこと。
「薬師堂の建物は全て修復を終えております。奥には施錠ができる収蔵庫があり、そちらも改装を済ませてあります。天然の材料を使いLED照明に変えました。というのも、お祀りされている3躰のお像がすべて平安時代の作で非常に貴重なものなのです。普段は扉を開けることはなく、関係者以外立ち入り禁止としておりますが、本日は特別に開扉してご覧いただけるようにしております。」
特別なご配慮に感謝しつつ、期待を胸にお堂を参拝します。
収蔵庫の扉を開くと、中央には薬師如来様、右に聖観音菩薩様、左に十一面観音菩薩様がお祀りされています。

「薬師如来様は一木造り、見ての通り182cm350kgと存在感がありますね。もともとは全身が金箔に覆われていたようですが、秘仏になっていない時代に参拝の方が撫でて祈りをささげていたため、膝頭などはつるつるです。」

「聖観音菩薩様は平安時代前期のもの、国指定の重要文化財となっています。残念ながら左手から欠落してしまっていますが、ハスのお花を持っていたのではないかと推測されます。」

「十一面観音菩薩は平安時代後期。ケヤキの一木造りというのが特徴です。ケヤキというのはものすごく固く、建物には使われますが仏像を彫るのには向いていないせいかあまり見られません。おそらく何かのご神木から彫られたものなのでしょう。当然、一般的なヒノキの仏像に比べて長持ちします。」

さらに、収蔵庫の隅にお地蔵さんが安置されています。「境内の『地蔵堂』にあったものなのですが、どうやら平安時代の古いものかもしれないとのことで、慌てて鍵のかかるこちらに移して保管しています。まだ調査中なのですが、確証を得られたらすぐに文化財に推挙されるほど価値があるものだそうです。」
収蔵庫の中へ入らせていただき、間近で仏様を拝む貴重な体験をさせていただきました。

三重塔

「本瓦葺の三重塔は、源平合戦で焼失したものを江戸時代の1815年に再興した比較的新しい建物で、岡山県の重要文化財です。1,2層はまっすぐの垂木、3層は放射状に出ていて、1層はケヤキ、2,3層はヒノキという、造りと材質が3層とも異なっているのが特徴。扉の色が違う部分があるのは、20年ほど前の放火によるものです。」

境内

つづいて、開祖・報恩大師が祀られた『八角堂』、法縁の方が亡くなった際にご家族が毎週お詣りされる『十三仏堂』、本地仏を祀る『地蔵堂』と、大切に守られてきた伽藍の数々をご案内いただきました。


最後に、訪問当日に開館お披露目となった新納骨堂『釈迦堂』へご案内いただきます。地域の方々へ向けた説明会が開催されておりましたが、現納骨堂の『阿弥陀堂』も含めて説明会終了後も見学の方々が引きも切らない状況でした。


貴重な文化財をどのように守り、伝承していくかを改めて考えさせられるとともに、餘慶寺がいかに人々の身近にありつづけ、信仰を集め、愛され続けてきたお寺であるのかを垣間見ることができた訪問となりました。

参加大学生の感想

 餘慶寺で一番印象に残っているのはやはり、国指定の重要文化財の薬師如来坐像である。大きさ故の雰囲気、そこからくる圧倒的オーラ、なのに優しくお寺を守っているような感じが、国指定だからすごいではなく、すごいから国指定されたのだという印象を受けた。私はまだ仏像についての勉強不足で、国宝と県指定文化財の違いが分からないことがある。そうした違いもこの薬師如来坐像は超えてきてかっこよかった。昔の人たちはあの仏像をみんなで運んで火災等災害から守ってきたと聞いた時はさすがに驚いたが、そうしないと今現存しないはずだし、それほど大切にされてきたという裏付けにもなっていて他の仏像と違って一目置かれる理由が分かる気がした。

 今回の訪問では、餘慶寺が地域の方々に愛されているお寺であることが強く印象に残っています。境内をご案内していただいている際、餘慶寺のみなさんと餘慶寺を訪れている地域の方々が親しく交流されており、お寺と地域との距離が近い印象を受けました。このようなお寺と地域の密接な距離感が形成されていたからこそ、お寺が幾多の戦災や災害に直面しても、たくさんの人々が協力して危機を脱してきたのだと感じました。
また、餘慶寺に残されている文化財の迫力に圧倒されました。特に、像高が人の背丈以上ある薬師如来坐像の表情の力強さに圧倒され、そのお姿で千年以上の長い年月の間、たくさんの人々の願いを受け止めてきたのかなと思いを巡らせました。

上寺山餘慶寺
〒701-4232 瀬戸内市邑久町北島1187