伝教大師作の聖観音を祀る「普門寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

伝教大師作の聖観音を祀る「普門寺」を訪ねる

2022年10月22日 訪問
静岡県掛川市にある普門寺は、かつて高天神城に住んだ今川家の支配下にあったと考えられ、武田・徳川との戦いに巻き込まれ全山延焼したという悲しい歴史が伝えられています。しかし、704年行基により開山したとされる古刹を再興しようと尽力した地域の方の想いが広い境内の随所に残る、温かいお寺でした。
駐車場で車を降りると、境内への入口にひときわ新しい救世観音像が立っています。発生が予想されている東海大地震の被害が大きくならないように、また、世界の平穏を願うご住職と地域の方々によって令和4年に建立されたそうです。

高木光基ご住職は隣接した森町にある鹿苑山蓮増院との兼務ということでお忙しい中、お話を聞かせてくださいました。
「私が来た時は、草が生い茂りジャングルのような状態でしたが、せっかくのお寺を何とか元の状態に戻したいという気持ちでこちらに住んでいます。『普門寺』という寺号は全国にたくさんあります。これは『観音経』を『普門本』と称しているためで、当然、ご本尊は観音様でいらっしゃいます。」

「開山は704年と言い伝えられています。最初は法相宗のお寺で、この先の山の中にあったはずですが、詳細は調査できておりません。」

「隣町森町の蓮華寺が704年の開山、別当を務めてきた小国神社が701年の創設と記録が残っています。普門寺には記録が残っていないのですが、704年の開山と伝えられ地域の熊野神社が701年創設、となっており、どちらかが真似をしたか、同時に開かれたのだろうと考えています。さらに蓮華寺の記録によると、16代目に慈覚大師円仁さまのお名前が残っています。おそらくその時に天台宗に改宗され、こちらも同じようにされたのだと推測しています。」

「境内には赤い鳥居を構える観音堂、池の前に弁天堂とあります。観音堂は本尊の聖観音をお祀りしており、弁財天堂には同じ時期に作られたのではないかという弁天像が祀られています。平安時代に平重盛が海上交通の安全と時の高倉天皇の健康を祈って、比叡山から伝教大師作の聖観音像を、厳島から弁天像を勧請したと伝わります。袋井市にも、平重盛建立と伝えられているお寺が二か寺ありまして、同じ時期の開山のようです。」

「また、海上交通の難所であった遠州灘を伊豆へ流された文覚上人が通ります。嵐にあった上人は船底の板に不動明王像を彫ったのです。すると、突然波が静かになり、ふと陸地を見ると普門寺の姿が見えたそうです。源氏の世になり、無事を感謝するため船底の板から不動明王像を切り取ってこちらに持ってきたのです。これが、波切不動尊として伝わり、境内に安置されています。」

「と、すると、このお寺は平家と源氏の両方に守られていて、ある意味安心、一方でどこかで喧嘩がないか、と心配をしております。」

波切不動尊堂

「争いの世になるとお寺は戦の時の本陣が置かれるような場所になります。ところが、戦に負けそうになると相手方に使われないようにお寺を焼いてしまうということがあったそうです。ですので、このお寺には高天神城の戦い以前の記録が残っておりません。」

「江戸時代になり世が落ち着くと、近隣の横須賀城に入った城主大須賀康高が明王院の跡地であったここに場所を移し、普門寺を再建しました。南北1km、東西500mの境内を持つ広いお寺ながら、幕府から与えられた石高は37石。末寺も抱えながらそれではやっていけません。なので、末寺を切り捨ててしまったり、貴重なものも失われていったりしたのではないでしょうか。」

善光寺堂

「この建物は『善光寺堂』です。旧お堂には、信州の善光寺と同じように『極楽めぐり』があったようですが現在のお堂を建造する時に埋めてしまったようです。ここに安置されている『善光寺仏』は伝教大師作と伝えられています。七年に一回の御開帳が今年だったのですが、そのまま開けています。信州善光寺の絶対秘仏の御本尊『一光三尊像』を詳細に模写したものと言われています。また、両脇にある阿弥陀如来さまも鎌倉時代くらいのものと伝えられています。」
「善光寺より運んできた様子を描いた絵があり、全員のお名前が描かれています。服装もバラバラで、洋傘をさしていたりして面白いですね。また、運んできたという証文も残っています。」

弁財天堂

「江戸時代末期に、修験道の霊場戸隠山から普門寺に譲り受けたものが、御前立として安置されています。九頭竜弁天といいます。何より腹部に武田氏の家紋である菱形が描かれているのが目立ちます。と、すると、御前立は源氏、本尊は平氏ゆかりのものという大変ユニークなことになっていますね。」

弁財天堂の建物自体の歴史も古く、市の文化財になっています。


「静岡浅間神社と同じ立川流で造られていて、技術のある宮大工さんが周囲に十二支を彫っています。正面は蛇、方角を表しています。池は地元の方が整備してくださって、鯉を放して餌をやってくれていたのですがその方が今は高齢になり私が餌をやっています。」

波切不動尊堂

「今でも地平線の先に海が見えますね。地元の漁師さんが信者となって『大漁満足』のために船のスクリューを奉納されました。また、別の方が盗難防止に、ということで鍵をつけてくださっています。」

地域の方々がいかに普門寺を大切にしているかがここからもうかがえます。

「金毘羅大権現さん、波切不動尊、秋葉三尺坊大権現さんの三体を堂内に祀り航海の安全を祈っています。」

観世音堂

つづいて、鮮やかな赤色の観音鳥居が特徴の観世音堂を拝観します。

「この鳥居は先々代の住職が建てたようです。回峰行を八百日くらい達成された方のようで、しっかり名前が残っています。護摩焚きができるお堂の造りになっているのですが、コロナウイルスの影響もあってここ二年はお堂の外で護摩焚きをせざるを得なかった状況でした。」
普段は結界として近づくことが難しい堂内も特別に見ることができました。

「役行者像は古いものだと思われます。天台宗なのに、弘法大師さんの霊場にもなっていて、こっそり弘法大師像を置いています。」

「秘仏である聖観音と脇侍の三体を納めている宮殿は、現在の技術で再現するのはかなり難しいと聞いています。本尊は平安時代、伝教大師作のものを平重盛が勧請したと伝えられています。御前立の千手観音もけっこう古いもののようですが、詳細はわかりません。」
「境内にはさらに『西国三十三観音』に見立てた三十三のお堂があります。江戸時代に、地域の方が町ごとに分担して施主となり、それぞれ現地の三十三観音から勧請を受けて建てたようです。それが250年経った今でも、毎月の掃除やお堂の補修などを担ってくださって、町内会や個人の資金で維持され、『西大谷三十三番観音霊場巡り』として親しまれています。全部回ると1時間半くらいかかります。これほどの規模で再現されていて、宗派を超えて維持されているというようなお寺は他にないのではないのでしょうか。」

源氏、平氏、武田家はもちろん、この地域に住み続けていた方々など多くの方の想いをつないできたであろうことが実感されます。
ご住職は、寺院の歴史について次のようにおっしゃられました。
「明治には廃仏毀釈という神社とお寺が分離される運動があり歴史の書き換えなどもあったかと思います。比叡山をはじめ、本来はお寺と神社の関わりは深いものです。そうした悲しい部分も歴史の一部として学んでいただきたいと思います。
明治以降、お寺の維持のために檀家さんを募集しましたが、それだけでやっていける数ではありません。それでも続いていくのは、地域の方からの信仰のおかげだとありがたく感じています。古いお寺に行くとこのような物語がたくさんあるかと思います。こうした物語をよりたくさんの人に知ってもらいたいと思っています。」

「お坊さんの仕事は葬式、というように思われがちですが、天台宗や最澄さまの教えによれば、今生きている人を対象に平穏に幸せに生きていけるように導くことです。これはつないでいかなければならないと思います。」
と、おっしゃられていました。

参加大学生の感想

普門寺を訪れて、地域の人々によって形作られたお寺という印象を受けました。善光寺堂には地域の人々が善光寺から運んできた阿弥陀さまが祀られていたり、御堂の中には寄進された円空彫の仏像が並んでいたり、今も町内の人々が管理している西国三十三所の観音像があったりと、とにかく地域の信仰が凝縮されたようなお寺だと感じました。平重盛が寄進した伝教大師作の観音像や弁財天像が守られてきたのも、こうした地域の支えがあってこそのものなのではないかと感じました。

 今回の訪問の中で、ご住職の「地域には『何かあったら普門寺へ』という考えを持っている人が多い」というお話が印象に残っています。普門寺の境内を巡っていると、他所から移動してきたお像や、地域全体に関する出来事を記録した石碑が多く存在していることに気がつきます。これは、普門寺が地域の中で重要な場所で、未来へお像や地域の出来事を受け継ぐためにふさわしい場所であると人々に認識されていたからだと思います。弁天堂の前に設置してある、地域住民による遭難者救助に対する報奨の石碑や観音堂や弁天堂、善光寺堂に安置されている数々のお像を拝見すると、お像に対する地域の方々の祈り、石碑に込められた誇らしさといった当時の人々の感情を、末永く伝えていきたいという人々の願いや熱意に触れた心地がしました。

 普門寺の境内全域には、西国三十三ヵ所巡礼を模倣したお堂が点在しています。各お堂には、第1番札所である青岸渡寺からはじまり第33番札所である華厳寺までのそれぞれの札所本尊が、石造で彫刻されおまつりされています。ご住職によると、この西国三十三ヵ所巡礼の写し霊場は、地域の方々が主体となり、宗派を超えて巡礼霊場の維持・管理をされているそうです。このように、バックグラウンドが異なる様々な人々からの信仰を集める普門寺だからこそ、お寺を中心とした様々な人々の交流が生まれ、地域に何かあったときに人々に頼られるお寺という文化が引き継がれているのだと今回の訪問を通して強く感じました。

 案内をしていただく中で、このお寺が704年に開基した寺院であるとともに熊野社、蓮華寺と小国神社(遠州一の宮)といった神社仏閣も同じ年代の開山であると聞き、静岡にまとまって古い寺院があること驚きました。平安時代において平清盛の長男である重盛が比叡山から聖観音、厳島神社から弁財天を勧請していたり、源氏に平家討伐を促す文覚を救っていたりと平家源氏双方に救いを行っているのは面白いと思いました。また平重盛が勧請した弁財天と、源氏の子孫である武田氏の家紋である武田菱が描かれた弁財天がともにこの寺院でまつられているのは運命であるように感じました。その多くの人に救いを与えるということを行ってきた寺院であったために、幅広い人に信仰され現代にも引き継がれてきたのだと思いました。江戸時代に周辺の商人たちがお寺の境内にある西国三十三観音の石像を作ることや、未だに周辺の人々がそれらの像の清掃を行っているのは、幅広い人に救いを行ってきたからこその結果をあらわしているようにも感じました。

千手山普門寺
〒437-1304 静岡県掛川市西大渕6429番地