いろり端
探訪「1200年の魅力交流」
国宝「釈迦堂」を残す善福院を訪ねる
2022年12月3日 訪問
一面のミカン畑が広がる山の麓に、国宝に指定されている建物を伝えるお寺、善福院はあります。今回、日本有数の名建築である釈迦堂の内部をご案内いただきました。
釈迦堂を伝える善福院の歴史は、建保2年(1214)に栄西禅師により開かれた廣福禅寺の子院(塔頭)として開かれたことから始まります。往時の廣福禅寺は七堂伽藍を備えた大寺院であったと伝わっていますが、お寺を支えていた加茂氏の没落により荒廃してしまったそうです。その復興のため、時代の流れの中で様々な宗派のお寺となり、江戸時代に紀州徳川家が現在の和歌山県一帯をおさめるようになってから、廣福禅寺は天台宗のお寺として守られてきました。しかしながら、明治時代になると廣福禅寺の子院は善福院を残すのみとなり、釈迦堂を含む廣福禅寺の維持・管理は善福院が行うようになったそうです。釈迦堂の瓦をよく見てみると、軒の瓦に「廣福禅寺」と書いてあることに気がつきます。この瓦の文字は、廣福禅寺と善福院の歴史を物語る名残ともいえましょう。
釈迦堂の内部に入ると、天台宗の他寺院の建物と比べ、内部空間が開放的な印象を受けます。これは、釈迦堂が「禅宗様(唐様)」とよばれる建築様式で建てられているためです。例えば、須弥壇が位置する釈迦堂中心部には柱がなく、その代わりに大きな前後方向の部材(大虹梁)とその上に組み合わさる円柱状の部材(大瓶束)によって支えられていることがわかります。また、天井を見上げてみると、中心部のみ天井板(鏡天井)があり、それ以外の場所は屋根を支える構造が露出していること(化粧屋根裏)に気がつきます。このような特徴のため、善福院釈迦堂の内部空間に関する私たちの印象は、他の天台宗寺院の密教的な建築とは異なるものとなるのでしょう。
この善福院釈迦堂には、他の建物にはあまり見られない特徴的な建築部材が見られます。それは、釈迦堂内部の四隅を注意深く見てみると見つけることができます。直角に交わる壁とは別に、45°状の短い斜め方向の部材(梁)が組み込まれているに気がつくと思います。この梁を「燧梁(ひうちばり、火打梁)」と言うそうです。
この燧梁が残る日本国内の宗教建築は、この釈迦堂を含め、広島県福山市鞆の浦にある臨済宗のお寺・安国寺の釈迦堂、和歌山市にある真言宗のお寺・松生院の本堂の合計3箇所でしか見られない構造だそうです。それでは、なぜ宗派も場所も異なる3つのお寺で燧梁が共通してみられるのでしょうか?
ご住職によると、和歌山にゆかりのある人物の影響によるものではないかと推測されているとのことでした。
ご住職によると、和歌山にゆかりのある人物の影響によるものではないかと推測されているとのことでした。
「これは明確になっていることではないのですが、法燈派の祖である心地覚心(法燈円明国師)さんの影響なのではないかと考えています。心地覚心さんは、国内で密教や禅を幅広く学び、後に宋に留学し日本に当時の最先端の知識をもたらしたことで有名です。鞆の浦の安国寺は心地覚心さんの開山であり、善福院と松生院が位置する和歌山県にはゆかりのあるお寺が多くあるのです。」
そのため、この3つのお寺の建物の建立に当たり、心地覚心周辺の大工集団が関わったのではないかと考えられているとのことでした。
そのため、この3つのお寺の建物の建立に当たり、心地覚心周辺の大工集団が関わったのではないかと考えられているとのことでした。
参加大学生の感想
今回、善福院を訪問し、たくさんの人々の手によって守られてきた文化財に向き合うことで、人々が建物や仏像に込めた願いや想い、当時の人々の息づかいや歩みを感じることができることを改めて実感しました。現在に生きる私たちがそのような思いを抱くことができるのは、多くの人々の手によって、文化財がなるべく作られた当時の姿で大切に守り伝えられてきたからこそだと思います。先人達が残した文化財を私たちも未来へと受け継いでいきたいと強く感じた訪問でした。
善福院釈迦堂
〒649-0132 海南市下津町梅田271番地
〒649-0132 海南市下津町梅田271番地
人から人へと紡がれてきた
大切な想いや魅力について語り合う
地域で育まれてきた歴史や文化を語り合い、
新しい価値と出会います