「補陀落渡海」の伝承が残る補陀洛山寺をたずねる
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探訪「1200年の魅力交流」

「補陀落渡海」の伝承が残る補陀洛山寺をたずねる

2022年12月2日 訪問
4世紀の仁徳天皇時代に、裸形上人によって開かれたと伝えられる補陀洛山寺(ふだらくさんじ)。熊野九十九王子の一つ・浜の宮王子の守護寺で、『那智七本願』の一角に数えられました。熊野三山の神々を祀る熊野三所大神社が隣にあり、神仏習合の信仰の形態を色濃く残すお寺です。平成16年(1994年)にはこの一帯が『紀伊山地の霊場と参詣道』として世界遺産に登録されました。

補陀洛山寺高木智英ご住職が寒行でご不在のため、お父様である青岸渡寺高木亮英住職にお話を伺いました。

開基

「このお寺は、白華山(びゃっかさん)補陀洛山寺です。インドの裸形上人が那智の浜に漂着されて川をさかのぼる前にここに立ち寄り、開基されたと言われています。那智七本願の一寺として隆盛をきわめていたのですが、文化5(1808)年の台風で諸堂塔が破壊されてしまいました。その後長らく仮本堂でしたが、平成2(1990)年11月に金剛組によって再建されました。現在の本堂は、室町時代様式の高床式四方流宝形型です。」
世界最古の企業といわれる金剛組は、青岸渡寺三重塔の建築にも携わっています。

本堂

「ご本尊は『三貌十一面千手千眼観世音菩薩』です。190センチあります。平安時代後期の作と伝えられ、香木造立像で国の重要文化財になっています。秘仏なのですが、今回は特別に皆様のために御開帳しますね。少しお待ちください。」

何と、特別に目の前で御開扉いただけました。
手を合わせ、扉が開きご本尊が姿を現す瞬間を見逃すまいと、胸を高鳴らせながら食い入るように見つめます。秘仏のため大きなお写真は控えますが目の前まで近づいて拝見させていただきました。

1月27日の立春の節分会、5月17日の渡海上人供養、7月10日の護摩供・先祖供養と年3回の御開帳がございますのでご覧ください。

「ご本尊の脇に祀られているお像は一木造で、ご本尊よりも古い平安時代の作と言われています。本来は四天王像だったようですが、今は持国天と 広目天の2体が祀られています。」

補陀落渡海(ふだらくとかい)とは

続いてお寺名の由来となった、『補陀落渡海』についてお話いただきました。
「仏の世界には方角があります。阿弥陀さんは『西方極楽浄土』と言って西、お薬師さんは『東方瑠璃光浄土』と言って東、お観音さんは『南方補陀落浄土』といって南を表します。『補陀落』とは、サンスクリット語で観音浄土を意味する『ポータラカ』の音訳です。ここは本州最南端で、かつてはお寺の目の前が浜だったんです。歴代のお寺の上人は南の海の彼方にあるとされる観音浄土『南方補陀落浄土』を目指し、わずかな食料と水を積んでここから捨て身で船出しました。これが『補陀落渡海』と言われる宗教儀礼です。奈良朝時代の貞観10年(868年)から江戸時代中期(1722年)まで20数回ほど行われたとされています。当初は上人が一人で船出したのですが、時代とともに変わっていき、後には上人以外にも同行者がいたという記録が残っています。次第に形骸化し、上人が亡くなられた際に船に乗せて南方を目指し、水葬をするといったように変わっていきました。井上靖の小説『補陀落渡海記』の題材にもなっています。日本国内の補陀落の霊場としてはこのほかに、高知の足摺岬、栃木の日光、山形の月山などがありましたが、記録に残されている40件ほどの補陀落渡海のうち半数以上がここ熊野那智で行われたとされています。」

入口近くにはひときわ目をひく絵図がかけられています。
「これは、『那智参詣曼荼羅』の写しです。原本は現在、那智山青岸渡寺の宝物館に所蔵されていますが、元々はこちらにありました。全国へ熊野・那智への参詣を勧募して回る時に使われていたようで、折りたたんだ際の折り目がついています。熊野・那智には勧募を取りまとめるための本願(ほんがん)が7カ所あり、そのうちの一つがこのお寺でした。絵図には、青岸渡寺・熊野大社・補陀洛山寺などの姿と合わせて補陀落渡海の様子も描かれています。」

渡海舟

境内には、1993年に復元したという渡海舟が置かれています。
「絵図や文献などをもとに復元したものがこちらです。船の全長はわずか6メートルほど。一般的な貨客のための渡海船とは異なり、和船の上に入母屋造りの箱が置かれ、その四方に鳥居が4つ建てられています。鳥居は、『発心門』『修行門』『菩薩門』『涅槃門』の死出の四門を表しているとされています。渡海する際は、箱の中に約30日分の食料や水を入れ、そこに上人も入りました。扉を釘などで外からふさいだため、箱が壊れない限り、出入りができなかったのだそうです。艪や櫂など航行のための道具も備えていなかったと。それは、生還することも遺骸となって戻ってくることもない。それが浄土へ至った証であるとの思想に基づいているとされています。あちらには、補陀落渡海で船出した上人の名前を記した『補陀落渡海記念碑』を建ててあります。裏山にはお墓が残っています。」


今の感覚では想像し難い補陀落渡海という崇高な歴史に触れることができた補陀洛山寺。南方の観音浄土を目指し船出した上人たちの厚い信仰心に思いを馳せる、大変貴重な訪問でした。

参加大学生の感想

 これまで、なぜ、自らの身を犠牲にしてまで、観音さまの浄土を目指すのか、ということがあまりよく理解できませんでした。しかしながら、今回の訪問を通してその理由の一端を理解することができました。

 補陀落渡海が行われた理由を考える上で、青岸渡寺の高木ご住職がおっしゃっていた「那智山は観音さまの霊場である」ということが重要であると感じました。『観音さまの霊場から、南方のかなたにあると信じられている観音さまの浄土(補陀落浄土)へ向かう』ということを考えると、太平洋に面し、半島の先端近くにある那智の地は観音信仰にとって大きな意味合いを持っていたのだと想像できます。現世において浄土へ向かう、といういにしえの人々の熱い信仰心を実感することができました。

 観音信仰を広めたのは『熊野比丘尼』であり、絵解きをしながら那智のすばらしさを伝えて回っていたということです。那智参詣曼荼羅を拝見すると、那智の山々、そして滝、浜辺に至るまで画面いっぱいに風景を描写している点が印象的です。中でも、補陀落渡海をしている様子に注目してみると、人々に見送られながら出航する様子が描かれています。まさしく、観音さまへの信仰心の表れであり当時の人々が持っていた浄土へのあこがれを感じることができました。

 今回、補陀落山寺を訪問し、最も印象に残ったのはご本尊である千手観音さまです。正面のお顔の左右にお顔がある三面千手の珍しいお像で、どっしりとしており、やさしいお顔立ちの優美な印象にもかかわらず、どこか厳しい視線を感じさせる不思議な雰囲気を持った観音さまでした。補陀落渡海をする人々は出航する前にこの観音さまを拝んで出航したといわれているそうですが、どのような心境で観音さまを見ていたのか、想像が膨らみます。これまでに何度か那智山を訪問していましたが、観音さまの信仰という面から新たな魅力を再発見することができました。
補陀洛山寺
〒649-5314 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浜ノ宮348