日光山輪王寺にて神仏習合を学ぶ(1)
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探訪「1200年の魅力交流」

「日光山輪王寺」にて神仏習合を学ぶ(1)

2022年9月10日 訪問
奈良時代に開かれた日光山。現在は二荒山神社、日光東照宮、日光山輪王寺の2社1寺に分かれていますが、明治時代までは日光山として1つにまとまり、関東一の霊場でした。
山岳信仰に仏教、神道の考えが一体化した神仏習合の面影がいまも色濃く残り、2社1寺の貴重な建造物群とそれらを取り巻く文化的景観は「日光の社寺」として、平成11年(1999)に世界文化遺産に登録されました。

日光山といえば徳川家康公の墓所として大変有名ですが、その歴史は私たちの想像以上に長いものでした。

今回は、開山から信仰の中心にあった日光山輪王寺の今井昌英執事長と堂者引き(社寺殿堂案内人)の春日武之さんに貴重なお話を伺いながら、日光山内をご案内いただきました。
その様子を2回に分けてご紹介します。

日光山輪王寺の東参道を上がると、巨石の上で錫杖を突き仁王立ちする勝道上人(しょうどうしょうにん)の銅像が出迎えてくれました。彫りの深い顔立ちで、厳格ながらも優しさを感じる表情が印象的です。

週末の訪問だったので境内は多くのご参拝者で賑わっている中でしたが、まずは会議室にご案内いただき、日光山の長い歴史について今井執事長よりお話いただきました。
「勝道上人は奈良時代の僧で、鑑真和上の孫弟子です。天平神護2年(766年)に10人の弟子とともにこの地へいらっしゃいました。現在の2社1寺が立つ場所は、大谷川と稲荷川に挟まれた扇状地の要にあります。後方には男体山、女峰山、太郎山などの山々が広がり、古代中国の考え方である風水においては理想の地形になります。勝道上人がこの地を選んだ理由の1つと思われます。」

 風水では好立地の大谷川ですが、勝道上人一行には最初の課題になります。切り立つ崖と激しい水流から渡ることができなかったそうです。
勝道上人

「伝説によると、勝道上人が祈ると中国の物語『西遊記』で知られる玄奘三蔵を守護したという深沙王(じんじゃおう)が現れ、2匹のヘビを放って橋をかけてくれます。現在も大谷川に架かる赤い橋「神橋(しんきょう)」の起源です。無事に大谷川を渡った勝道上人は草庵を結び「四本竜寺」と命名します。これが日光山輪王寺の始まりです。同時に二荒山神社につながる日光権現も祀られます。日光山は開山当初から神仏習合だったということです。」
「日光山の名前の由来も面白いですよ。勝道上人は観音菩薩を信仰されており、当初は観音菩薩の国である「ポータラカ」から「補陀落山(ぶたらくさん)」と名付けました。その後、ご神体の1つ男体山が春と秋の年2回に大風で荒れることから二荒山の文字が当てられます。二荒山(ふたらさん)を音読みにするとニコウサンとなり、これを弘法大師(空海)が「日光山」に改めたと伝わります。平安時代初期の記録にすでに「日光山」と書かれているので、古くから「補陀落山」と「日光山」が併用されていた可能性も考えられます。」

「弘法大師は勝道上人の弟子に頼まれて、『沙門勝道歴山水蛍玄珠碑(しゃもんしょうどうれきさんすいをへげんじゅをみがくのひ)』という勝道上人の伝記を執筆しています。その内容は勝道上人が男体山登頂に成功するまでを記したもので、弘法大師の弟子が編纂した『性霊集(しょうりょうしゅう)』に収録されています。一説では伝記の執筆が縁となり、弘法大師が来山して瀧尾権現の開基となったといわれています。」

最澄様と同時代に生きた、空海様や勝道上人のつながりが感じられます。
「勝道上人、弘法大師に続いて、日光山の歴史に名を刻むのが第3世天台座主・慈覚大師円仁です。嘉祥元年(848)に慈覚大師が来山し、三仏堂(本堂)、常行堂、法華堂などを建立。以後、天台宗の寺院となります。これにより、日光山の信仰の中心は、観音菩薩から慈覚大師が信仰した阿弥陀如来へ代わります。
 鎌倉時代は源頼朝を筆頭に幕府や地方の有力者の信仰を集めます。また、山岳修行の聖地として多くの修験者も来山し、大きく発展します。この頃から神仏習合の思想が根付いたようです。室町時代の連歌師・柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)は紀行文集『東路の津登(あずまじのつと)』において〝院々僧坊500坊に余りぬらん〟と、その繁栄ぶりを紹介しています。」
ところが大きな転機が訪れます。天下統一を目指す豊臣秀吉の小田原征伐です。
「戦国時代は日光山にも僧兵がおり、小田原の北条側に加勢します。ご存じのとおり、北条氏は敗れ、秀吉の怒りは日光山にも向けられます。所領は没収され、しばらく衰退しますが、江戸時代の慶長18年(1613)に天海大僧正が貫主に就かれ、徳川家康公の霊廟である日光東照宮が建てられるなど、再興していきます。その後、明治時代に再び転機が訪れますが、ここからは境内
を巡りながらご説明いたしましょう。」

和室「セイセキの間」

今井執事長が最初にご案内くださったのは、宝物殿の奥にある和室「セイセキの間」です。明治9年(1876)に明治天皇が東北巡行の際に立ち寄られ、宿泊された部屋です。
「日光山と皇族との関係は深く、江戸時代には皇族出身の法親王様が13代にわたり日光山の座主に就かれています。ご存じのとおり、明治4年(1871)に廃仏毀釈令が下り、日光山でも現在の三仏堂が立つ場所にあった本坊が不審火で全焼し、二荒山神社と並び立っていた三仏堂も解体されます。」

「明治天皇は荒れた境内を視察された後、「これは酷い」と嘆かれたそうです。そして、本坊のあった場所に三仏堂を再建する計画を知り、その費用として3000円を下賜くださいました。現在の金額に換算すると30億円くらいですね。」

今回は関係者以外立ち入れない御霊殿を見せて頂くことができました。明治天皇と昭憲皇太后、13人の法親王の位牌が置かれ皇室への感謝の気持ちが窺われます。
神仏分離、廃仏毀釈があったために当時の皇室と仏教の関係は悪いものであったと想像していたのですが、意外な印象を受けました。

三仏堂

日光山はもちろん東日本最大の木造建築である三仏堂にやってきました。2020年に13年の歳月をかけた「平成の大修理」が終了。往時の美しい姿を取り戻しました。堂内の受付を抜け、階段を下ると金色に輝く三体の仏様の足元に出ます。
「右側から男体山の本地仏・千手観音菩薩、女峰山の本地仏・阿弥陀如来、太郎山の馬頭観音菩薩が祀られています。神仏習合では本地垂迹(ほんちすいじゃく)といい、仏様は神様の姿で降臨もします。つまり、二荒山神社の御祭神である大己貴命(おおむなちのみこと)(大黒天)は千手観音菩薩、田心姫命(たごりひめのみこと)は阿弥陀如来、味耜高彦根命(あじすきたかひこのみこと)は馬頭観音菩薩が、それぞれ姿を代えて現れたということです。日光山では御神体の山、権現(神)、本地仏を総じて、日光三所権現と呼びます。」

「こう説明すると、父親にあたる男体山の千手観音菩薩がなぜ中央でないのか、と質問されます。仏教的には如来の方が菩薩よりも位が高いからと言えますが、どの家庭でも中心は母親でしょとお答えすると、みなさん笑っておられます。」
三仏堂では「東照三所権現」の掛仏も見られます。こちらは江戸時代に天海大僧正が定めたもので、東照大権現(徳川家康)の本地仏が薬師如来、摩多羅神(またらじん)の本地仏は阿弥陀如来、山王権現の本地仏は釈迦如来になっています。

掛仏

現在の三仏堂は徳川3代将軍・家光公の建立です。語り伝えでは、日本一のお堂を立てるよう家臣に命じますが、幕府の財政は厳しく、現在の大きさになります。充分に立派だと思いますが、家光公は納得がいかず家臣を叱責します。すると、家臣は「日光一と聞き違いました」と深く謝罪したそうです。後日、家光公は財政の現状を知り、深く反省したそうです。」

三仏堂では毎年4月2日に「強飯式(ごうはんしき)」、5月17日には「延年舞(えんねんのまい)」が行われます。強飯式は山伏が三升入りの大椀をもち、頂戴人(参加者)に「喰え、喰え」と無理強いする奇祭です。頂戴人は福を授かれると信じられます。

延年舞は慈覚大師が唐より将来され、日光山に伝えたという秘舞曲です。当日、堂内には敷撫台が設けられ、緋色の直垂(ひたたれ)に白の大口袴、背中に短刀をつけ、頭は白袈裟でかぶと形に包んだ2人の舞衆が、僧侶の声明に合わせて交代で舞います。機会があればぜひ鑑賞したいものです。

ご説明の後、今井執事長が鳴らす鈴の音に合わせて、みんなでご本尊に合掌しました。

相輪橖

三仏堂の北側には令和4年3月に保存修理を終えたばかりの相輪橖(そうりんとう)と糸割符灯籠(いとわっぷとうろう)がありました。

「相輪橖は寛永20年(1643)に天海大僧正が徳川家光公の発願で建立しました。伝教大師最澄の六所宝塔の1つ、比叡山の宝塔を模していて、橖頂部の龍車に経典が収蔵されました。最初は東照宮奥の院にありましたが、二荒山神社の境内を経て、現在地に落ち着きました。」

青銅製の橖身には金文字で伝教大師の遺訓とお言葉「忘己利他(もうこりた)」が書かれています。忘己利他は「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」という意味だそうです。

糸割符灯籠は徳川家康33回忌に、糸割符仲間(生糸貿易の商人仲間)が献上したもの。こちらも当初は東照宮の表門にありましたが、相輪橖と同じ経路をたどり、現在に至ります。灯籠の下部には中国の孝行説話「二十四孝」譚のレリーフが見られました。

宝物殿

日光山輪王寺には約3万点の寺宝があり、その一部を宝物館で公開しています。訪問した際は、国宝の『大般涅槃経集解(だいはつねはんぎょうしゅうげ)』や、西洋占星術でおなじみの12星座が見られる『北斗曼荼羅図』、徳川家光が夢で見た徳川家康の姿を描かせた肖像画『紙本著色東照権現像 白衣像』など、貴重な展示品が見られました。
ひと際、注目を集めるのは風神、雷神です。
「再三、お話しますが日光山は明治時代まで神仏習合でした。実はこの風神と雷神も日光東照宮の陽明門にあったものです。風神雷神は千手観音曼荼羅の上の方に描かれる神で、大切なものを守ります。仏教に近い存在ですから、神仏分離令により輪王寺へ移されたというわけです。本当はゆっくり解説したいですが、まだまだ見てもらいものが、たくさんあるので、興味があればまたおいでください」

今井執事長は笑顔で、そう結ばれました。
第1部はここまで。次回は今井執事長からバトンを引き継いだ堂者引きの春日武之さんに大猷院、常行堂、日光東照宮などをご案内いただきます。

参加大学生の感想

訪問前の日光のイメージは「江戸幕府との強い結びつき」ばかりが浮かびました。しかしながら、日光にはそれ以前、開山以来の観音信仰や神と仏の深いかかわりがあり、その信仰の層の厚さに非常に驚きました。
 また、延暦寺との関係も深いそうです。以前、延暦寺の西塔で常行法華堂、いわゆる「にない堂」の変わった造りと、そこで行われる修行についての説明を受けましたが、輪王寺にも同じお堂があり、慈覚大師の創建、そして後堂に「摩多羅神」が祀られている点に興味を惹かれました。私は大学のサークル活動で能楽をやっていましたが、この能楽に影響を及ぼしたという延年の舞、そして芸能の神といわれる摩多羅神ゆかりの場所を訪れてみると、その歴史の深さを実感することができ、大変良い経験になりました。

日光というと、どうしても東照宮に代表されるような江戸初期の華やかな建造物群という印象を強く持ってしまいがちでしたが、それを何百年も遡るような信仰の歴史が、今の日光を作り上げているのではないかと感じました。
私にとって「神仏習合」は、これまで教科書に載っている用語としての認識にとどまっていました。神道と仏教が同じ場所で別々に存在している、どちらかと言えばいい印象ではありませんでした。今回、本堂の本尊様を初めたくさんのところにちりばめられた神仏習合の証を見る度に、興味と感動が自分を動かし、これまでと違った見方ができるようになったと感じています。輪王寺さんから頂いた本堂修理記録を見て、私が大学生として学べることを最大限学びたいなと思いました。
日光山輪王寺

〒321-1494
栃木県日光市山内2300番地