いろり端
探訪「1200年の魅力交流」
伝教大師作の薬師如来を祀る「木下川薬師」浄光寺を訪ねる
2022年10月11日 訪問
東京都葛飾区に位置する青龍山薬王院浄光寺は、「木下川(きねがわ)薬師」とも呼ばれ親しまれる寺院です。今回は伝教大師作と伝わる御本尊、薬師如来像の伝教大師千二百年大遠忌を記念したご開扉を訪問させていいただき、平安時代から江戸を見守ってきたお寺の歴史を教えていただきました。
浄光寺に最澄さま作の薬師仏があると私たちが知ったのは、栃木県の大慈寺を訪問させていただいた時でした。大慈寺と浄光寺を繋いでくれたのは、慈覚大師円仁とその師、広智様の存在です。まずは木下川薬師の創建の歴史について、伊藤恵延ご住職にお話いただきました。
「今回展示もされている木下川薬師の縁起によりますと、大同三年(808)ごろに大慈寺の広智さまが円仁さまと比叡山に行って、帰ってこられる時にいただいたお薬師さまがこのお寺の起源となっています。
広智さまが三週間ほど比叡山に滞在しまして、お帰りになる日の前の晩に、最澄さまの夢に自ら彫り進めていた途中の薬師如来が現れ、もうこれ以上彫らなくてもよいから、明日東に帰る僧侶に託しなさいとのお告げがありました。最澄さまがこれは魂の入った生身(しょうじん)の仏であると感じていましたところ、広智さまが『これから東に帰ります』と挨拶をしにきたため、未完成の下半身を紫の衣で包み、広智さまにお渡しになられました。
大慈寺に帰る途中、関東のこのあたりにまで達したところで、ある老人にお薬師さまをここに置いていくように頼まれたため、広智さまは老人に託されました。この老人は一説にはこの地域を治める神、白髭明神であったとも言われます。この時には雨露を凌ぐ程度の簡素なお堂が建てられました。」
広智さまが三週間ほど比叡山に滞在しまして、お帰りになる日の前の晩に、最澄さまの夢に自ら彫り進めていた途中の薬師如来が現れ、もうこれ以上彫らなくてもよいから、明日東に帰る僧侶に託しなさいとのお告げがありました。最澄さまがこれは魂の入った生身(しょうじん)の仏であると感じていましたところ、広智さまが『これから東に帰ります』と挨拶をしにきたため、未完成の下半身を紫の衣で包み、広智さまにお渡しになられました。
大慈寺に帰る途中、関東のこのあたりにまで達したところで、ある老人にお薬師さまをここに置いていくように頼まれたため、広智さまは老人に託されました。この老人は一説にはこの地域を治める神、白髭明神であったとも言われます。この時には雨露を凌ぐ程度の簡素なお堂が建てられました。」
「それから 50 年ほど経った貞観二年(860)年、慈覚大師円仁さまが浅草寺に宿泊されていたところ、木下川薬師の方向に青い龍のような雲がたなびいているのに気がつきました。そこに伝教大師が彫られた薬師如来が祀られていると聞いた円仁さまは、弟子の慶悟(けいかく)に命じ、伽藍を整備し、お寺ができました。そういうわけで、貞観二年を開山の年としています。
実はかつての木下川薬師は現在の荒川の中にありました。この辺りには川が多く、東京を水害から守るため、約百年前に大正時代に荒川放水路が作られ、この地に移転してきたという経緯があります。現在は三千坪の境内ですが、かつては三万坪の敷地を誇り、江戸時代には将軍様のお杖先だけ敷地にしてよいと言われていました。」
実はかつての木下川薬師は現在の荒川の中にありました。この辺りには川が多く、東京を水害から守るため、約百年前に大正時代に荒川放水路が作られ、この地に移転してきたという経緯があります。現在は三千坪の境内ですが、かつては三万坪の敷地を誇り、江戸時代には将軍様のお杖先だけ敷地にしてよいと言われていました。」
お話に出てきた有名な浅草寺ももともと天台宗の寺院であり、浄光寺はかつて浅草寺の末寺の筆頭でした。今回のご開扉の法要も浅草寺の僧侶の方々に担当していただいたそうです。
平安時代の浄光寺についてお話を伺った後は、御本尊のご開扉と同時に公開されている浄光寺の文化財を見せていただきながら、中世から江戸時代、現在に至るまでの歴史について伺いました。
平安時代の浄光寺についてお話を伺った後は、御本尊のご開扉と同時に公開されている浄光寺の文化財を見せていただきながら、中世から江戸時代、現在に至るまでの歴史について伺いました。
「浄光寺には中世の貴重な史料も残されています。室町時代にはこのあたりの豪族である奥津家定が鶴岡八幡宮の相承院にこのお寺を寄進したという文書が残されていまして、鶴岡八幡宮の方にも同じような記録が残されていて貴重です。」
江戸時代には将軍さまがいらっしゃった時の記録も残され、「御成記」と呼ばれています。
ご開帳を行った記録も残されているのですが、興味深いのは、ご開帳をおこなって得た寄進を元手に水害の被害を受けた地域の復興にあてていたこともあるということです。お寺のためだけではなく、地域復興のためのご開帳という側面があったのは意外に思いました。
「江戸時代には将軍様が来た時にご開帳が行われ、40 回以上行われていますが、明治維新後途絶えてしまい、平成十年(1998)に現在の本堂が完成したのを期に、十二年に一回、寅年にご開帳がされるようになりました。」
そんな将軍様の「御成」を示すものとして、徳川吉宗公からいただいたものとされる御簾が残されています。
ご開帳を行った記録も残されているのですが、興味深いのは、ご開帳をおこなって得た寄進を元手に水害の被害を受けた地域の復興にあてていたこともあるということです。お寺のためだけではなく、地域復興のためのご開帳という側面があったのは意外に思いました。
「江戸時代には将軍様が来た時にご開帳が行われ、40 回以上行われていますが、明治維新後途絶えてしまい、平成十年(1998)に現在の本堂が完成したのを期に、十二年に一回、寅年にご開帳がされるようになりました。」
そんな将軍様の「御成」を示すものとして、徳川吉宗公からいただいたものとされる御簾が残されています。
「将軍様はこのあたりで鷹狩りもされていました。その際、食事を提供する御膳所となっていたがこの浄光寺で、その時に使われていた御簾です。他にも家光公の書かれたという秀吉・家康の絵も残されています。浄光寺は江戸幕府とは関係が深く、江戸城の鬼門の位置にあり、京都御所からみた根本中堂と同じように考えられていました。」
他にも徳川家や勝海舟や西郷隆盛といった幕末の偉人ゆかりの品々や室町時代から江戸時代の仏像などもあり、浄光寺の歴史の厚さを感じさせてくれます。
他にも徳川家や勝海舟や西郷隆盛といった幕末の偉人ゆかりの品々や室町時代から江戸時代の仏像などもあり、浄光寺の歴史の厚さを感じさせてくれます。
本堂
最後にいよいよ本堂に入り、伝教大師作の薬師如来像をお参りさせていただきます。
「最澄さまが作った時は未完成だったので、下半身や腕から先は後補のものです。現在は坐像ですが、当時の仏像には立像が多かったはずなので、もしかしたら立像として造られたものなのかもしれません。」
「最澄さまが作った時は未完成だったので、下半身や腕から先は後補のものです。現在は坐像ですが、当時の仏像には立像が多かったはずなので、もしかしたら立像として造られたものなのかもしれません。」
薬師如来像は力強い表情をされており、木目が体にはっきり見えているところには自然の力のようなものを感じました。素人目ながら、同じく最澄さまの作と伝わる寛永寺御本尊の薬師如来像ともどことなく似ているようにも思いました。
1200 年の歴史の重みを噛みしめながら、浄光寺を後にしました。
1200 年の歴史の重みを噛みしめながら、浄光寺を後にしました。
参加大学生の感想
今回の訪問で印象的だったのは、ご住職と地域の方々が交流している姿を見ることができたことです。御本尊のご開扉には浄光寺が運営している幼稚園の園児やその保護者の方々も訪れていて、ご住職に挨拶をしたり、一緒に記念撮影をしたりしている姿が印象的でした。伝教大師がお作りになった薬師如来像をきっかけにできたお寺が地域をつなぐ拠点となっていることを感じて心が温かくなりました。
伝教大師さまが実際に手掛けた数少ない、そして未完成という仏像様が安置されているということで訪問を楽しみにしておりました。
事前に浄光寺さんの位置を地図で見た際には、住宅街に囲まれていることに驚きました。実際にお寺の周辺を歩くと地図通り民家に囲まれています。そこでは隣接している幼稚園生のお子さんやご家族、また自転車で参拝にくる方の姿も多くみられました。また、伊藤住職のお話からも近隣住民の方々からの厚い信仰や、支えられてきた背景を伺うことができました。
そして住宅街といってもすぐ近くには川が流れてます。大きな道路はあるものの、今まで伺ってきたお寺とは何か違うものを感じ、驚きが絶えませんでした。
そして何よりも秘仏には息を呑みました。未完成である背景を抑えながら拝顔できたことで、より一層の学びがあったと思います。
胸の部分には厚みがあり、「ふくよかさ」とはまた違う重厚感は伝教大師さまが手掛けたことで出たのではないでしょうか。
手の部分に関して、事前学習や伊藤住職のお話を聞いた時点では”もったいない”と感じてしまっていのたが本心であったのですが、実際に拝見するとその繊細さには驚かされました。
伝教大師さまの夢枕のお告げが無視されてしまったのではないかという思いもあり、他の資料を用いた多方面の研究の重要性をまた感じました。
しかしこれもまた、手を後から足されることで出たお姿で、そして現世でお目にかかれたことには対してご縁、また美術的、そして歴史的な観点で自身の考えをも深めることができました。
伝教大師さまが実際に手掛けた数少ない、そして未完成という仏像様が安置されているということで訪問を楽しみにしておりました。
事前に浄光寺さんの位置を地図で見た際には、住宅街に囲まれていることに驚きました。実際にお寺の周辺を歩くと地図通り民家に囲まれています。そこでは隣接している幼稚園生のお子さんやご家族、また自転車で参拝にくる方の姿も多くみられました。また、伊藤住職のお話からも近隣住民の方々からの厚い信仰や、支えられてきた背景を伺うことができました。
そして住宅街といってもすぐ近くには川が流れてます。大きな道路はあるものの、今まで伺ってきたお寺とは何か違うものを感じ、驚きが絶えませんでした。
そして何よりも秘仏には息を呑みました。未完成である背景を抑えながら拝顔できたことで、より一層の学びがあったと思います。
胸の部分には厚みがあり、「ふくよかさ」とはまた違う重厚感は伝教大師さまが手掛けたことで出たのではないでしょうか。
手の部分に関して、事前学習や伊藤住職のお話を聞いた時点では”もったいない”と感じてしまっていのたが本心であったのですが、実際に拝見するとその繊細さには驚かされました。
伝教大師さまの夢枕のお告げが無視されてしまったのではないかという思いもあり、他の資料を用いた多方面の研究の重要性をまた感じました。
しかしこれもまた、手を後から足されることで出たお姿で、そして現世でお目にかかれたことには対してご縁、また美術的、そして歴史的な観点で自身の考えをも深めることができました。
青龍山浄光寺
〒124-0014 東京都葛飾区東四つ木1-5-9
〒124-0014 東京都葛飾区東四つ木1-5-9
人から人へと紡がれてきた
大切な想いや魅力について語り合う
地域で育まれてきた歴史や文化を語り合い、
新しい価値と出会います