慈覚大師円仁さまゆかりの井戸が残る「大慈寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

慈覚大師円仁さまゆかりの井戸が残る「大慈寺」を訪ねる

2022年9月11日 訪問
万葉集に詠まれた三毳山(みかもやま)から北へ7kmほどの小野寺地区に、伝教大師発願の六所宝塔が建てられた古刹、大慈寺があります。第3世天台座主の円仁様、第4世の安慧様が少年期に修行を積んだ場所でもあります。117代となる林慶仁住職に寺の歴史を伺うとともに、円仁様ゆかりの井戸や坐禅岩など境内の旧跡もご案内いただきました。

今回の訪問は、大慈寺近くの蕎麦店からスタート。林慶仁住職と奥様、郷土史研究家の永島正夫さんを囲み、毎朝地元のお母さんたちが地粉から製麺する手打ちそばと新鮮な野菜の天ぷらをいただきました。「このあたりのお母さんたちは、みなさんそば打ち名人ですよ。夕食のおかずが物足りないときには〝そばでもぶつ(打つ)か〟といって、ささっと作ってしまいますから。」と奥様。すっかり打ち解けた雰囲気になりました。
大慈寺の山門をくぐると、右側奥に本堂が見えてきます。本堂でご住職からお寺の歴史を伺いました。

「寺伝によると、天平9年(736)に行基菩薩が開いた寺で、この地を統治していた豪族の小野氏にちなんで小野寺(おのでら)と呼ばれました。その後、鑑真和上の弟子である道忠様が2代住職となります。道忠様は伝教大師最澄様の求めに応じて2000巻の写経を贈ったことでも有名ですね。」
「3代住職は広智様といい、とても人材育成に優れた方でした。近くの三毳山周辺は古くから綿花の栽培が盛んで、裕福な方が多く住んでおり、そのうち東山道の三鴨駅長を務めた壬生首麻呂(みぶのおびとまろ)という人が信仰篤く、大慈寺に金堂(本堂)を寄進して、広智様と親交を深めます。やがて、壬生氏に次男が誕生した際、広智様は「大きく成長されたら大慈寺で修行を積ませたらどうか」と提案し、壬生氏も快諾します。
 残念ながら、壬生氏は若くして亡くなりますがその約束は守られ、次男が9歳に成長したところで大慈寺の門をくぐります。この男子こそ、慈覚大師円仁様です。」

境内の一角には慈覚大師の剃髪に使用する水を汲んだといわれる「御霊水の井戸」が残っています。1200年経った現在でも飲むことができます。
円仁様は向学心旺盛なことで有名ですが、その片鱗は大慈寺に入られてすぐに現れます。

「平安時代の大慈寺は七堂伽藍を備えた寺でした。ある夜、小僧さんが経典を保管する経堂の前を通りかかったところ、行灯(あんどん)の油を舐める化け猫を見たと仲間に話します。真偽を確かめようと大勢で駆けつけると、堂内では円仁様が熱心に経典を読まれていたそうです。寝る間も惜しんで勉強されたわけです。円仁様は頭をかきながら仲間に驚かせたことを謝ったかもしれませんね。この時、円仁様は観音経の教えに出合い、生涯の信仰にしようと決心されました。」
「円仁様が15歳に成長すると吉夢を見ます。清らかで清々しい僧侶が現れ、円仁様が「どなたですか?」と問いかけると、別の方向から「比叡山におられる最澄様ですよ」と声が聞こえたそうです。翌朝、円仁様から夢の話を聞いた広智様は、自分が教えることはもうなく、最澄様と円仁様のご縁を悟ります。そして、二人で東海道を歩き、比叡山に向かいます。
比叡山で最澄様と対面した円仁様は、夢で見た僧侶が目前に居て驚きます。さらに「こちらが最澄様です」と引きあわせてくれた弟子の円澄様の声が、夢で聞いた声と同じであることから自分が正しい選択したと確信します。付き添いだったはずの広智様も最澄様の魅力に惹かれ、円仁様だけではなく自らもお弟子にしてくださいと願い出たそうです。」
 「最澄様は円仁様を受け入れ、広智様には翌年来山するよう伝えます。お言葉に従って広智様が再び訪れると、最澄様は過去8人にしか伝えなかった密教の奥義「三部三昧耶印信(さんぶさまやのいんしん)」を授けたそうです。

「大慈寺に戻った広智様は、天台宗の教えを広めます。弘仁8年(817)に最澄様は円澄様、円仁様などの弟子を連れて東国布教に出ます。大慈寺にも逗留され、最澄様の教えを聞きに2万人が足を運んだそうです。恐らく、円仁様は故郷の人々に対してあれこれと采配したのではないでしょうか。」

「最澄様が亡き後、円仁様は35歳で比叡山を降り、法隆寺、四天王寺で天台宗の教えを講義した後、北狄(ほくてき)へ向かいます。北狄はどこを指すのか不明ですが、天長7年(830)に出羽国(山形・秋田県)で大地震があったとされておりますので、被害に合われた方々を見舞うために恐らく東北地方を訪れたのではないかと思われます。その後、しばらくは伝記でも不明な時期になりますが、大慈寺の寺伝では広智様の後に円仁様が戻られて住職を務めたという記録があります。」

「時代は下り、戦国時代になると小田原の北条氏が下野を侵攻します。地元の佐野氏との戦いに巻き込まれ、七堂伽藍は全焼。最澄様が広智様に授けた寺宝「文尺(もんじゃく)」をはじめ、貴重な品々を尽く焼失します。江戸時代に復興しますが、弘化2年(1845)の不審火で再び灰燼(かいじん)に帰し、ようやく本堂が再建されたのは平成29年(2017)です。」

「大慈寺の歴史を示す証拠としては、寺の名前が刻まれた布目瓦があります。専門家によると、奈良・平安時代のものだそうです。」

同じものを最澄様が目にしたかと思うと大変な感動を覚えます。

また、円仁様が唐から持ち帰ったと伝わる金属製の手香炉も残されています。寒い時に懐に入れて手を温めたようです。行基菩薩が刻んだと伝わる御本尊と、慈覚大師堂の円仁様像は戦時や火災から僧侶が命懸けで持ち出したと伝わっています。」
手香炉にも触れさせていただき、時代を超えて円仁様と直接交流させてもらったような気持ちになりました。
本堂の御本尊に合掌後、慈覚大師堂へ向かいます。

大師堂

本堂東側の奥に大師堂がありました。一般向けに扉が開かれるのは元旦のみですが、特別に堂内を見学させていただきます。

「正面に鎮座する円仁様の尊像は、円仁様が自ら刻んだそうです。首近くの傷は火事で持ち出した際についたと思われます。円仁様ゆかりの比叡山横川(よかわ)中堂と同様に、脇には不動明王、毘沙門天を祀り、本来中央におられる聖観音菩薩を、円仁様の尊像前に安置しています。聖観音菩薩は佐野市の伝統工芸である天明鋳物でできています。」
 郷土史研究家の永島正夫さんは、貴重な写真とともに堂内を説明してくださいました。
「建物は江戸時代以降に建てられたもので、天井は格天井になっています。護摩を焚かれるので少し分かりづらいですが、狩野派の絵師が花鳥風月の絵を描いています。」

相輪橖

慈覚大師堂から一段高い場所に相輪橖(そうりんとう)がそびえ立っています。伝教大師最澄様は国家安泰と仏法興隆を願い、1000部の法華経を納めた宝塔を全国6か所に建てる計画を立案します。ここ大慈寺の相輪橖はその「六所宝塔」のひとつなのです。

「最澄様の生前に完成した六所宝塔は、下野国の緑野寺(浄法寺)と大慈寺の2寺だけでした。残念ながら、大慈寺の相輪橖は戦火で焼失し、江戸時代に再建されました。再建された橖は、慈覚大師堂の聖観音菩薩像と同じ天明鋳物で作られ、いくつもの輪を重ねてあります。
 橖の中央には日光山輪王寺宮の揮毫で「南無妙法蓮華経」と書かれ、その上には比叡山西塔と同じ最澄様のお言葉が書かれています。古くから、<息を止めて片足で相輪橖を7周半すると馬の顔が見える>という伝説がありまして、子供のころは何度も挑戦したものです。」

現在は相輪橖の周りを1周1唱しながら3周半する、という方法を参拝される皆様にお勧めしているそうです。

奥の院

続いて、本堂の裏手にある黒石山を登り、奥の院を目指します。登山道はよく整備されて歩きやすく、途中に観音堂もあります。10分ほど登るとスギの人工林から広葉樹に代わり、軽い岩場が待っています。登り詰めると奥の院(宝篋印塔)に到着です。

「宝篋印塔は享保21年(1736)に建てられたもので開山塔といいます。重い塔を下から担いで登ったのですから凄いですよね。この岩場で円仁様が坐禅を組んだという伝説があり、坐禅石と命名されました。」

下山途中、円仁様の日記を研究された駐日アメリカ大使のライシャワー氏の記念碑に立ち寄り、小野小町の墓も遠望しました。

「晩年、小野小町は病気を患い大慈寺のお薬師様に助けを求めます。ところが、なかなか叶えてくれず、小野小町はお布施が足りないと考えました。お金がないので、『南無薬師衆病悉除の願立てて 身より仏の名こそおしけれ』と和歌を奉納したところ、お薬師様は『むら雨は唯一通り降るものを おのが身のかさそこにぬぎおけ』と御返歌をくださいます。境内にもこの歌碑がありますので、ぜひ見ていってください。その後、小野小町は元気になるのですが、最後は身投げてして亡くなります。亡くなった場所には現在「身投げ堂」が立っています。村人たちが手厚く弔うと、小町の遺髪が小野寺地区の特産品のい草になったという言い伝えが残っています。」

最後に円仁様ゆかりの井戸水をいただきました。口当たりの柔らかな水で、乾いた喉がたちまちに潤いました。
 
このきれいで美味しい水が地域の方々が愛するお蕎麦を作っているのだと納得しました。過去のお寺巡りでも、いい水があるところでは美味しいお蕎麦をいただけた、ということが思い出されました。

参加大学生の感想

円仁さんに関しては、ある程度勉強してきたつもりでしたが、ご住職のお話に出てくる円仁さんの逸話は初めてのものばかりで興味深く拝聴しました。特に最澄さんの元に行くきっかけが円仁さんの夢に出てきたから、という部分に人と人とのつながりの不思議さと縁を感じることができました。

また、慈覚大師のご生誕の地であり、伝教大師も宝塔を建立された、天台宗にとっても重要なお寺であることを知りました。延暦寺の横川は慈覚大師が開かれた場所であり、その中心の横川中堂には観音さまが祀られています。修行の際に観音経を見つけられたことから慈覚大師の観音信仰が始まったそうです。大慈寺は横川と同じように聖観音菩薩が中央に祀られています。慈悲の心の原点は大慈寺にあり、理想をもとに広く全国でその心を実践されたのではないかと思いを巡らせました。

お寺の境内だけでなく地域全体に慈覚大師をはじめとする平安時代に生きた人々の痕跡が残されていることに驚きました。本堂の前には1200年前の井戸がいまなお残り、地域には慈覚大師が産湯に浸かったとされる場所が言い伝えられているそうです。また、今回見せていただいた布目瓦や香炉など、1000年以上昔に生きた人々の痕跡が今日まで伝わることは簡単なことではないと思います。地域の方々の熱い思いを感じることができました。

印象に残ったのは、ご案内いただいた皆さんが、地域の歴史や偉人に誇りを持っていらっしゃるという点です。伝教大師最澄や慈覚大師円仁ゆかりの地であるという歴史は、大慈寺のみならず地域の自慢なのではないかと感じました。皆さんが熱意を持って話してくださるので、初めてこの地を訪れた私も、この地域のことがとても好きになりました。
地域の歴史をどう伝えていくか、また活かしていくかは、日本の他の多くの地域でも抱える課題でもあると思いますが、それには「地域への愛着心」が大切なのではないでしょうか。私たちの取材を通して、こういった地域を愛する方々の心も伝えられたらと思います。
大慈寺

〒329-4314
栃木県栃木市岩舟町小野寺2247