伝教大師巡錫の聖地「浄法寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

伝教大師巡錫の聖地「浄法寺」を訪ねる

2022年7月2日 訪問
廣厳山般若浄土院浄法寺は、伝教大師最澄が弘仁8年(817年)から始められた東国巡錫で、3ヶ月ほど逗留された群馬県最古の寺院です。境内には東国巡錫の旅姿とされる高さ1丈4尺5寸の伝教大師金色尊像が建立され、天台宗群馬教区「宗祖伝教大師一千二百年大遠忌奉賛」のポスターにも使われています。

浄法寺のご住職、緑野智彦師にお話を伺いました。

伝教大師金色尊像

「伝教大師様は50歳を越えてから東国巡錫に出られます。現代のように飛行機も新幹線も自動車もありませんから、移動手段は歩きです。平安時代の50代ですから体力的にもきつく、命がけの覚悟だったでしょうね。右手には錫杖でなく、歩行を補助する弾力性のある若木の杖。左手は法華経を収めた包みを持ち、その上には念持仏のお薬師さまを入れた巾着があります。足元も草鞋ではなく、遣唐使時代に唐から持ち帰った履き物を履いています」
尊像は平成2年(1990年)に群馬教区の256寺が比叡山開創1200年記念に建立を発案し、京都・三十三間堂の十一面千手観音菩薩像を修復された仏師の西村公朝師が制作しました。西村師は境内全体を極楽浄土に見立てて場所を決め、伝教大師像の前にある左右の石は梵天と帝釈天を表すなど、1つ1つに意味があるそうです。

我々にとって〝伝教大師様は光り輝く存在〟ということから、令和3年に化粧直しされ、金色の輝きを取り戻しました。

本堂
文化元年(1804)建造

「この寺は聖徳太子草創と伝わり、嵯峨天皇から緑野(みどの)一郡を寺領に賜ったことから、最初は緑野寺と呼ばれました。その後、下野国(現・栃木県)の薬師寺に戒壇(戒を授ける道場)を設ける際の責任者として鑑真の高弟・道忠禅師が東国に下ります。道忠禅師は任務を終えた後も東国に残り、この寺のほか、栃木県岩舟町の大慈寺、埼玉県ときがわ町の慈光寺などの発展に尽力されます。とくに緑野寺は鑑真がもたらした貴重な経典の写しがある寺として知られ、天皇が関東一円の国司(現在の知事)に対して書写を指示したり、真言宗の開祖・空海が書写を願い出たりしています」
「道忠禅師は伝教大師様とも親交が深かったようです。比叡山の開山後、伝教大師様は布教に必要な一切経の書写を奈良の七大寺や知人に依頼します。その数は五千巻ですが、その求めに応じたのが道忠禅師で、二千巻の書写を送り届けました。当時の和紙は高級品。しかも、人の手で一字一字、書き写すのですから大変な財力と労力が必要です。伝教大師様も喜ばれたでしょうし、そのご縁から東国巡錫の際に立ち寄られたと思います。緑野寺は、伝教大師様をお迎えするに当たり、法華経一千部八千巻の書写を完成させました」

伝教大師は緑野寺を東国布教の拠点として、地元の人々に法華経の教えを説かれます。
〝人は誰でも仏になれる可能性がある〟という教えに心を揺さぶれた人々は、その感動を口伝えで広めていきます。法話を求める人々は後を絶たず、なんと3ヶ月間で9万人が集まったそうです。当時の上野国(現・群馬県)の人口は10万人未満ですから、その数の凄さが分かります。

御本尊「阿弥陀如来」

まさに全盛期を迎えた緑野寺ですが、戦国時代になると苦難の時代に入ります。天文21年(1552年)、小田原北条氏が関東管領上杉氏の領地に攻め込み、戦火で堂塔伽藍や貴重な経典をすべて焼失するのです。寺領も北条氏に没収されました。
「焼失から4年後、本堂再建の許可こそ得ましたが、すでに寺領はなく資金などありません。すると、地元の方々が柱や板などを持ち寄り、ようやく仮本堂が建てられました。伝教大師様ゆかりの寺をこのままには出来ないという熱い想いがあったのでしょうね」

その後、約250年を経た文化元年(1804年)に現在の本堂が完成します。棟梁は江戸時代の名工・八田清兵衛。東京・谷中の天王寺五重塔を建てたことで知られ、幸田露伴の小説『五重塔』の大工十兵衛のモデルと言われています。御本尊の阿弥陀如来はこの時にお迎えしています。このほか、内陣には南北朝時代作と推定される無垢材の聖観音菩薩、聖徳太子像が鎮座。外陣には歴代住職が乗られた駕籠も保管されています。

続いて境内をご案内いただきます。

伝教大師御廟堂
伝教大師の木像が安置されており、50年に一度開帳されます。

境内には伝教大師御廟堂、伝教大師護摩修行跡、八功徳池などが大切に残されています。なかでも注目は相輪橖です。相輪橖は五重塔や多宝塔などの一番上にある最も重要な部分「相輪」だけを塔のように建てたものです。
藤岡市指定重要文化財「相輪橖」

「伝教大師様は比叡山と日本の東西南北に法華経一千部八千巻を収めた六所宝塔を立てられ、地域の人々の平穏無事や五穀豊穣を祈られました。この相輪橖は日本の東の役割を担い、弘仁8年(817)に建てられました。全国6ヶ所の宝塔の中で、伝教大師様がご存命のうちに完成したのは浄法寺と大慈寺(栃木県)の2つだけです」

現在の相輪橖は青銅製で高さは5.3m。寛文12年(1672)に改造され、文政12年(1829)に補修されました。表面には細かな文字で寄進者の名前が刻んであり、地域の人々の〝お守りしたい〟という想いが感じられます。

八功徳池

この日の気温は38度。とても暑い日ではありましたが、本堂の客間にご案内いただくと風が通ってとても涼しく感じました。
「伝教大師様がこの地で結ばれた方々とのご縁は、今も続いていると考えています。このお寺に初めて来られた方も、ご先祖が伝教大師様の法話を聞かれていたら、すでにご縁は結ばれているのですから。学生のみなさんも同じです。また近くにいらしたら、気軽にお茶でも飲みに寄ってください」
 
自分たちの誇りでもあるお寺を支えたいという地域の方々の熱い思いが伝わり、お寺と地域が紡いできた歴史を感じることができる訪問でした。


参加大学生の感想

ご住職が「およそ1200年前、みなさんのご先祖様が伝教大師のお話を聞くために浄法寺を訪問したかもしれません。そして長い歴史を越えて、みなさんが再び浄法寺とご縁を結ばれた。」と話されていました。自分自身の先祖が浄法寺を訪問したかを確認する方法はありません。しかしながら、1200年もの長い時間、浄法寺を守り伝えようとした人々の存在があり、その人々の中に自分達の先祖が含まれているかもしれないと思うと、自分自身も長大な人類の歴史を構成している一部分なのだと強く感じました。

普段の日常生活の中で先祖の存在を感じることは難しいですが、地域の学生がお寺で受験勉強をしていたというお話や、黒くすすけている天井は疎開中の人々の煮炊きした後という話を聞いてその土地の日常の歴史を感じました。
自身の先祖や、浄法寺の周りの地域の人々の歴史や存在を強く感じる事ができる温かいお寺でした。

浄法寺
〒370-1406 群馬県藤岡市浄法寺甲1094