西国三十三所の一つ「播州清水寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

西国三十三所の一つ「播州清水寺」を訪ねる

2022年4月23日 訪問
 伝統とモダンという相反するイメージを見事に融合して、多くの参拝者が訪れる古刹があります。それが兵庫県加東市にある「播州清水寺」です。西国三十三箇所めぐり第25番の札堂として、観音信仰の拠点としてもさることながら、境内にドックランを設置したり、インスタ映えのスポットとなっている「引退ポスト」に若者が押し掛けるなど、進取の気性にあふれたお寺です。
 その開基は、約1800年前に天竺(インド)から紫雲に乗って来られた法道仙人が、境内のある御嶽山の地にやって来られたことに始まるとされます。
推古天皇35年(627年)に推古天皇の勅願により根本中堂が建立されますが、ご本尊の秘仏である十一面観音と脇侍の毘沙門天王に加え吉祥天女もまた法道仙人が一刀三礼で造られたとされています。
 また、観音信仰の霊場としては聖武天皇の勅願により行基菩薩が清水寺を参詣し、ご本尊の千手観音坐像のみならず、脇侍の地蔵菩薩と毘沙門天を彫り大講堂を建立したことで、広く参拝者が訪れるようになったといいます。
根本中堂と大講堂の2つの本堂が並存しているのは、推古天皇と聖武天皇による勅願があったからこそ。高貴な方から庶民まで実に篤い信仰を集めていたことが、その縁起からもうかがいしれます。ご住職の清水谷善英師に境内を案内していただきました。
 「こちらの根本中堂は、大講堂から80段の石段を上ったところにございます。皆さんは延暦寺の根本中堂にもいかれているかもしれませんが、特徴としては内陣の構造にあります。内陣が外陣に比べ、高さが低くなっていて、参拝の際には、ご本尊の仏様と同じ高さになるようになっています。外陣と内陣を隔てるのは深い谷に例えられます。信仰とは、深い谷を勉強による精進で泳いで渡っていくことができれば、最終的には仏様と同じところに行けると伝教大師さまの教えにあります。この天台伽藍の根本中堂は、そうした伝教大師さまが教えられた悟りへの道筋をお示しになられているという意味でも非常に重要なお堂であるといえるでしょうね。

 根本中堂や大講堂といった主要な堂塔は大正2年(1913年)に全焼してしまい、今の建物は大正6年(1917年)に再建されたものです。明治から大正にかけては、苦難の時期でした。江戸時代から明治政府になりますと神仏分離の政策で、寺領はみんな政府に二束三文で取り上げられ、土地を失ってしまいました。お寺の境内や寺領には山林も含まれます。そうなると、地域の住民が、飯炊きに使う薪ひとつとることもできなくなります。そこで困り果てた住民の方々と一緒に政府を相手取って行政訴訟を起こしたほどでした。
 当時、私の先々代は、東京で学生生活を送っていました。しかし、仕送りはなく書生さんという形で、お金持ちの家に居候して勉学に励みました。場所は「セメント王」と言われました浅野総一郎さんのお屋敷。そこで衣食住をお世話になって、東洋大学の前身である哲学館で学び僧侶の道に進みました。
かくいう私は、お寺の跡継ぎの方が通う大正大学へすすみました。しかし、児童研究部に入ったので生活が一変。児童と遊んだりお話したりと、子供の遊び相手に明け暮れました。
天台宗の叡山学院に入ったのですが、あまり勉強についていけず、社会福祉の方に移籍しまして、6年ほど、神奈川県立の秦野精華園という知的障害者の施設で働きました。あまり優秀なお坊さんではなかったかもしれませんね(笑)」

「文化財を維持するというのは非常に難しいことです。例えば、境内に入るときに朱塗りの仁王門があったと思います。以前は旧参道の頂上の位置にあったようですが昭和40年(1965)の台風で全壊。昭和55年(1980)に、現在の場所に新築再建されました。金剛力士像は、奈良の仏師である菅原大三郎師の作です。大正10年(1921年)に完成しました。 
菅原大三郎という方は明治時代に、岡倉天心の日本美術院の活動に共鳴して全国を回って多くの仏像の修復を手がけた方です。とても不思議なご縁もありまして、この金剛力士像が先にお話しした台風にあって仁王門が壊れた際に、大きな損傷に見舞われます。そこで修復していただいたのが、東京芸大名誉教授の菅原安男先生。菅原大三郎のご子息に当たる方でした。昭和53年(1978年)のことです」
「実は根本中堂や大講堂も大正2年の火災で焼失してしまいました。この時に、境内の主要な堂塔の設計を手掛けたのが、京都大学教授も務めた建築家の武田五一先生です。武田先生は「関西建築界の父」と言われるほど近代化著しい京都を中心に、アールヌーヴォーやセセッションなどを日本に紹介し、そのモダンな建築は今でも高く評価されています。代表作としては、同志社女子大学のジェームズ館や旧京都市庁舎などが挙げられますが、播州清水寺の設計に際しては、日本の和風建築にも造詣が深かったことから、あくまで伝統的な建築様式に則った調和の取れたデザインにされました。今も武田五一先生の建築に魅了される人々が訪れるほどのスポットにもなっているだけでなく、時間の経過とともに新たなる伝統文化を再構築するようなランドスケープに魅力を感じる人も少なくないでしょう。」

「武田五一先生は、境内の主要な堂塔の設計に当たって、この御嶽山にある木を木材として使うことを提案されました。というのもこの寺周辺の木を木材換算すると当時のお金で50億円にもなると概算されたそうで、山は国との裁判もあり、荒れ放題。その価値に目をつけたそうなんです。しかし一気に木を伐採してしまうと、山が廃れてしまうということで周囲との環境との兼ね合いを考えながら、山の杉を使って、境内のお堂を建設致しました。大工の棟梁は名古屋の伊藤平左衛門という方をお呼びした。現在は根本中堂と大講堂、鐘楼など五棟を含め国の登録文化財に指定されております。

十一面観音像(根本中堂の御本尊)
秘仏であり、30年に一度の御開帳となる。

 根本中堂の宮殿に納められているのが御本尊の十一面観音像です。こちらは秘仏となっていて30年に一度のご開帳となっていて加東市の文化財に指定されています。秘仏ですので作者は全部不明です。今は写真を公開していますので、お像の姿を思い浮かべ参拝することができるようになっています。

銅造菩薩立像(兵庫県指定重要有形文化財)

そしてあまり大きくないお像ですが、県の重要有形文化財に指定されていますのが「銅像菩薩立像」です。昭和5年(1930年)に境内から発見されました。当時は境内で野菜なんかも作っていましたから、先代が大学時代、夏休みでお寺に戻ってきて野良作業をしていたときに、この仏様を見つけたそうです。金銅仏の研究者に見て頂くと、白鳳仏であることが判明しました。ただ、台座と本体が違っていて、おそらく台座は後年にくっつけたのではないかと見られています。いずれにしても白鳳時代の仏様がこの境内から見つかったということは古くからこの地に、信仰が根付いていたとの証なのではないでしょうか。

この白鳳仏の横に祀られているのは、この町には大きなメーカーの工場があってその敷地から発見された仏様です。実はこの工場が新築の時に、工場長の方が見回りをしていた際、何か土の中から光るものがあると発見し、掘り出したのがこの仏様でした。この当時、菅原安男先生が東京芸大におられたというご縁で東京の国立博物館に調査していただいたところ、善光寺仏だとわかりました。かつて善光寺では、浄財を集めるために、大勢の人が仏壇に仏像を入れ背中に背負って、浄財をいただく時に参拝してもらうのが、この善光寺仏でした。
 ただこの播磨の地で掘り出されたと言っても、工場の敷地の土は元々埋立てられて造成されていますから、どこの土だったかはわかりません。でもこの工場長は定年退職後に、何かしようと思った時に真っ先に思いついたのが、この仏様を納めるお厨子を作ろうと自作でノミを使ってお厨子を作りました。これが今この仏様が祀られているお厨子です。結果的にノミの扱いを覚えてからは色々な仏様も彫るようになったそうです。こうしたご縁があるのも非常に興味深いことですね。」

薬師堂へご案内いただきました

 昭和59年(1984年)に再建された薬師堂も多くの人で賑わいます。その創建は平清盛の義母「池の禅尼」が建立したと伝えられますが、平成13年(2001年)に奈良県のマスコットキャラ「せんとくん」の作者でもある東京芸術大学の薮内佐斗司教授に十二神将の制作を依頼し安置したことで、写真スポットとしても脚光を浴びていると言います。

「薮内先生とのご縁はちょっとしたことでした。テレビ番組で先生の作品を見て、咄嗟に再建されたばかりの薬師堂のご本尊をお護りする十二神将の制作をお願いしました。かなり図々しいお話ですが、私が菅原先生を通じて東京芸大とご縁があったので、快く引き受けていただいた。薮内先生は江戸時代の十二神将の写真を見てイメージが湧き、12躯を一度にお支払い出来ないので、時間をかけて3体ずつ制作していただきました。薮内先生にお任せしましたが、これまで見たこともない素晴らしい十二神将になったと思っております。」

大講堂へご案内いただきました

もうひとつの本堂にあたる大講堂には、御本尊の聖観音菩薩像が祀られています。西国霊場三十三番のうちの25番の札所として、常に多くの人が参詣しています。庶民からの信仰が篤い観音信仰について、ご住職の清水谷師は次のように話されます。
「ここは、西国霊場三十三番のうちの25番の札所でございます。こちらの御本尊の観音様は見えるようにしています。三十三霊場の観音様をお参りされる方は、お厨子の扉も閉まっていてお前立ちもないのでは信仰としてはやはり心許ないでしょう。そこでご参拝の際には観音様のお顔を一生懸命よく見ていただいて、それを心に映して信仰してくださいという願いを込めて、お扉を閉めるのをやめて開けっ放しにしています。

聖観音菩薩像

両脇にいらっしゃるのが、地蔵菩薩と毘沙門天です。普通、天台宗ならば、左側は不動明王が一般的ですが、地蔵菩薩がいるのはこの地が地蔵菩薩信仰の聖地だったと今昔物語集にも出てきます。そんな名残かは知りませんけれども、何か昔から左がお地蔵さんになっております。この地域独特のお祀りの仕方です。
 

観音経というのは、庶民にとっても非常にありがたいお経です。
法華経28巻の中の25章目が観音経に当たります。観音経は構成的には、前半部分の前半の長行(韻文でなく散文で書かれた部分)後半部分の偈文(五字の韻文)に分かれております。
その中で「念彼観音力(ねんびーかんのんりき)」という韻文が繰り返し出てまいります。その意味は観音様を信じることで助かりますよということです。一番すごい功徳としては「刀尋段段壊(とうじんだんだんねー)」と言いまして、殿様から死罪をいいつけられて首切り役人の刀で斬りつけられようとしたときに、観音を念じると、刀がバラバラに折れてしまって、自らの身は護れると言います。ちょっと誇張して書いてありますけど、それほどのご利益にあやかれるということを表現しています。
 
観音経には『種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅』という文章もあります。 老いや病気死といった苦悩も、老いたくない、健康でいたい、死にたくないという苦悩からどうしたら脱却できるか。それを考えてお釈迦様は出家なさったそうです。そのお釈迦さまの教えを一番簡潔に伝えているのが観音経の後半部分にあたる五偈文ではないかと私は思っています。我々にとっては実に慈悲深い存在が観音様です。ですから一生懸命拝みましょうというお経の結論でございますけども、妙法蓮華経は全体を通して文章も長大で哲学的なことや色々なこと書いてあるんですけども、我々には観音経が一番理解しやすいのではないかと思っているわけでございます。機会があれば是非一度目を通してもらえればいいのではないでしょうか。」

広大な境内に清水寺の開基に由来する滾浄水「おかげの井戸」から近代以降の寺院建築まで案内していただき、学生たちも目を輝かせていた光景が再三見受けられました。古い文化財と伽藍の見学とはまた一味違う新たなお寺の魅力を発見したのではないでしょうか。

学生たちの感想

播州清水寺は、播磨一帯の山岳寺院にその名を遺す法道仙人の開基とされ、「清水寺」と名付けられたのは、清水寺 のある土地は水が乏しかったため、法道仙人が水神に祈ったところ、霊泉が湧出したからだとされています。その 霊泉は清水寺に現在も存在し、「おかげの井戸」と呼ばれています。山岳信仰と水との関係を象徴するエピソードといえるのではないでしょうか。
清水寺のある加東市には義経・弁慶にまつわる伝説があり、清水寺には、「弁慶の碁盤」と称するものが伝えられています。弁慶が書写山にいた頃、清水寺に 訪問し、住職と碁を打って負けたため、腹を立てて黒い石をねじ込んだそうです。その真偽は別として、義経・弁慶にまつわる伝説が、全国各地の天台宗寺院に残っています。もしかすると、各地の山岳信仰と融合することで、全国にそのネットワークを拡大させた天台宗の歴史が、弁慶のストーリーに反映されているのかもしれません。
薬師堂には、「せんとくん」の作者でもある東京芸大・藪内佐斗司教授作の十二神将が安置されていました 。十二支をモチーフにした十二神将は、なかなか斬新なもので、インパクトに残りました。清水寺には、ドッグランも設けられており、幅広い世代の人が寺に参拝されていました。 たくさんの人たちに寺に親しんでほしいという清水寺の工夫を感じ取ることができました。
播州清水寺
〒673-1402 兵庫県加東市平木1194