平安時代の姿を残す浄土庭園を望む「毛越寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

平安時代の姿を残す浄土庭園を望む「毛越寺」を訪ねる

2022年5月29日 訪問
毛越寺は嘉祥3年(850)、平安時代の初期、慈覚大師円仁によって開かれたお寺です。平成23年(2011)に「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」の一角として、ユネスコの世界文化遺産に登録され、平安時代そのままの姿を残す「浄土庭園」は四季折々の美しい風景で参拝に訪れる人々を魅了しています。

本堂
平成元年(1989)の建築。

毛越寺、千葉秀覚執事長のご案内で、平安文化をいまに伝えるお堂や浄土庭園をご紹介いただきました。

「「毛越寺」という名前ですが、初見で「もうつうじ」と読むのはなかなか難しいと思います。通常、音読みだと「もうえつじ」とか「もうおつじ」、訓読みだと「けごしでら」などと読んでしまいます。なぜ「もうつうじ」と読むのか。もとは「もうえつじ」か「もうおつじ」だったのが、次第に言葉のひとつの音(おん)が取れてきまして「もうつじ」となりまして、「つ」が伸ばされて「もうつうじ」となったといわれています。」
毛越寺の開祖、慈覚大師円仁は日本天台宗第三代の御座主となられた高僧で、東北地方をめぐり、毛越寺のほかにも各地にお寺を創建しました。
「一説によりますと慈覚大師様によって創建されたお寺は100ヵ寺以上といわれておりましたが、現在まで残っているお寺はそれほど多くありません。毛越寺からほど近い中尊寺も慈覚大師様によって毛越寺創建同年に開かれました。その後、徐々にお寺は廃れていきましたが、慈覚大師様から下ること250年くらいしましてから奥州藤原氏が平泉を治め、中尊寺は初代の藤原清衡公によって大きく再建をされました。毛越寺は藤原氏二代目の基衡公から三代目の秀衡公にかけて、大きく再建され、そのときにこの広いお庭が造営され、堂塔伽藍が建てられました。

鎌倉幕府の公文書である「吾妻鏡」には源頼朝公が平泉に凱旋した折、毛越寺を参拝されたときに大金堂円隆寺をご覧になって「わが朝無双の荘厳なり」と話したと記されています。わが朝、つまり、「わが国」ということですね。無双は「二つとない」。つまり、「わが国に二つとない荘厳のお寺だ」といわれたというくらい、金銀をちりばめ、紫檀や赤木でつくられた大変豪華な大金堂円隆寺が存在していたわけです。
ところが大金堂円隆寺をはじめとする伽藍は、鎌倉時代の前半期、嘉禄2年(1226)、に大きな火災によって失われました。さらに戦国時代、元亀4年(1573)、に今度は戦によって焼失。この地を治めていた葛西氏と大崎氏の戦によって残っていた橋や南大門が失われ、さらにはたったひとつ残っていたお堂も慶長2年(1597)に失われてしまいました。江戸時代に入る前に平安当時の伽藍はすっかりなくなってしまったのです。」

明治32年(1899)に今の場所に新しく本堂が建てられ、その後、古くなったため平成元年(1989)、に現在の本堂が建てられました。本堂の内陣にはご本尊は薬師如来、脇士は日光菩薩と月光両菩薩、本尊守護の四天王が安置されています。

薬師瑠璃光如来(御本尊)
(岩手県の重要文化財)

「御本尊の「薬師瑠璃光如来」(岩手県の重要文化財)は病気平癒、身体健康、無病息災には特に功徳がある仏様と一般には信仰されています。現世利益の仏様で、人々の願い、悩み、苦しみを解決し、癒やし、そして導いてくださいます。
左手の手のひらの上にある薬壺(やっこ・くすりつぼ)には生きとし生けるものの、あらゆる病を治すお薬が入っているといわれています。平安時代後期の仏像特有の非常に穏やかなお顔立ちをされていますよね。
お堂は焼失してしまいますが、仏像はたまたま焼失を免れたのか、あるいは、ほかのお堂にあったのかは定かではございませんが無事でございました。

「本堂は平安様式で、あまりお寺では見ない柱の色をしていると感じるのではないでしょうか。神社ではよくありますが、この色は「丹塗り(にぬり)」といいます。鉛と膠(にかわ)と酸化鉄を混ぜてつくった色です。欄間は蓮の花に似た「宝相華(ほうそうげ)」という花をあつらえた唐草模様で、中近東のシリアのあたり発祥のヘレニズム文化が起原とされ、シルクロードを通って中国に入ってきて、平安時代に日本に伝わったといわれています。また内陣の天井には蓮華の花を描いております。こういったものが平安様式の主な特徴です。」

本堂の内陣のある隣の間には、金色のお地蔵様が安置されています。平成23年(2011)の東日本大震災の津波で大きな被害にあった陸前高田市の高田松原海岸の松の流木から造られた仏様です。

「石川昇明(しょうみょう)さんという仏師の作で、全部で17体つくったうちの16体は陸前高田市内のお寺さんに寄贈され、残りの1体を毛越寺に寄贈いただきました。松の木は節々が多く、ヤニがあって、しかも海水に一度浸かったものなので製作には大変ご苦労なさったとは思いますが、亡くなられた多くの方々を供養したいという思いからつくられたお地蔵様です。全国から観光客が多くいらっしゃいます毛越寺において多くの方々に供養していただきたいということで寄贈されたのだと思います。毛越寺では東日本大震災の慰霊碑も建立しております。」

毛越寺には平安時代の「延年の舞」という重要無形民俗文化財が残っております。「延年」とは迦齢延年、寿命を延ばすということで、平安時代から鎌倉時代にかけて大きな寺社では法要や神事の後の法楽として行われてきました。いま全国で「延年の舞」が残っているところは数えるだけとなっています。

「延年の舞は、口伝で伝わっているというのが貴重なところです。師匠から弟子へと代々受け継がれ、現在も舞われております。
毛越寺では1月20日の二十日夜祭(はつかやさい)、大寒の日ですけども、午後4時ごろから慈覚大師様伝承の常行三昧供(じょうぎょうざんまいく)という修法を行います。その後に蘇民祭があり、その後に堂内で「延年の舞」が奉納されます。
装束をまとった上に面をかぶったり、かつらをつけたり、装束をまとったりして、夜中の12時頃まで行われます。」

-浄土庭園をご案内いただきました

「浄土庭園は平安時代からほぼ完存しているということで、昭和27年(1952)に国から特別史跡に指定されました。それから、昭和34年(1959)には特別名勝に指定されました。そのように特別史跡、特別名勝の二重指定は全国でわずか9カ所しかございません。例えば、東京都では小石川後楽園、浜離宮庭園、京都では金閣寺、銀閣寺、醍醐寺三宝院庭園、広島県の厳島神社、福井県の一乗谷朝倉氏遺跡などですね。

浄土庭園の「浄土」とは「浄仏国土」の略です。清らかな国土を表した庭園ということですが、日本では浄土庭園が完存しているところはほとんどありません。毛越寺では仙台藩によって、焼失した跡でも保護する政策が取られ、そのおかげで浄土庭園は完存して今に引き継がれています。

また、境内には松や杉などたくさんの大きな木が生えていることに気づかれると思います。これはほとんど仙台藩の時代に植えられたもので、樹齢が300年ほどたっているものも多くあります。江戸時代は年貢の徴収が大変厳しく、天明の大飢饉では東北地方でかなりの餓死者を出しました。そのような時代に土地があると田畑にしようとするわけですが、仙台藩の政策でたくさんの木を植えました。そうすることで田畑にされないように浄土庭園を守ったのではないかといわれています。」

浄土庭園は、寝殿造り庭園が発展したものです。門を入ってすぐ池があり、池には橋がかかり、橋を渡った対岸に寝殿にかわる仏教寺院が立ち並ぶ配置になっています。

また浄土庭園は、大自然を縮景した様子で表現します。例えば、庭園の背景にある塔山を山脈に見立てると、山脈に雨が降るとやがては雨水が集まりまして川ができます。川の上流部分では急流で細く、それが下流にいくにつれましてだんだん緩やかになっていき、平地になりますと川幅がひろがっていき、やがては海にたどり着きます。ですから、遣水は川を、大泉が池は海を表していると言えます。

また、ひとつの池の縁でいろいろな海岸線を表現しています。たとえば、荒磯風の海岸があり、その先端の方には「立石」という石があります。三陸海岸には「巨釜半造(おがまはんぞう)」という、巨岩がそびえ立つ海岸線があるんですが、まさにそういった海岸線を立石が表しています。
立石は東日本大震災によって8度ぐらい傾いてしまったのですが、1年間かけて修復いたしました。この立石があることによって庭園全体が引き締まって見える大事なものです。」

-開山堂をご案内いただきました。

「開山堂」は毛越寺を開山された慈覚大師を祀るお堂です。
「お堂には開山慈覚大師様の木像が安置されています。向かって左側にあるのが藤原三代公画像。よく歴史の教科書に出てきますが、あれは毛越寺の画像の写真です。上が清衡公、下が向かって右が基衡公、左が秀衡公です。ただしこれはレプリカで、本物は宝物館の収蔵庫にしまっております。」

-続いて常行堂をご案内いただきました。

本堂から見て、大泉が池の向正面にあるのが「常行堂」。慶長2年(1597)に焼失。現在の建物は享保17年(1732)に仙台藩によって再建されました。本尊は宝冠阿弥陀如来、両側に四菩薩が安置され、奥殿には秘仏で修法と堂の守護神の「摩多羅神(またらじん)」が祀られています。
「ご本尊の「宝冠阿弥陀如来」は江戸時代の仏像だといわれています。通常、阿弥陀様は螺髪なのですが、なぜか宝冠をかぶっていて、非常に珍しい形です。「摩多羅神」は33年に一度だけ御開帳しております。法要では扉を開けますが、御簾を垂らした状態で開けますので、お姿を見ることは叶いません。」

宝冠阿弥陀如来(常行堂の御本尊)

-毛越寺より少し離れた「高館義経堂」をご案内いただきました。

平泉といえば、源義経ゆかりの地としても知られており、毛越寺より少し行ったところに「高館義経堂(たかだてぎけいどう)」があります。高館(たかだち)は毛越寺から車で5分ほどのところにある北上川に面した丘陵で、毛越寺の飛地境内です。松尾芭蕉が「夏草や 兵どもが 夢の跡」という句を読んだ場所ともいわれ、毛越寺の境内には句碑が建てられています。

「ここで義経公が妻子とともに最期を遂げたといわれています。別の説では義経が幼少期を過ごした「衣川館(ころもかわのたち)」が最期の地であるともいわれています。」
慈覚大師が開き、奥州藤原氏や仙台藩によって護られた毛越寺。平安時代の姿をいまに残す浄土庭園や、口伝によって継承される延年の舞など、はるか昔の平安文化を間近に感じられた貴重な体験となりました。



大学生の感想

「最も印象に残ったのは「延年の舞」です。奥州藤原氏の滅亡後、伽藍も次第に荒廃していき、江戸時代には残っているお堂はほとんどなかった中で、この舞が人から人へと口伝で伝えられ、平安時代のまま残っているというところに感動しました。
毛越寺は平安時代の面影を強く残すとともに、奥州藤原氏や源義経、仙台藩主伊達家の想いを後世に繋いでいくお寺なのだと感じました。」

「庭園や延年の舞などが多くの人々の手によって守り伝えられてきていることを痛感しました。現在に生きる私たちがいにしえの文化に触れることができるのは、今につながる様々な時代に生きた先人たちが、どのような状況にあっても毛越寺に伝わる文化を護りぬき、未来へと残そう、伝えようと腐心したからだと思います。奥州藤原氏時代の毛越寺の規模に驚かされるだけでなく、たくさんの先人達が抱いた文化の伝承への情熱に圧倒されました。」

「毛越寺には当時の伽藍は残っていませんが、金鶏山や自然を借景に巧みに取り込んだ浄土庭園、礎石などの伽藍遺構、そして毛越寺の広大な境内は、『吾妻鏡』に、「霊場荘厳吾朝無双」と記述されるほどの、全盛期の伽藍の姿を物語っています。毛越寺の浄土庭園・伽藍遺構は、奥州藤原文化の象徴的存在だと感じました。 」


「平安時代に造られた大きな浄土式庭園が、そのままの形で残されていることに驚きました。現在残されている庭園に加え、当時はここに美しい堂宇があったことを想像してみると、平安の世の人たちにとっては、まさにこの地が浄土のように感じられたのではないと思います。庭園が礎石なども完形で残されているのは伊達藩のおかげであるということを知りました。この庭園を荒らさせることのないように植林を行ったり、隣の観自在王院では土を盛ることで遺跡自体を傷つけることを防いだりと現代でも行っているような文化財保存の方法を用いており、先見の明があったのだと思いました。守っていく人々の協力があったからこそ今見ることのできているものであるということを実感しました。」

千葉秀覚執事長と本堂前にて

最後に「宝物館」を見学しました。

入り口では毛越寺の開祖、慈覚大師円仁の坐像が迎えてくれます。

毛越寺に伝わる仏像などの宝物や、発掘遺品、国の重要無形民俗文化財指定「延年の舞」に使用される道具などを所蔵・展示されています。毛越寺と奥州藤原氏の歴史についても学ぶことができ、江戸時代の作である「藤原三代画像」は平泉文化を発展させた3人の武将の威厳ある姿を今に伝えています。
木像熊野神像

「木像観世音菩薩坐像」は1本のカツラの木で彫られ、漆箔が施されています。平安時代後期の穏やかな作風を示しています。「木像訶梨帝母(鬼子母神)像」もカツラの木の一本造り。平安時代後期の訶梨帝母像は全国的にも珍しいとされ、毛越寺に残る奥州藤原時代の代表的な仏像のひとつです。「木像熊野神像」は三尊形式の神像で真ん中は坐像で、脇侍は倚像(腰掛けている)という大変珍しい組み合わせです。
館内には平安時代当時の浄土式庭園の遺跡の一部も展示されています。

毛越寺の僧侶(広報担当)の志羅山順慶さんによると「毛越寺の浄土式庭園はご本尊である薬師瑠璃光如来による浄土の世界を表現しています。日本にあるほかの浄土式庭園は阿弥陀如来による浄土の世界なので、薬師如来によるものは珍しいですね。阿弥陀如来の浄土式庭園は死んだ後に安らぎを与えることを表現したものがほとんどですが、薬師如来は現世利益、いま生きている人たちを現実の痛みや苦しみから救ってくださる仏様です。毛越寺の浄土式庭園は、いま生きている人のための浄土を表したものなのです」

広報担当 志羅山順慶さん

毛越寺
〒029-4102 岩手県西磐井郡平泉町平泉字大沢58