奥州藤原氏初代の清衡公が込めた想い「中尊寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

奥州藤原氏初代の清衡公が込めた想い「中尊寺」を訪ねる

2022年5月28日 訪問

中尊寺本堂 
明治42年(1909)の建築。
平成25年(2013)、新本尊の丈六釈迦如来坐像の開眼法要が行われた。

岩手県平泉にある天台宗の東北大本山、中尊寺。嘉祥3年(850)に慈覚大師円仁が開山し、12世紀はじめ、奥州藤原氏初代の清衡公が前九年・後三年の合戦で亡くなった命を供養するために造営したと伝えられています。

金色堂をはじめ、3000点を超える国宝・重要文化財を伝える平安仏教美術の宝庫であり、平成23年(2011)に「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」としてユネスコの世界遺産に登録されました。

青紅葉がまぶしい参道を進むと立派な表門が現れます。薬医門と呼ばれる形式の門で、伊達家の屋敷門を移築したものと伝えられています。その奥にあるのが本堂で、明治42年に再建されました。

中尊寺の執事長、菅原光聴師にご案内いただき、貴重な仏像や宝物を見学し、さらには藤原清衡公がなぜこの地に中尊寺を建立したのか、その背景や願いについてお話しいただきました。
「中尊寺は一山寺院であり、17ヶ院の塔頭寺院が集まり、その住職たちによって運営されています。本堂では6月の伝教大師最澄を供養する伝教会をはじめ、年間40ほどの法要を行っています。

御本尊の釈迦如来は平成25年(2013)に造立されました。以前はもっと小さな阿弥陀様が安置されていましたが、新しいお釈迦様は一丈六尺、今の尺度だと4.8mぐらい。座っておられますので座高は2.7mぐらいの高さになります。

阿弥陀如来像(御本尊)
平成25年(2013)に造立。

御本尊を新造した理由は、今から900年前に中尊寺を建立した奥州藤原氏初代の藤原清衡公が、落慶式の際にお寺に奉献した「供養願文」に由来します。
供養願文には「ご本尊は一丈六尺の釈迦三尊」と書かれており、中尊寺ではいつか創建当初と同じように一丈六尺のお釈迦様を御本尊としてお迎えしたいという悲願がございまして、やっと平成25年に完成しました。
仏様の手の形を見ていただきますと、少し変わった形だとお感じになると思います。これは「説法印」といい、仏様が説法しているときの手の形といわれています。宝物館に収められている国宝「中尊寺経」の見返し絵にお釈迦様が説法している絵が描かれており、これにちなみまして、説法印のお釈迦様を造立いたしました。」
御本尊の完成までは順調だったわけではありません。平成23年(2011)に東日本大震災が発生。本堂はなんとか倒れずには済んだものの、白壁が全部落下するなど、歩くこともできないほどの大きな被害を受けてしまいました。
「東日本大震災ではお堂の壁も崩れるなどの被害がありお釈迦様をお造りする計画は一旦ストップしたこともありました。しかし、こういうときだからこそ手を合わせる仏様が必要だということで準備を再開し、震災の2年後、平成25年にやっと完成することができました。
私どもは東日本大震災の復興、その後のさまざまな自然災害、人災、世界の戦争や紛争などで苦しんでおられる人々の平和をお祈りするために日夜手を合わせております。

御本尊の両脇にある灯籠の灯火は、昭和33年(1958)に東北大本山の号をゆるされたことを記念して、伝教大師最澄様が延暦7年(788)に灯されて約1200年の間世を照らし続ける「不滅の法灯」を延暦寺から分灯させていただきました。以来、日夜油を継いでお護りしております。
東日本大震災では灯籠の灯火が消えてしまったのですが、常香盤で種火を常に絶やさないように取ってあり、この種火によって不滅の法灯を護ることができました。「油断をするな」という言葉は「油を断つな」という意味でございます。例え何百年間灯っていたとしても、一瞬の油断で消えてしまう、私ども一山の僧侶は365日交代で宿直して油を継いでお護りしております。」

本堂に続き、宝物館を見学。宝物館「讃衡蔵(さんこうぞう)」には3000点を超える国宝・重要文化財を収蔵。展示室では仏像・仏具・経典や藤原氏の副葬品などが展示されていました。
「現在の讃衡蔵は平成12年(2000)に再建された二代目。奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡と名前にはみな「衡」という字が付いています。藤原氏四代公を讃える蔵として讃衡蔵と名付けられました。

三体の「丈六仏」は平安時代から伝わる仏様です。本堂の御本尊と同じ一丈六尺の大きさで定朝様の穏やかなお顔をされており、おそらく京都から仏師を招いてつくられた仏様だと思います。正面が阿弥陀如来、両脇が薬師如来。もともと三体並んで安置されたいたわけではなく、別のお堂に安置されていたものをここに移しました。

左より薬師如来坐像、阿弥陀如来坐像、薬師如来坐像(いずれも重要文化財)

こういった丈六の仏様が平安時代には中尊寺の中にはたくさんあったという記録がございます。鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」によりますと、「二階大堂」という大きなお堂があり、三丈の阿弥陀様と一丈六尺の脇侍の阿弥陀様が9体安置されていたと言い伝えられています。」
「こちらは千手観音ですね。京都の清水寺の様式の観音様ということで「清水式観音」とも呼ばれています。手を頭上で組む清水寺の観音様のスタイルです。清水寺の観音様は42本のお手がありますが、中尊寺の観音様の手は現状32本。ただし、この手は当時のものではなく、のちの時代に作られたと言われています。体幹の部分は平安時代の仏様で、非常に細身で優美なお姿です。

千手観世音菩薩立像(重要文化財)
千手堂の本尊

左足の親指がちょっと上の方を向いていますよね。観音様は33の願を立てまして、すべての方のところに様々な姿に身を変えて救いに来てくださる仏様というとことで、足の指を上に立てることによって、すぐに困っている方のところに走っていく準備ができているということを表しているといわれています。


岩手県の詩人・宮沢賢治は何度も中尊寺を訪れ、中尊寺に関するいくつかの詩や句を残しています。「雨ニモマケズ」には東西南北の困っている人のところに行って助けたいと書いていますが、宮沢賢治の手帳にはその詩の頁の欄外に「行って」と赤い字で書いてあるそうです。観音様の親指のように「困っている人のところまで自分が歩いて行って」、その現場まで行って助けてあげたいという気持ちが込められているのではと思います。宮沢賢治は熱心な法華経の信者でもございまして、こういった詩にも法華経の教えや気持ちが表れているのではないかなと思います。」

続いて「金色堂」へ。

国宝「金色堂」は天治元年(1124)の造立で現存する唯一の創建遺構で、堂の内外に金箔を押した阿弥陀堂です。昭和37年(1962)から43年(1968)までの7年間、解体大修理が行われました。
「金色堂と申しますと、金一色に輝いているお堂というイメージがありますが、金だけじゃなく、夜光貝を使った螺鈿細工、象牙、東南アジアの紫檀材などさまざまな素材を使って建てられております。」

4本の巻柱や須弥壇(仏壇)、長押にいたるまで白く光る夜光貝の螺鈿細工、透かし彫り金具や漆蒔絵と、平安時代後期の工芸芸術を集結して荘厳されています。内陣の須弥壇の中には清衡、二代基衡、三代秀衡のご遺体と四代泰衡の首級が安置されています。その上には御本尊の阿弥陀如来、向かって右には観音菩薩、左には勢至菩薩、左右3体ずつ地蔵菩薩、最前列には持国天と増長天が並び、この仏像構成は金色堂独特のものです。
「900年前に藤原清衡がなぜ金色堂をというお堂を建てたのか。それは、清衡の生い立ちに関係してきます。清衡の前半生は東北地方に起こった前九年の合戦、後三年の合戦という長い戦争に翻弄されました。
この戦いは都の朝廷を中心とした勢力と、みちのくに当時住んでいた蝦夷と呼ばれた人々との戦争です。清衡の父は都の貴族の血をくむ藤原経清。母は蝦夷の一族である安倍氏の出身。この両方の勢力の血を身に受けて生まれてきたのが藤原清衡です。貴族の血、そして蝦夷の血が戦争によって離反して体が引き裂かれるような苦しみを味わわれたのではないかと思います。実際に清衡は7歳のとき、前九年の合戦で父親を失っております。後三年の合戦では妻と子を失っております。戦争でたくさんの肉親を失い、また、自らも骨肉の争いを繰り広げざるを得なかったわけです。清衡はこの2つの戦いを通して、奇しくもみちのくを治めることになりました。そこで清衡が一番はじめに平泉で行ったのが、立派なお城や砦をつくることでなく、この地に中尊寺というお寺をつくることでした。

また、この中尊寺の場所は、実は東北地方でも特別な場所です。中尊寺の北側に衣川という川が流れています。衣川は安倍氏の勢力と朝廷の勢力との境だったわけです。衣川を南北に分けまして多くの命が失われていきました。人間だけでなく鳥や魚などの動物、生きとし生けるものの命が失われていきました。清衡は衣川から一歩、南に移動した、この平泉という場所にお寺を建てることによって、争っていた2つの勢力が1つに合わさって平和を築いていくために、平泉に中尊寺というお寺を建てたのです。」
「そんな願いで建てられた金色堂が表しているさまざまな光、金だけではなく、螺鈿や銀、あるいは瑠璃石(ガラス玉)など世界各地から集めた素材のさまざまな光が融合されてつくる世界が清衡公にとっての極楽浄土だったのではないかなと思います。
つまり、「さまざまな光」の融合とは出自や性質、考え方の違いをそのままに認め合うことのできる世界を意味しているのではないかなと思います。」
紺紙金銀字交書一切経(国宝)

「金色堂のほかに清衡公が残したものが「紺紙金銀字交書一切経」です。紺色の紙に、金の文字と銀の文字で一行ごとに写経されたもので、国宝に指定されています。

清衡公の供養願文には「金銀字経の金の光と銀の光がお互いに光を和して私の誠の心を照らしてください」ということが書いてあります。金の光と銀の光というのは「2つの違った考え方」、あるいは朝廷とみちのく、父方の藤原氏と母方の安倍氏、といった清衡公の体を流れる2つの血であり、それらがどうか1つに融けあって自分の心を照らしてほしい、という願いが「紺紙金銀字交書一切経」にも込められているのではないかなと思います。」

中尊寺の境内には金色堂のほかにもさまざまなお堂があります。

「経蔵」は国宝の中尊寺経を納めるために建立されたお堂で、平安時代の材料を使って再建されたといわれ、重要文化財に指定されています。「金色堂旧覆堂」は金色堂を風雪から護るために鎌倉幕府によって建てられました。
「江戸時代になると、中尊寺は仙台藩に属していましたので、伊達家から大変庇護を受けましてたくさんのお堂が建てられました。」
釈迦堂や阿弥陀堂、薬師堂など新旧の諸堂を合わせて拝観することができます。

重要文化財「経蔵」

最後に菅原師はこうお話ししてくださいました。

「清衡公は仏教の専門家でないのですが、「浄土」への思いがあって伝えたいものがあった。それを形にすることができたのは、天台宗の教えであったり、最澄様の教えであったり、慈覚大師の教えでありました。いろいろなご縁が集まって「金色堂」という目に見える形になったのではないかなと思います。みなさんの感想を聞いて、これからも中尊寺についてしっかり発信していきたいなと思いました。」

大学生の感想

「私は初めて中尊寺を訪問させていただきました。本堂の御本尊は新しいお像でしたが、清衡公が発願した中尊寺経の頭に描かれているお釈迦さまの姿を再現して、説法印という印相を結んでいらっしゃる特徴的なお像であるということで、清衡公の想いを再現したいという気持ちが強く現れているように感じました。」

「実際に金色堂を見ると、内陣の柱の仏画や螺鈿細工などのきめ細やかな美しさがちりばめられていることに強く感動し、いつまでも見ていられるように感じました。金色堂を通して清衡公が目指したかった『浄土』を、現代の自分たちも目にすることができて感動しました。」

「中尊寺は京都の文化だけでなく、東北の文化を大切にして、多様な文化を積極的に取り込んだ奥州藤原氏を象徴する存在だと感じました。」

「中尊寺は何度か訪れています。いままで中尊寺というと権威のある大きなお寺というイメージでしたが、いろんな方々に愛され支えられて今日まで続いてきたお寺だということをわかりました。清衡公の立場や出自など、いろいろなものを超えて調和しながら平和を作っていくというような、清衡公の願いが根底にあるからこそ、今の時代にもたくさんの方々に愛されているお寺なんだなと実感しました。」

中尊寺
〒029-4102  岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202