本朝四箇大寺「三井寺(園城寺)」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

本朝四箇大寺「三井寺(園城寺)」を訪ねる

三井寺の別称で知られる「長等山園城寺」は、その名の通り、歴史に名を刻んだ皇室や武将なども訪れた非常に由緒あるお寺です。その始まりは、大友与多王が672年の「壬申の乱」で大海人皇子(後の天武天皇)に敗れた父、大友皇子を慰霊するために寺を寄進しました。天武天皇から「園城」の勅額を受けたことからその名がついたとされています。

三井寺の金堂と接する、「閼伽井屋(あかいや)」の内部には、天智・天武・持統と三代にわたって歴代天皇が産湯に浸かったとされる霊泉が今もこんこんと湧き出していることから、「御井(みい)の寺」として広く親しまれるようになったのです。
いわば、日本の古代国家が混沌としていた時代を経て、戦国時代になると織田信長が比叡山焼き討ちの際に本陣としたか思えば、豊臣秀吉によって一時は、その寺領を取り上げられ、徳川家康の治世になり再興されるなど、時代背景や置かれている立場によって、大きく翻弄されてきました。
智証大師像

その基点となっているのが、第五代の天台座主である智証大師円珍です。平安末期に比叡山に学び、その後、入唐求法。最新の仏教を学び日本に持ち込んだ円珍は、園城寺を比叡山の別院とし、修行道場として多くの弟子がこの地で学び隆盛を誇りました。しかし、長年にわたって比叡山と対立。後に比叡山は山門派と呼ばれ、園城寺は寺門派として、互いの主張を譲らず何度も焼き討ちの法難にあう事態に見舞われました。
三井寺の広大な境内は、今回訪れた金堂のある中院に加え、南院と北院の3つの地域に分かれています。建っている堂宇は、安土桃山時代以降のものがほとんどですが、建物や仏像などの文化財のうち、実に国宝は10件に及び、重要文化財52件と日本有数の規模を誇り、延暦寺、東大寺、興福寺と並んで「本朝四箇大寺」とも称されています。

今回の訪問では、小林慶吾執事に創建から1300年にわたる歴史を解説していただきました。

集合場所となった中院正面には、重要文化財にも指定されている仁王門が出迎えてくれます。正式には「大門(だいもん)」と呼ばれています。この仁王門は実は、園城寺のために造られたものではなく、湖南地方にある常楽寺にあったものを豊臣秀吉がいたく気に入り、伏見城の城門として使われてきたものを徳川家康公が寄進して園城寺を守っています。門柱の左右に祀られている仁王像は運慶と快慶によるもので威風堂々とした佇まいを漂わせています。


大門をくぐり訪れたのが、仁王門の右手にある重要文化財の釈迦堂。かつては京都御所の清涼殿として天皇が謁見の際に使われていた建物をそのまま移築したといいます。
「このお堂は正式には『食堂(じきどう)』と呼んでいます。このお堂は、天皇にとって住居の役割をしてきたものですから、一般的な寺院建築とはかなり趣が違います。
その大きな違いが、お堂を支える柱にあります。お寺の建築に用いられるのは丸柱がほとんどですが、この釈迦堂では四角い柱、角柱を多く使っています。廊下などの外側の箇所には角柱が使われているのが特徴です。

しかし仏様をお祀りする場所には丸い柱が用いられています。つまり、かつてその場所は、天皇の謁見する場所でしたので、歴史的に天皇は神様と同じ扱いであったということが建築の構造上のことからもわかります。
建築に興味があれば、ぜひ、柱の形も見てください。神様仏様をお祀りする場所は柱が丸くなっています。わかりやすい例では鳥居もそうです。石でも木でも金属でも丸く柱を造るのはその通り道が尊い道であることを表しているからです。そしてこの釈迦堂は天皇から下賜されたということで、現在は歴代天皇のご位牌を祀る場所でもあります。


ご本尊の釈迦如来像はこのお寺には珍しい清凉寺式釈迦如来です。

京都にある清凉寺の釈迦如来像を模した像です。この釈迦如来は首の部分にまで衣を着ていて非常に珍しいお姿をしています。

我々が普段目にする機会が多いのは、肩の部分が出た南伝仏教の衣を着た釈迦如来像。仏教は東南アジアの暖かい地域を伝わってきた南方ルートとシルクロードを通じて寒い地方から伝わってきた北方ルートがあって、北方から伝わってきたのがこの仏像の様式だと考えると非常に興味深いですね。こちらに祀られている釈迦如来像は室町時代の作とされていますが、多くの修理をした跡がありますので、国の指定文化財にはなっていませんが、非常にありがたい仏様と言えます。」


正面には寺院の総本堂にあたる金堂を拝することができます。国宝にも指定されている金堂は、桃山時代の建築を代表する堂宇として、国内外を問わず高く評価されています。
「この金堂は関ケ原の合戦の前年に当たる慶長4年(1599年)に完成しました。豊臣秀吉の正室だった北政所による発願で、豊臣家の財によって造られましたのがこの建物になります。実はこれ以前にあった本堂は、今は延暦寺の転法輪堂になっています。なぜかと言いますと、豊臣秀吉が三井寺を闕所(けっしょ)取り壊しをしまして、三井寺はしばらく本堂がなかった時期がありました。ただ、秀吉が亡くなる直前に再興令が出まして現在の建物が建立されました。豊臣家が隆盛を誇っていた最後の時期の建築と言えるでしょう。
ちょうど5月15日まで内陣で展示していたのが、普段は『百体堂』にある百体観音です。
百体堂は観音信仰の高まりもあって、江戸時代の1750年代の宝暦年間に建てられましたが、そのお堂の正面に西国三十三所、右手に坂東三十三所で左手には秩父の三十四所の観音様が祀られています。いずれも模刻です。このたび、金堂の内陣にお祀りして特別公開しました。

なかなか百体堂という形式で一堂に観音様を集めているのは全国的にも珍しいです。いつもはすりガラスで直接見ることができませんので、貴重な機会かと思います。中には龍に乗っているお不動様のような観音様や文殊菩薩様の特徴がある仏様もいます。これまで外にお出ししたことがほとんどなく、これから調査や修理をしていく中で何か新しいことがわかるかもしれません。
金堂の内陣にも多くの仏様が祀られています。この金堂には円空さんの仏様もありますが、皆さんはご存じですか。生涯で12万体の仏像を刻んだという希代の仏師です。
円空さんの仏像は知っていても、意外とどこのお寺のお坊さんかは知られていないですね。実は、円空さんは三井寺のお坊さんです。おそらく修験道の行者さんだったのではないかと思います。円空仏が納められているのが大峯山や御嶽山、富士山など霊山の周辺が非常に多いです。こちらに祀られている円空仏は、一切経蔵というお経を収める蔵から発見されました。円空の仏像の中でも初期のものだというのがわかっています。
円空仏

円空は三井寺で灌頂を受けて、三井寺の血脈(けちみゃく)にも名前が挙がってきますし、最後は岐阜県関市にある弥勒寺の住職で亡くなっていますので、修験道の行者さんとして全国各地を回っていてお世話になったところに仏像を納めていたと思われます。非常にいいお顔されている仏様です。」
古くから皇室はもとより、多くの武士から信仰を集めていた園城寺。境内には、弁慶の引き摺り鐘や毛利輝元が寄進した一切経蔵などの武士ゆかりの文化財も多数点在しています。とりわけ三井寺の迎賓館的な役割を果たしてきたのが、国宝に指定されている光浄院客殿です。

かつて3つの客殿を擁していた園城寺の中でも格式の高い人物をお迎えする際に利用されていました。室町時代に成立した書院造建築の最高峰として、建築家や研究者が調査に訪れるほどだと言います。
いわゆる客殿というのは、読んで字のごとくお客様をお迎えする場所です。中でも光浄院客殿は武士をお迎えする所でもありました。
他に現存している客殿としては、国宝に指定されている勧学院客殿もあります。これは、『学問を勧める』と書いてあるように、お坊さんの滞在する所として機能していました。もう一つは、現在、東京の護国寺に移築されて月光殿と名前が変わりましたが、かつては日光院客殿という名前でお公家さんをお迎えする場所として活用されていました。
現在の建物ではありませんが、光浄院客殿は織田信長が初めて京都に上洛するときに、足利義昭を伴って三井寺に立ち寄ったのがこの場所になります。庭園は室町時代から変わっていませんから、きっと信長公も同じ庭を眺めていたのではないかと思います。

この光浄院客殿をめぐってはエピソードに事欠きません。中でも比叡山が焼き討ちに遭った際にも信長公の本陣は、比叡山に近い宇佐八幡宮にあったとみられています。そのうちの信長一行はこちらに滞在したと『信長公記』にここの名前が挙がっています。それを考えると歴代の武将が使った場所というのがわかります。三井寺は歴史的に戦乱の時代ということもあり延暦寺と諍いをしている時代が長かったこともあります。時には僧兵同士がぶつかるようなこともあったそうです。

それでも三井寺が復興できたのは地域の信仰もさることながら、源氏系のお寺だったことが大きいです。古くは源氏に始まり、北条家、足利家も三井寺の庇護をした大名です。領地を安堵された書状も残っていますからそういうスポンサーの存在は大きかったです。地理的にも三井寺のある大津は宿場町でしたから、京都に行く途中の逢坂山の関所あたりまでが三井寺の領地でした。それゆえに戦乱が起きますと、焼き討ちされるという弊害もあったようです。



現在、この光浄院客殿は国宝に指定されていますがなぜだと思いますか。

一之間床貼付絵(重文) 狩野山楽筆

それは日本家屋の原型的な特徴がこの建築には残っているからだそうです。一般的な日本家屋のイメージは障子に床の間ですが、正面の狩野山楽の絵画の部分は床の間が誕生する過程で生まれた飾り棚があしらわれています。一之間の横には小さな出窓のようになった出っ張りがありますが、これは『付書院(つけじょいん)』と言われ、初期の書院造の典型と言われています。当時は、この場所で手紙を読んだり、読書をしていたそうです。これが徐々に出窓が小さくなり、書院造が確立していく、いわば過渡期の建築物とされています。

また室内は明り障子が配され、襖には間仕切り部分の溝がまだなく、引手止めが付いています。障子も襖もまだ初期の様式という点から日本家屋の原型と考えられ、非常に貴重だと言われていますね。」
とはいえ、日本屈指の文化財を誇る園城寺にとっても、文化財の有効活用は寺院運営の観点からも非常に大きな課題だと、小林執事は語ります。

「文化財の効果的活用という点で言えば『こういうのがあるよ』と言わないと皆さん遠慮してなかなかお寺にまで足を運んでいただけないという現状がありますね。中でも絵画や文書は説明しないとわからないところも多いですから、特別展示などの機会を設けることは意義が大きいのではないでしょうか? 

若い人にも日本の伝統文化や歴史的な文化財が身近にあることも知ってほしいし拝観すれば興味を持つ若者も多いというのを実感しています。先ほど案内した光浄院客殿で西洋音楽のオペラと三井寺の声明を唱える文化交流するという試みもその一環です。

興味のない人にとって、お寺の空間に足を伸ばしてもらうことが、まず大事です。そのためには様々なコラボイベントも企画していますし、これからも様々なイベントなどを通じて情報を発信していくことが大事だと考えています。」
「情報発信も文化財保護の一環である」という小林執事。その時間的にも空間的にも圧倒的な園城寺のスケール感を体感した学生たち、どこか晴れやかな表情をしていたことが印象的でした。

参加大学生の感想

今回三井寺を訪れてお話を伺って、立地に強く影響を受けたお寺であると感じました。三井寺は東日本から京都に入る玄関口にあたり、北陸や東海地方へのアクセスも良く、現在も大津港が近くにあることからも伺えるように、琵琶湖の水運にも便利な場所に位置しています。

三井寺の起源を辿ってみると、飛鳥時代に天智天皇が大津宮に遷都した際に、現在の三井お寺の前身となる寺院が整備されたとされています。金堂には三井寺で出土した飛鳥時代の瓦が展示されているほか、弁慶が比叡山へ引きずって持っていったという伝承が残る弁慶鐘も奈良時代のもので、三井寺の古い歴史を感じることができます。
「三井寺」という名前は天智・天武・持統の三代の天皇の産湯として使われた湧水があったことによるものです。大津宮は現在の三井寺の北東辺りにあったとされていて、飛鳥時代から一等地にあったと考えられます。

立地の良さゆえに、源平合戦を始めとして時の権力者との争いに巻き込まれることも多く、織田信長、豊臣秀吉との対立によって一時は廃寺に追い込まれてしまうこともあったために、現在三井寺に残されている建造物は徳川家康による再興の時期のものがほとんどですが、秀吉の正室北政所が寄進した金堂、御所の建物を移築した釈迦堂、毛利輝元寄進の一切経蔵などといった、当時の有力者の寄進によるものが多く、三井寺が厚く信仰されていたことが窺えました。

今回特別に見学させていただいた光浄院客殿も江戸時代初期の建築で、国宝に指定されています。ここは武家の接待の場所として活用された場所だそうで、織田信長や徳川家康も訪れているだろうということでした。園城寺の日光院には公家の接待のために建てられた客殿もあったそうですが、こちらは東京の護国寺に移築されて現存しています。公家・武家用の接待施設が必要になるほど、多くの貴人が三井寺を訪れていたことが窺えました。

幾度となく戦に巻き込まれながらも10件の国宝、智証大師のお像や黄不動の絵をはじめとして、平安時代の文化財が残されていることも、信仰が厚かったことを感じさせるエピソードだと思います。現在の三井寺を作り上げた円珍さんへの信仰があってこそ、今日まで三井寺が存続してきたことがわかります。三井寺に残された文化財には一つひとつエピソードがあり、それを知った上でもう一度訪れるとまた違った景色が見えてくるのではないでしょうか。
天台寺門宗総本山 三井寺(園城寺)
〒520-0036 滋賀県大津市園城寺町246