美しさにふり返る見返りの塔、「大法寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

美しさにふり返る見返りの塔、「大法寺」を訪ねる

長野県屈指の古刹である「一乗山大法寺」は「見返りの塔」として圧倒的な美しさを誇る国宝の三重塔が有名です。山の麓から急こう配の参道を登りきると一気に視界が開け、山腹の小高い丘の上に見事な三重塔を拝することができます。絢爛豪華ではなく、自然素朴な雰囲気につい、深呼吸したくなります。

今回はご住職の松本健淳師に境内をご案内いただきながら、質疑応答するなど活発な意見交換が繰り広げられました。

「こちらのお寺は大宝年間(701年~705年)に建てられたので、「大法寺」と名がついております。元々は「法」ではなく「宝」という字があてられていたそうです。

ご本尊が納められているお厨子は室町時代の作といわれています。お厨子の屋根に乗っている鯱(しゃちほこ)は鎌倉時代末期のもので日本最古の鯱といわれています。お厨子も個性的で屋根から放射状に反りがあり、唐様の造りとなっています。
このお厨子に祀られていたのが、平安時代に造られたご本尊の十一面観音立像で、丈は1メートル76センチの大きさで、お厨子の大きさとほぼ同じくしていたため、保存を考えて今は後陣にお祀りしています。その横にいらっしゃる普賢菩薩像も平安時代に造られたものでカツラの一木造りです。」

(左から)文殊菩薩、御本尊 十一面観音菩薩(重文)、普賢菩薩(重文)

昭和28年(1953年)、国宝に指定された三重塔は高さ18.56メートル。かつて内部は極彩色に彩られていたようですが、江戸時代に天台修験の道場として護摩行が行われていたほか、長年の歴史的な劣化により、現在はその色彩は剥落しています。しかしながら、その美しさは周囲の風景とも見事に調和し、時代と季節による特別な風景を醸し出していました。
「この塔は天王寺の大巧(だいく)四郎を中心とする宮大工により、正慶2年(1333年)に建てられました。なぜ、都に近い職人がここに招かれたのかは定かではありませんが、極めて優れた技術を取り込んでこの三重塔は建てられています。この三重塔の下の麓には、東山道がありまして、京の都の文化が旅人の往来によって入ってきたことと関係があるかもしれません。

塔の特徴は大正8年から大正12年に解体修理したところ、二層にあった墨書から鎌倉末期から室町初期にあたる時期に創建され、約700年経っていることがわかりました。つまり、判明したのが100年ほど前に過ぎないのです。塔の起源というのは、実はお墓のようで、大日如来様をお祀りして供養するために建立したもののようです。大正時代の解体修理の際には10体ほどのお骨も葬られていたことがわかっています。

建築的には屋根の部分が中心から放射状に延びていて、屋根の先の部分が大きく反っているのが特徴です。こうした建築の様式を見ると、都の中央から優れた職人が派遣されていたことがうかがえます。

また、鎌倉時代から室町時代にかけての寺院建築では、装飾的な蟇股(かえるまた)が使われていたようです。蟇股とは建物の重さを分散するために用いられる部材ですが、この三重塔の初層の扉の上にある蟇股には装飾的な意匠がありません。同時代に造られた堂塔は華美な装飾が多いようですが、この三重塔は二層三層を含め、ほとんど装飾がないのが特徴でもあります。それだけ風景との一体感が際立ち、美しさを醸し出しているとも言えます。
建築としても特徴があります。1階部分にあたる初層は二手先になっています。そして、二層と三層が三手先になっています。
通常、高さのある塔は塔の中心部分にあたる塔身を安定させるために、上層に行くにしたがって、屋根の庇を大きくしようとします。ところが、この三重塔は、一層部分の塔身を太くして、二層三層の塔身を初層より狭く設計しています。これにより二層三層が三手先で、通常の三重塔に比べ庇がせり出た形にはならず、視覚的な安定性が生まれます。

日本ではここと興福寺の三重塔がこの建築様式だそうです。昔からこの三重塔は東山道を旅する人の間で『見返りの塔』を呼ばれておりました。あまりにも美しいその塔の佇まいについ、何度も見返してしまうことからこの名がついたそうですが、おそらく昔の人も無意識のうちに視覚的な安定性に気づいて、この三重塔に美を感じたのでしょう。」
寺院建築における「手先」とは、柱上から軒下を支える仕組みを指します。
通常、斗(ます)と肘木(ひじき)を1対の「組み物」として屋根の重みを支え、初層よりも二層三層と高くなるにつれ、組み物の数を増やすことで、風雪からバランスをとる構造になっています。
「この塔の場所から東手から西側を眺めれば、向かって右手には夫神岳(おかみだけ)、続いて女神岳(めがみだけ)、独鈷山(とっこさん)と、上田市の塩田平が一望できます。」
山々へ向かう人々はこの塔を目印にされていたのかもしれません。この美しさを維持することの大変さもお話しくださいました。

「屋根などの修復は、傷んできたらその都度やっています。最近ですと、平成26年(2014年)に屋根を葺き替え、その前の大正には大掛かりな修復工事をしたそうです。屋根の葺き替えは30年ほどの間隔で、全体の葺き替えは60年ほどと言われています。今やこういう葺き替えができる職人も限られているので、ほとんどが関西の職人さんにお願いしています。

三重塔の中にある天井画については、今でも目視で確認できますが壁画はほとんど劣化していて、文化庁による調査があってはじめて遺っている部分がわかりました。平成16年には平山郁夫先生のお弟子さんであります古建築壁画復元の第一人者である馬場良治さんの手により、当時の壁画の復元が叶い、現在のその復元図が、参道途中にあります青木村美術館に展示されております。
青木村郷土美術館

花と葉、鳥が描かれていて極めて珍しい図案であると報告されています。お時間が許せば、ぜひご覧になってください。」
かつて信濃国の東山道の要衝であった浦野駅にもほど近い大法寺。地元の仏師が彫った平安仏から鎌倉末期の国宝三重塔まで、都の文化を吸収しながらその時代時代の信仰の中心地だったことが伺える寺宝の数々に、学生たちも関西地方とも違う伝統文化の醸成に大いに興味を持った訪問でありました。

参加大学生の感想

大法寺は上田市の西側の小県郡青木村にあるお寺です。藤原鎌足の息子である定恵(じょうえ)による創建とされ、奈良時代の大宝(たいほう)年間に造られたために大法寺(たいほうじ→だいほうじ)という名前になったのだという説もあるそうです。
大法寺の見どころの一つが国宝に指定されている三重塔です。「見返りの塔」の別名を持つこの塔は、鎌倉幕府滅亡の年である1333年に建てられたとされています。檜皮葺の塔は屋根の反り具合も絶妙に美しく、信濃の山々の緑と調和し、名前の通り私も実際に何度も振り返って眺めてしまうほど美しい塔でした。取材時にはまだ桜は咲いていませんでしたが、四季折々の姿が楽しめる塔だと思います。
大法寺のもう一つの大きな見どころが観音堂です。このお堂には国の重要文化財に指定されている厨子と仏像が安置されています。このお厨子は鎌倉時代末期から室町時代初期にかけてのもので、唐様という鎌倉時代以降流行する様式で作られています。特筆すべきがお厨子の屋根にのっている鯱で、これは日本最古のものだそうです。

三重塔も厨子も、当時の最先端の仏教美術が残されているということでしたが、大法寺の周辺の塩田平と呼ばれる地域には多くの文化財が残されていて、その背景には鎌倉幕府の北条氏との関係も想定できるそうです。文化財から地域の歴史を紐解く事ができそうで興味深かったです。
観音堂に安置されている重要文化財の仏像は十一面観音のお像と脇侍の普賢菩薩のお像です。地域の仏師の手によるものとされていて、どちらのお像もこの地域では最古級のものだそうです。優しいお顔をされていて、長くこの地域を見守ってこられたのだろうなという気持ちになりました。

大法寺は信州の豊かな自然と文化を同時に楽しむことのできるお寺でした。付近には美術館もあり、三重塔の内部の壁画の再現も展示されています。また、大法寺では「竹灯り」というイベントを行なっているそうで、境内には竹に穴を開けて絵を描いたものがたくさん置かれていました。中には角大師の絵を描いたものもあり、非常に親しみやすくて面白い試みだなと思いました。機会があれば竹灯りも見に行ってみたいと思います。

大法寺
〒386-1603 長野県小県郡青木村大字当郷2052