近江の正倉院と称される「聖衆来迎寺」を訪ねる
TOP > いろり端 > 滋賀 聖衆来迎寺

いろり端

探訪「1200年の魅力交流」

近江の正倉院と称される「聖衆来迎寺」を訪ねる

古くからの文化財がそのままの形で保存されている寺社を「〇〇の正倉院」と呼ぶことがあります。比叡山のお膝元、坂本にほど近い「紫雲山聖衆来迎寺」もまた平安から江戸時代の遺物を当時そのまま伝え、「近江の正倉院」とも称されています。国宝1件、国指定の重要文化財が18件と実に数多くの文化財を擁しますが、文化財保護の観点から現在は東京の国立博物館など5カ所に多くの寺宝を寄託しています。
また、境内には歴史ある建物が数多く残されています。かつて明智光秀が城主を務めた坂本城の裏門が光秀の遺言により聖衆来迎寺の山門に移築され、その荘厳な佇まいを今に伝えます。

本堂(重要文化財)
寛文5年(1665年)再建
建物周囲の縁は木造でなく石造であり、日本の仏堂建築では珍しい

長保3年(1001年)に建立された本堂は、恵心僧都源信がこの地を修行道場として中興した際に建てられた堂宇そのままに、寛文5年(1665年)に再建された建物です。ご本尊である阿弥陀如来坐像、釈迦如来坐像、薬師如来坐像がお祀りされているばかりか、伝教大師最澄の自刻とされる地蔵菩薩立像もその威厳を感じさせます。天台様式の格天井には、再建当時に描かれた「百花の華」がそのままの姿が見ることが可能です。

御本尊
(左)釈迦如来坐像(重文)、阿弥陀如来坐像(中央)、薬師如来坐像(右)
御本尊の三仏は造立年代が異なり、釈迦如来像は鎌倉時代作、阿弥陀如来像は室町時代、薬師如来像は江戸時代の造立と云われる

「中央の須弥壇から目線を右手に移すと、脇壇に地蔵菩薩立像がお祀りされていることに気がつきます。この地蔵菩薩立像は、聖衆来迎寺の前身寺院にあたる地蔵教院のご本尊と伝わり、地蔵教院を開いた伝教大師が造立した地蔵菩薩像だと伝わっています。
すらっとした立ち姿や優しい表情からは、比叡山の麓の仰木の地蔵堂にお祀りされている伝教大師作と伝わる地蔵菩薩立像と似た雰囲気を感じました。」(学生の感想より)

地蔵菩薩立像(伝教大師最澄作と伝わる)

客殿を訪ねる

相前後して建立されたのが、本堂から軒を連ね、寛文19年(1642年)に京都白川にあった元応国清寺から移築された客殿。仏間を中心とする二列四行の八室には、狩野派の絵師たちが、わざわざ来迎寺に足を運んで腕を競ったという襖絵も遺されています。

客殿の仏間に安置される薬師如来像は応仁の乱で焼失した天台宗の名刹・元応寺の旧本尊と云われる(秘仏)

狩野派の絵師たちが競って描いた襖絵がある客殿の一室には、元三大師も祀られていました。

山中ご住職にお話しを伺いました

-延暦寺のお膝元である坂本の地にある聖衆来迎寺が、なぜ「織田信長の焼き討ち」を逃れたばかりか、側近の明智光秀がわざわざ山門の移築を命じたのか。そして江戸時代になって天台の寺宝が集まってきたのか。数々の寺宝を巡る謎を含め、ご住職の山中忍恭師の熱心なご説明に学生たちも身を乗り出して話に耳を傾けました。
「来迎寺は元々地蔵教院として始まりました。伝教大師最澄様が延暦7年(788年)、比叡山に根本中堂の前身である止観院をお造りになりました。その2年後の790年に、小さなお地蔵様を本堂にした辻堂のようなものを造ったのが聖衆来迎寺です。時代を経て、往生要集の著者として有名な恵心僧都源信がここに住職に入られました。そこで修行の際に紫の雲に乗った阿弥陀如来を感得されたことで、このお寺の名称を『聖衆来迎寺』としたそうです。
その後、延暦寺は元亀2年(1571年)に織田信長による焼き討ちに遭いますが、幸いにしてお寺は焼き討ちを逃れました。当時の住職は真雄(しんゆう)上人という方で非常に徳のあるお坊さんでした。焼き討ちから遡ること2年前、この地では、『坂本の戦い』という浅井・長倉の連合軍と織田軍の合戦がありました。その織田軍の大将だったのが坂本城三代目城主の森可成(もりよしなり)でした。信長の近習だった森蘭丸の父上になります。浅井・長倉の軍勢は数万に対し、織田軍はわずか数千。10倍ほどの差があります。その結果、森可成も討ち死にしてしまいます。真雄上人は立派なお方で織田軍の負傷者を介護したり、『死ねば敵も味方もない』と戦死した武士をお寺で葬ったそうです。
聖衆来迎寺の境内にひっそりと佇む森可成の墓所

現在も境内に森可成の墓所があるのは、真雄上人がここに埋葬したからです。信長はその時に恩義を忘れずにいたので、この寺は焼き討ちから逃れたのです。ただ真雄上人は焼き討ちを恐れて、この地の寺宝を船に乗せて琵琶湖対岸にある「兵主大社」に持っていったそうです。
開山堂(重要文化財)

こうしたご縁から坂本城が廃城になった際に、明智光秀の遺言で持ってこられたのが現在のお寺の山門。坂本城では裏門だったものです。坂本城の正門は明智家の菩提寺である西教寺に今も遺されています。
この山門に加え、江戸時代初期に活躍した慈眼大師天海大僧正が、京都の白川にあった元応国清寺の灌頂道場だった建物を移築したのが現在の客殿です。これに本堂と開山堂を入れて4つの建築物が重要文化財に指定されています。国による文化財の指定は実にありがたい制度ですが、修理修復には時間とお金がかかり維持することの大変さも感じています。
修理の費用も観光で補うという考え方もありますが、観光・拝観のためにきちんとした施設も準備しないといけません。観光と信仰という2足の草鞋を両立させるには、痛しかゆしの側面が少なからずあります。

開山堂の内陣(特別に参拝させていただきました)

今は毎日のおつとめに必要な仏様を除いては、ほぼ東京国立博物館など全国5カ所の博物館に預けています。ただ、年に1回、『虫干し』ということで主要な寺宝は短期間ですが里帰りさせてもらっています。その際には、一般にも公開して、お寺の文化財を見ていただく行事を続けています。その時期になりますと、ご覧になりたい方々からのお問い合わせもあります。仏様を観ていただきながら、本来の「拝む」、仏様に手を合わせるという気持ちを今一度思い返していただければと思います。
-現在も客殿は3年の期間をかけて修復の真っ最中。国の助成があるものの寺の維持運営には十分な額とは言えないといいます。その厳しい財政状況を支えているのが、300戸を超える地元坂本の檀家の方々の存在です。
「これだけの文化財があると常に何かしら修復の費用をねん出しないといけません。檀家さんからはそうしたお寺の事情も踏まえた上で、何らしかのご支援をいただいています。有難い限りです。かつてはこのお寺も寺領があり、一定の収入があったようですが、農地解放以降は不在地主も増えてしまい、それこそ檀家さんのご寄付によって成り立っているのが実情です。このお寺は檀家寺だから歴史的にも地元の檀家さんに支えられてここまで来ることができています。
本堂には、かつて琵琶湖の周辺で頻繁にあった水害の名残が、今も残っています。実はそのたびに、本堂が、地元の人たちの避難所になっていました。明治24年(1891年)の水害では高さ4メートルまで水位があったという記録も残っています。そこで、本堂の縁側から下の部分を木造ではなく、全て石造にして、腐らないようにして、地元の避難所として機能するようにしていたんです。歴代住職もこうした地元とのつながりを通してお寺を次の世代につないできました。私たちも多くの文化財を預かる身ですが、お寺の本分を忘れずに、仏様を拝む場所として気軽に立ち寄れる場所を目指せたらと思っています。」

参加大学生の感想

聖衆来迎寺の境内をまわっていると、大切に伝えられてきた文化財の量に驚かされます。これらの文化財が大切に現在まで受け継がれている理由は、創建されてから、聖衆来迎寺が地域の方々をはじめとする様々な人々に愛されているからだと思います。
以前、聖衆来迎寺がある坂本地域のみなさんとお話をしたとき、「ぜひ聖衆来迎寺に参拝して欲しい」と教えていただいたことがあります。その言葉が象徴しているように、聖衆来迎寺が現在進行形で多くの人々に大切に想われていること、そしてその人々の想いがお寺の建物やお像を未来に受け継ごうという気持ちの原動力になっており、文化財が大切に守られているのだと思いました。

「近江の正倉院」とも言われる聖衆来迎寺ですが、今回の見学でその呼び名に間違いはないと実感させられました。またご住職さんのお話も興味深く、重みがありました。ご住職さんは話の中で人の道についてよく触れられ、武道は人の道を学ぶ手段の一つともおっしゃっていました。人の道とは人の人生や歴史、道徳など様々な意味を持っていると僕は解釈しています。
そうした意味で言えば、ここ聖衆来迎寺は創建した最澄や改称した源信、寺宝に携わった人たちの人の道に触れられる絶好の場所と言えるでしょう。
聖衆来迎寺
〒520-0104 滋賀県大津市比叡辻2-4-17