いろり端
探訪「1200年の魅力交流」
伝教大師の足跡が残る「妙香庵」を訪ねる
霊峰宝満山は、延暦23年(804年)、伝教大師最澄が留学僧(還学生)として中国に渡る途中に瀬戸内海で遭難したため、新たな遣唐船を待つ1年3カ月ほどの間、留まり、修行・祈祷したとされるゆかりの地です。
その麓に建つ「天台宗宝満山 妙香庵」には、比叡山開創1200年を記念して建てられた5.8メートルの青銅でできた最澄の立像、「傳教大師尊像」がお参りに訪れる人々を迎えてくれます。
この地での最澄の足跡やお寺の歴史について光本華章師に詳しくお話をお伺いました。
その麓に建つ「天台宗宝満山 妙香庵」には、比叡山開創1200年を記念して建てられた5.8メートルの青銅でできた最澄の立像、「傳教大師尊像」がお参りに訪れる人々を迎えてくれます。
この地での最澄の足跡やお寺の歴史について光本華章師に詳しくお話をお伺いました。
「宝満山は古くから、神が降り立つ山として崇められ、天智天皇の御代、九州一円を統治する大宰政庁府が置かれた際、鬼門にあたるこの山に、八百万(やおよろず)の神を祀り、大宰府また国家鎮護のための祭祀が始まりました。
天武天皇2年(673年)、開祖心蓮上人が山中で修行中に女神 玉依姫を感得し、朝廷の命によって、上宮が建立されました。
天武天皇2年(673年)、開祖心蓮上人が山中で修行中に女神 玉依姫を感得し、朝廷の命によって、上宮が建立されました。
山中には『五井七窟』と言われる山岳修行で使われたとされる秘所、五つの井戸、七つの岩屋の窟が点在しています。その一つ、『宝塔窟』別名『伝教大師窟』では伝教大師様が座禅を組まれて修行・瞑想をされていたといわれ、窟の中には小さい仏像があります。平安時代の頃から天台宗の僧侶の方たちが六郷満山で密教に関係した回峰行をされていました。英彦山と宝満山の回峰行ではなく宝満山の中だけの回峰行がありましたが、明治以降はすべて途絶えてしまいました。それまでの宝満山には370もの坊があり、大勢の行者さんがそこに住んで回峰行をされていました。
近年、地元の宝満山研究の第一人者が本で紹介したこともあり、山に興味のある人たちが回峰行のルートにも足を踏み入れ、事故等も続いたため、太宰府市の文化財課によって調査が行われました。
いつの日か力を合わせて、妙香庵を拠点に宝満山で行われていた『天台の至宝』と言われた回峰行が、天台の僧侶たちによって、復活される日が来ることを切に切に願っております。」
近年、地元の宝満山研究の第一人者が本で紹介したこともあり、山に興味のある人たちが回峰行のルートにも足を踏み入れ、事故等も続いたため、太宰府市の文化財課によって調査が行われました。
いつの日か力を合わせて、妙香庵を拠点に宝満山で行われていた『天台の至宝』と言われた回峰行が、天台の僧侶たちによって、復活される日が来ることを切に切に願っております。」
「伝教大師様は遣唐船を待つ間、竈門神社の前の『竈門山寺(そうもんさんじ)』というお寺で修行しておられ、そこでは『善名称吉祥王如来(ぜんみょうしょうきちじょうおうにょらい)』と言う『薬師瑠璃光七仏本願功徳経』というお経の中で第1番目に登場するお薬師様を「無事に唐に渡れますように」という祈りを込めて、遣唐船が4隻だったので、4体を彫られました。このお薬師様は6尺もあったそうです。
それとは別に、また伝教大師様は唐に行く前に七仏薬師を彫っています。その一体である第5番目のお薬師様は福岡県の種因寺のご本尊となっています。秘仏ですが、2021年11月にご開帳がありました。今年の2月にずっと行方のわからなかった七仏薬師の一体が不思議な縁に導かれて、妙香庵にお座りになられました。」
「伝教大師様が建てた六所宝塔のうち、実際にここにあったと確認されているのは3カ所あります。そのうちの2カ所は比叡山の東塔、西塔、そして3カ所目が宝満山で見つかっています。その場所からは当時の瓦や仏像などが出てきたことから、間違いないだろうということで、今は安西筑前法灯跡に宝塔(如法経塔)が建立されています。」
「さらに天台宗の4つの伝承法流の一つに「玄清法流(げんせいほうりゅう)」というものがあります。これは琵琶を弾きながらお経を唱え、三宝大荒神や諸仏を祈ります。その玄清法流の開祖玄清法印(げんせいほういん)というお坊さんも宝満山の出自で、四王寺山で修行をされました。
その方も伝教大師様と深い関わりがありました。最澄が比叡山を開く時に、大蛇が出て阻害されたそうです。そこに病気で失明した玄清が琵琶を弾きながら大蛇を退散させたという話もあります。
また、香春岳にある神宮院というお寺には最澄様が座禅したという岩も残っています。このようにこの地と伝教大師様とは深いつながりを感じるのです。」
その方も伝教大師様と深い関わりがありました。最澄が比叡山を開く時に、大蛇が出て阻害されたそうです。そこに病気で失明した玄清が琵琶を弾きながら大蛇を退散させたという話もあります。
また、香春岳にある神宮院というお寺には最澄様が座禅したという岩も残っています。このようにこの地と伝教大師様とは深いつながりを感じるのです。」
妙香庵には伝教大師ゆかりの「千年の法灯」が引き継がれています。
「延暦24年(805年)、唐から帰国した最澄は花鶴ヶ浜で手にしていた独鈷と鏡を空へ投じて山に探しに入りました。そこで出会った猟師の源四郎にお世話になり、そのお礼に「横大路の姓」と「岩井の水(井戸)」、そして唐から持ち帰った「法火」と「毘沙門天像」を授けたと伝えられています。以来、法火は、横大路家のかまどで絶えることなく1200年もの間、護り続けられてきましたが、管理することが難しくなり、2011年に「蓮華のともし火」として妙香庵に移されました。」
そのあと光本師はご本堂にご案内くださいました。そこには時代の異なる様々な仏像が祀られていました。
「中央にお祀りしているのは、当山の御本尊の華香救世観世音(かこうくぜかんぜおん)菩薩様で1170年頃の仏様です。明治時代の廃仏毀釈の時に岐阜県の郡上八幡の宮司さんが捨てるに忍びないということで、ずっと守っていたそうですが、今から50年ほど前に、ご縁があってこちらの御本尊としてお祀りすることといたしました。
華香救世観世音菩薩様は銅で造られていて、仏像の内部からは850年前、平安時代末期頃と思われる巻物が納められているのが発見されました。木像ではなく銅でできているので今もきれいなお姿をされています。」
華香救世観世音菩薩様は銅で造られていて、仏像の内部からは850年前、平安時代末期頃と思われる巻物が納められているのが発見されました。木像ではなく銅でできているので今もきれいなお姿をされています。」
御本尊様を中心にして右側には3体の仏様がお厨子の中に安置されています。一番左側から薬師如来様、中央に観音様、右側がお不動様です。
「薬師如来様は、もともと福岡県の鎮國寺のお薬師様だったようですが、やはり明治の廃仏毀釈で捨てられたのでしょう。玄関灘の漁師さんの網にかかっていたところを発見されて、人を介して妙香庵に来られました。
海から引き上げられた時には貝殻がたくさん付いていたようで、こちらで貝殻をすべて取り除き、きれいにしてお迎えしました。現在、鎮國寺は真言宗のお寺ですが、もともと天台宗のお寺だったので、ご縁があったのだと思います。日頃はお線香の煙で真っ黒になるため、お厨子を閉めていますが、ご希望があれば開けてご拝顔頂いています。
こちらの観音菩薩は日本で造られたものではなく、1200年前の朝鮮半島の観音様ではないかと思われます。美しい表情が印象的です。
このように様々な地域から妙香庵に仏様が流れ着いているのも、何かのご縁だと思って大切にお祀りしています。」
このように様々な地域から妙香庵に仏様が流れ着いているのも、何かのご縁だと思って大切にお祀りしています。」
光本師は、まるで伝教大師最澄がつい最近まで生きていたかのようにお話しくださいました。そして最後にこう結んでくださいました。
「伝教大師様は今も生きていらっしゃると思っています。『何遍も生まれ変わって仏事をなさん』というお言葉があります。「千の風になって」の歌詞ではありませんが、伝教大師様はいつでも私たちのそばにいらっしゃって、優しく見守ってくださっています。法要や天台宗のお坊さんたちが集まって伝教大師のお祭をする時には、あの銅像がとてもいい笑顔でいてくださっているように感じます。」
光本師の1200年という長い年月を感じさせないお話は、信仰の深さとこの地域への愛情が満ち溢れる優しさあふれていました。
参加大学生の感想
国民的人気アニメの影響もあり、数多くの人々が訪れる宝満山。かつてこの地には、伝教大師最澄が国の平和を願い建立した六所宝塔のひとつ、安西筑前宝塔が建てられていたことはあまり知られていません。
日本全国から縁あって妙香庵に移されてきたお像の中には海から引き上げられたお像など、それぞれのお像に守り伝えてきた人々を感じさせる伝承があり、しばらくの間お像の前から、離れることができませんでした。
横大路家から移されてきた蓮華のともし火には、横大路家の先祖の方々と伝教大師にまつわる伝承が残っています。伝教大師が唐から帰国され新宮町にある独鈷寺を開いた際、お寺の創立に協力した横大路家の祖先の方々に対し、伝教大師はともし火と毘沙門天像を授けました。横大路家の方々は、そのともし火と毘沙門天像を約1200年間現在まで受け継がれてきたそうです。
日本全国から縁あって妙香庵に移されてきたお像の中には海から引き上げられたお像など、それぞれのお像に守り伝えてきた人々を感じさせる伝承があり、しばらくの間お像の前から、離れることができませんでした。
横大路家から移されてきた蓮華のともし火には、横大路家の先祖の方々と伝教大師にまつわる伝承が残っています。伝教大師が唐から帰国され新宮町にある独鈷寺を開いた際、お寺の創立に協力した横大路家の祖先の方々に対し、伝教大師はともし火と毘沙門天像を授けました。横大路家の方々は、そのともし火と毘沙門天像を約1200年間現在まで受け継がれてきたそうです。
しかしながら、横大路家での維持が難しくなったことにより、伝教大師と縁が深い宝満山の麓でお祀りされているそうです。このともし火を見ていると、1200年という長い歴史は、たくさんの人々の手によって紡がれてきたのだと改めて実感しました。
妙香庵の訪問を通して、伝教大師は人々の心の中に現在も生きているということを強く感じました。妙香庵の光本師とのお話の中で、伝教大師の人となりや宝満山や九州での伝教大師の足跡を伺っていると、まさに、伝教大師が今ここにいると思えるほど、親しみを感じました。この活動を通して、様々なお寺を訪問し、様々な人と話してきました。そのなかで、伝教大師が目指したことは数多くの人々に受け入れられており、日本全国の様々な環境に合わせ文化として花開いているのだと思います。今回の妙香庵の訪問を通して、改めてそのようなことを思い抱きました。
天台宗宝満山 妙香庵
〒818-0115 福岡県太宰府市内山416-1
〒818-0115 福岡県太宰府市内山416-1
人から人へと紡がれてきた
大切な想いや魅力について語り合う
地域で育まれてきた歴史や文化を語り合い、
新しい価値と出会います