天下三戒壇のひとつ「観世音寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

天下三戒壇のひとつ「観世音寺」を訪ねる

九州を代表する古刹「清水山 観世音寺」は、太宰府天満宮や大宰府政庁跡からほど近いところにあります。天平5年(761年)には、大宰府の大寺として西海道(九州)の僧統の中心となり、正式な僧侶となるための戒律を授ける場である戒壇院が設けられ、奈良の東大寺、栃木の下野薬師寺とともに「天下三戒壇」の一つになりました。

最盛期には方3町(約330メートル四方)の境内に七堂伽藍が立ち並ぶ広大な寺院でしたが、平安時代以降は度重なる火災や風害によって創建当時の建物や仏像を失い、何世紀にもわたる歴史の中で徐々に衰退しました。しかし、江戸時代には金堂と講堂が再建され、諸尊像や舞楽面など多くの重要文化財を収蔵し、貴重な仏教芸術を今に伝えています。

観世音寺のご住職、石田琳彰師にご案内いただき、お寺の歴史や九州随一とされる仏教芸術の魅力についてお話しいただきました。

「最初に、観世音寺と石田家の関係からお話します。天正15年(1587年)、豊臣秀吉が島津との戦いでこの地に来たときに、裏山に陣を取りました。その際、観世音寺のご先祖に当たる方がご挨拶に伺ったのですが、世事に疎かったため、秀吉を天下人とは知らず、対等の挨拶をしてしまいました。その非礼に怒り狂った秀吉は観世音寺を廃絶寸前にまで追い込みました。当時、多くのお坊さんがいましたが全員離散してしまい、残ったのが石田家でした。」
もともと観世音寺は7世紀後半に、天智天皇の発願で、母・斉明天皇の供養のために創建されました。それはだいたい670年頃と考えられていますが、完成したのは746年で約80年もの長い年月がかかっています。
「飛鳥時代頃のお寺の大半は、できるまでに10年ぐらいかかっていました。観世音寺は、今では規模が小さくなっていますが、もともとはとても大きなお寺でした。建造には材木が必要ですが、今のように材木店があるわけではないので、まずは山を手に入れて、生えている木を伐採します。柱に使えるような真っ直ぐな木はそうそうあるものではないので、探して手に入れて運んできます。さらに、板材や柱材に使えるように形を整えなければなりません。素材を手に入れるだけで1年から2年はかかってしまいます。そこから木を整えると、だいたい10年はかかります。」
さらに、当時の国際情勢によりお寺の役割が追福から「鎮護国家」へと目的が変わったため、ご本尊の変更や伽藍の整備が必要になりました。

「天武天皇の時代になると、お隣の韓国、当時の新羅との仲が非常に悪くなり、仏の力で祈り殺すという争いも起こるようになりました。そこで観世音寺は「鎮護国家」の寺として期待されるようになるのですが、ご本尊は観世音菩薩様という人びとの苦しみから救う優しい仏様だったので、このままでは戦えないということでご本尊の変更が行われました。それに携わったのが、天平16年(744年)に中国留学から帰国した当時、非常に力のあった法相宗の僧、玄昉(げんぼう)です。

中国から持ち帰った5,000余巻の仏典の中に「不空羂索呪経(ふくうけんじゃくじゅきょう)」という経典がありました。不空羂索呪経に出てくる不空羂索という仏様は、優しい顔をされていますが、左手には羂索(けんじゃく)、要するにロープを持っています。これは苦悩する人びとが苦海、苦しい海の中に突き落とされたときに、その紐で救います。あるいは悪い者を縛るために使います。右は八臂(はっぴ)8本の手で左右に4本ずつありますが、右手の1本には剣を持っていて、これで悪を断つとされています。

玄昉が観世音寺の建設責任者となり、不空羂索観世音菩薩様ができて、天平18年(746年)にお寺を開くことができました。なので建物の完成は朱鳥元年(686年)、お寺としての完成は天平18年(746年)というふうに考えたらいいのではないかと思っています。」
お寺の完成から15年後、観世音寺は「戒壇院」を設けたことでその力を増していきます。最盛期には周辺には49の子院があったとされ、伽藍を示す礎石などが今も残っています。
観世音寺絵図(写真/淡交社 観世音寺)

「観世音寺は三戒壇の一つになります。戒壇とは「仏様に仕える正式な僧侶になるために資格、戒律を授ける」ことです。観世音寺は非常に重要なお寺で、例えば、日本の歴史を学ぶ時、聖武天皇が東大寺を造って諸国に国分寺を置いたとされています。それは正しいのですが、九州に限っては違います。九州の国分寺は、国分寺から東大寺に直通の関係がありません。九州では、今でいう住職の任命は、東大寺ではなく観世音寺がやっていました。九州には、他にそのような寺はありません。観世音寺は九州における東大寺であり法華寺であるわけです。」
観世音寺は「仏教芸術の殿堂」として知られ、平安時代から鎌倉時代にかけて造られた仏教彫刻が展示されています。

「宝の蔵と書いて「宝蔵(ほうぞう)」という博物館があります。観世音寺は度重なる火災や台風などで倒れた例が多いので、「それを繰り返してはいけない」ということで国からの費用で造られました。現在、重要文化財に指定されている仏像は18体です。そのうちの1体が現在の講堂のご本尊で、1体は国立博物館に貸し出していますので、宝蔵には16体があります。」
宝蔵に安置されている仏像は像高が3メートルから5メートルのいずれもかなり大きな木造仏像で、その迫力に驚かされます。

十一面観世音菩薩立像(像高:4.98m)、馬頭観世音菩薩立像(像高:5.03m)、不空羂索観世音菩薩立像(像高:5.17m)

「創建時のご本尊の不空羂索観世音菩薩様は、並んでいる仏像の中で最も大きく像高が5.17メートあります。
こちらは鎌倉時代前期、貞応1年(1222年)に造り直されたものです。その前の年に突然倒れてバラバラになりました。当初は粘土で造られた塑像で、胎内から心木(しんぎ)が出てきました。頭の部分には11個の穴があったので、11の面があったことがわかります。一般的には不空羂索観世音様は多面ではないのですが、今あるお像にも受け継いでいます。

(中央)阿弥陀如来坐像(像高:2.2m)、四天王立像(像高:2.2m~2.3m)

こちらは金堂のご本尊だった阿弥陀如来様です。クスノキ材の寄木造で像高は2.2メートルあります。
島津と豊臣秀吉が戦をした時に島津軍が観世音寺に攻め入り、お寺に火をつけて焼いてしまいます。その時に、金堂のご本尊を潰して刀のつばにした、という話が「阿弥陀鍔」で地方史にも出てきます。その後も何度か火災に遭い、その度に運び出されていますが、今は修復されていているのでわかりにくいのですが、私が見る限り焼け焦げた跡などはありません。」

その他ほかにも、5メートルを超える馬頭観音菩薩立像や十一面観音立像、兜跋毘沙門天立像を間近に見ることができます。また、白鳳時代に造られた日本最古の梵鐘や、「碾磑(てんがい)」という石造りの臼もあります。碾磑は寺院建築に使用した塗料を粉末にしたといわれています。
観世音寺は当時、大陸由来の舞楽を行う楽団を備えていました。現在は「舞楽面」も収蔵されています。 舞楽のルーツとされているのが「伎楽」です。
伎楽とは、日本の伝統演劇で、中国から伝わった大きな仮面をつけて演じられる台詞のまったく無い無言劇です。「日本書紀」には、朱鳥元年(686年)、「新羅の客人をもてなすため、川原寺の伎楽を筑紫に運んだ」と記されており、これが観世音寺に引き継がれたとみられています。
木造舞楽面

「伎楽の楽団には42人が所属し、修行中のお坊さんの緊張をほぐすために滑稽な劇を上演していました。また、鴻臚館(こうろかん)で外国からのお客様や、外国に行くお客様を接待するために上演していましたが、それは10年に1人ぐらいだったようです。観世音寺にはそのための留学所という組織があって、そのための留学田という領地ありました。また、養老6年(723年)には、伎楽の用具がボロボロになったので、新しい伎楽の用具を納めたという記録があります。現在は残念ながら伎楽の面は残っていませんが、この伝統は後に続き、「舞楽面」が伝わっています。」
お話の後には石田ご住職の著書を見せていただき、学生からの質問にも答えていただきました。そこには真剣にメモをとる学生の姿がありました。

参加大学生の感想

太宰府の大寺として、大いに栄えた観世音寺ですが、幾多の天災や戦乱に巻き込まれてしまいます。そのたびに、多くの人々の支援によって復興が重ねられ、現在まで貴重な文化財が守り伝えられています。現在、国宝1件、重要文化財18件の貴重な文化財のほとんどを観世音寺の境内にある宝蔵で見ることができます。

宝蔵に入ると、人の背丈を遙かに超える巨像が林立する光景に圧倒されました。宝蔵正面にお祀りされている像高約5メートルの十一面観音立像、馬頭観音立像、不空羂索観音立像は、いずれも平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて造立されたお像です。観世音寺は鎮護国家の性格を持つことを示すように、いずれのお像の表情からは、他者を圧倒する力強い印象を感じました。
3体の巨像のうちの不空羂索観音立像は、鎌倉時代に破損してしまい、当初のお像を意識して再興されたお像であると伝えられています。実際、お像の胎内からは、当初のお像の一部と考えられる断片や心木が納められていたそうです。
視線を左右に移すと、様々な時代に造立されたお像がお祀りされていることに気がつきます。9世紀から10世紀頃に造立されたと考えられている兜跋毘沙門天立像、平安時代後期頃に造立された阿弥陀如来坐像や、聖観音菩薩坐像、大黒天立像など、これらのお像から太宰府の大寺として観世音寺が大いに栄えていたことを推測できます。



なぜ、観世音寺にこれほどまでの貴重な文化財が数多く残っているのか。その答えとして真っ先に思い浮かぶのは、観世音寺が、太宰府の大寺として、有数の規模を誇る寺院であった点だと思います。しかしながら、それは一番の理由ではないと、今回の訪問を通して痛感しました。

今回の訪問では、天災や戦乱を数多く経験してきた観世音寺の波乱の歴史を思い知らされるとともに、そのたびにたくさんの人々からの支援を受けて復興がなされてきたことを知りました。観世音寺に数多くの文化財が残る一番の理由は、お寺を大切に想い、文化財を未来へ受け継ごうとする数多くの人々の存在であると強く感じました。
観世音寺
〒818-0101 福岡県太宰府市観世音寺5-6-1