つつじ寺として親しまれる「大興善寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

つつじ寺として親しまれる「大興善寺」を訪ねる

福岡県との県境に位置する「大興善寺」は佐賀県の基山町にある古刹として地元を始め、九州一円から四季を通じて参拝者が跡を絶ちません。別名「つつじ寺」と呼ばれるほど、4月から5月初旬にかけては、5万本のつつじが山を彩り、紅葉の季節には「もみじ祭り」が開催されるなど年間を通じて多くの参拝客が訪れています。

今でこそ、「花の寺」は全国各地で数多く紹介されるようになりましたが、大興善寺はその先駆的な存在として、広く知られています。その開基は、養老元年(717年)に行基菩薩がこの地を訪れ、現在は秘仏となっている十一面観世音菩薩を彫ってお祀りしたのが始まりとされています。

その後、承知元年(834年)に堂宇は焼失してしまいますが、再建復興させたのが、慈覚大師円仁でした。唐に渡って本格的な密教を学んで日本に持ち帰った円仁は、「無量寿院」とも呼ばれていた寺院の再興にあたって、教えを請うた中国密教の中心的寺院から「大興善寺」の名を寺号としました。また、伝教大師最澄も唐に渡る際に立ち寄った太宰府天満宮とも近しく、明治維新の廃仏毀釈による災難を逃れた宝物が、今も遺されています。
歴代の住職によって、紡がれてきた古刹の歴史について、ご住職の神原玄晃師に境内を案内していただきました。
まず山門をくぐると、圧倒的な存在感を放つのが、茅葺屋根の本堂です。
建立されたのは元和10年(1624年)。当時、この地を治めていた対馬府中藩の当主、宗義成公によって建てられました。以来、400年余り。これだけ立派な茅葺を維持するのは大変なだけに、歴代ご住職の苦労がしのばれます。
「こちらのお厨子の中に祀られているご本尊は、行基菩薩様が一刀三礼にてお彫りになったと伝承されている十一面観音菩薩様です。12年に一度午年のみの御開帳になっています。次回は令和8年(2026年)になります。ご開帳の期間は長くて3週間程度で、非常に貴重な機会となっていますね。

ご本尊が入っていらっしゃるお厨子は江戸時代のものです。その左右には、四天王の持国天と増長天がご本尊の守護として祀られています。
そもそもなぜ、ここに持国天と増長天が祀られているかと言いますと、以前は多聞天、広目天を含めた四天王がご本尊様の守護されていました。しかし、持国天と増長天はいずれかの時代に紛失してしまったため、昭和57年(1982年)に京都の仏師、佐川定慶さんに造っていただいた2体が、今もご本尊をお守りしています。
多聞天、広目天は国の重要文化財に指定されていまして、現在は国宝殿に安置しています。

作者はわかりませんが、12世紀の平安時代に造られご本尊をお守りしていました。身の丈はいずれも150センチほどの大きさで、多聞天はヒノキ、広目天は栴檀(せんだん)という香木の一木造りです。
広目天は、小顔でスタイルがよく、お顔立ちも中性的で柔らかさを感じます。立ち姿を見ていただきますと、左足に軸足を置いて軽やかな動きも感じさせます。」
本堂と棟続きになっているのが、かつての護摩堂です。明治初期に、隣接する護摩堂を本堂に移築し合併したことで、外見的には2つの茅葺き屋根が並ぶ構造となっています。本堂内部は天台様式の内陣中央に須弥壇が置かれ、本尊と脇侍が祀られているほか、かつては護摩堂のご本尊だった准胝(じゅんてい)観音も安置されています。

「こちらの准胝観音様は普段はお厨子を閉じた状態でお祀りしていますが、今回は特別にご覧いただけたらと思います。
まず、蓮華座を支えていらっしゃいますのが、難陀龍王(なんだりゅうおう)と跋難陀龍王(ばつなんだりゅうおう)です。光背に書いてある梵語は発音的には『おん しゃれい しゅれい じゅんでい そわか』と記されており、准胝観音のご真言を現しています。

一見すると千手観音様に見えるのですが、第一手の印相を見ると千手観音様は合掌ですが、准胝観音様の場合は説法印です。
説法印は、親指と人差し指、あるいは中指で輪を作り、右手は胸のあたりに掲げ、左手は手の平を上にして添えるような形で、やはり説法という言葉が一番大切ということです。准胝観音様は仏様を生み出す母のようなご尊格ですので、お参りすると、延命や子宝が授かると言われています。

真言宗では六観音様のお一人ですが、天台宗では六観音様のお一人ではないことになっています。
六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)の6つの世界で迷っている衆生を救済してくれるのが六観音で、地獄は聖観音様や、修羅道は十一面観音様などがありますが、准胝観音様は、あくまで人間の世界の観音様になっています。天台宗では不空羂索(ふくうけんさく)観音様が人間界。真言宗では准胝観音様がその役を担っています。ですので、准胝観音様は人間界に強い力を及ぼしますので、古くから大変篤く信仰されてきました。

この仏様は江戸時代の1800年代作で、初代が信長の焼き討ち後に、比叡山復興に尽力された京都の大仏師・吉田源之丞の作と伝わっています。

なぜこの地に、京仏師のお像があるかと申しますと、豪潮律師という江戸時代の高僧が大興善寺に逗留した際に、御祈願のために持ち込んだのが准胝観音様でした。豪潮律師は、比叡山に入り、後に長崎の出島で中国の僧から密教の教えを請いて、准胝観音信仰を広めました。
この大興善寺では、鎮魂と諸国安寧の誓願として八万四千の宝篋印塔の建立を発願し、享和2年(1802年)に『八万四千塔最初の塔』を現在契園の入り口にあたる場所に建立しています。宝篋印塔は安置すれば、塔が七宝所成となり、その功徳は、極楽往生、百病萬悩が一時に消滅するといわれ、豪潮律師54歳から晩年の70歳まで、二千塔余を全国に建立されたそうです。」
本堂内陣脇に鎮座されているのが、十一面観音菩薩を中央に、左右に毘沙門天と不動明王の「三位一体」の仏像です。元々、太宰府天満宮にある心字池中島の「本地堂」の本尊として祀られていたものを譲り受けたものです。明治政府の廃仏毀釈により、「天原山安楽寺天満宮」の安楽寺は廃寺となったため、貴重な仏教資産が多数流出したそうですが、このようにゆかりのある寺院に引き取ってもらうケースも少なくなかったと言います。

「安楽寺の仏像は、天台形式なので、真ん中に観音様、右にお不動様、左に毘沙門天様の三尊形式になっています。不動明王像は平安時代の作で、毘沙門天は室町時代。十一面観音は江戸時代と年代もバラバラです。

ただ少し特殊なのが、十一面観音がお顔の部分だけは古像のものを用いてあえて昔のものをつけて制作されたそうです。おそらく観音様の法力をそのまま残したいという意図があったようです。実に神々しいお顔をされています。

特徴的なのが、観音様が右手を下げていらっしゃるんですね。右手を下げている仏様は非常に優しい仏様とされ、お参りに来たら歓迎してくれて、願いごとを叶えてくれると言われています。一般的には『恐れなくて良いですよ』という施無畏印(せむいいん)の印相で、右手を上げていらっしゃる仏様が多いと思いますが、こちらの仏様は与願印(よがんいん)でいらっしゃるので、非常に寛容で優しい観音様です。
他にも本堂に安置されています伝教大師様と天台大師様の2体も江戸時代の作で、廃仏毀釈の時にこちらに遷ってきました。かなり傷んできましたので、修理修復してお祀りしています。不思議なことに、最澄さんをお参りすると、目が少し合うような感じがします。

またこの2体のお隣にはお像としては珍しい元三大師像もございます。こちらは秘仏で写真撮影ができません。比叡山の横川が元三大師信仰の中心ですが、大興善寺に伝わるお像は、非常に怖いというか厳しい表情をされています。やはり非常にご利益のあることからこういう表情をされているのではないかと思います。」
最後に、薬師堂をご案内していただきました。

「薬師堂のご本尊は、平成14年(2002年)4月に奉納されたご仏像です。こちらは先ほどの四天王の持国天、増長天を彫られました京仏師の佐川定慶さんのご子息である佐川中定師による作です。大仏師の西村公朝先生には、薬師如来のご指導をいただき、江戸時代作である脇侍の日光月光菩薩様や十二神将も修理致しました。佐川仏師さんには、修理前はかなり傷んでいたものをキレイにしていただきました。頭に干支の動物が乗っていまして非常に愛らしいのが特徴です。
この十二神将よりも一回り大きいのが、太宰府天満宮から移ってきました十二天です。修理して20年ほど経過していますが、非常に細かな意匠が施された仏様です。十二天は東西八方向と上下、そして昼と夜の守り神ですね。こうやって十二天に囲まれているのでお薬師様は安心していられます。西村先生とは先代のご住職のご縁です。色々なお寺から様々な仏様がこのように当寺に集まってきていることは実にありがたいと思っております。」
現在、大興善寺には、四季を通じて自然の景観を楽しむ参拝者が訪れます。そこには美しい自然の中で、ご本尊と多くの方を結ぼうとした歴代のご住職と檀信徒のご尽力が欠かせません。現在の神原玄應名誉ご住職も境内の整備を進め、春のつつじ、秋には紅葉の名所となりました。

明治の廃仏毀釈により一時は無住になった時期もあった大興善寺は、長い歴史の中で多くの人に支えられ、守り引継ぎいでこられたことを感じた訪問でした。
神原玄應名誉ご住職、神原玄晃ご住職、ありがとうございました。
大興善寺
〒841-0203 佐賀県三養基郡基山町園部3628