天台声明の根本道場「来迎院」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

天台声明の根本道場「来迎院」を訪ねる

京都大原の地は、別名魚山とも呼ばれ、来迎院を創建したと伝えられている慈覚大師円仁が中国の五台山で修行した峰の名が魚山だったことに由来します。慈覚大師円仁は本格的な天台密教を延暦寺にもたらしましたが、お経を独特の節回しで唱える声明(しょうみょう)もまた日本に伝えました。この声明を大原の地で発展させたのが、隠棲していた修行僧たちでした。中でも聖応大師良忍は、延暦寺を離れ平安時代末期の天仁2年(1109年)、大原の地にある来迎院を再興。声明の根本道場として、7つあった声明の流派を1つにまとめ上げ「魚山(大原)声明」を確立しました。
その後、来迎院は近隣にある勝林院と共に「魚山大原寺」と呼ばれるようになり、声明の根本道場として、長年にわたって天台声明の中心地として大いに栄えました。最盛期には大原寺を中心に、49もの子院がありましたが、応永33年(1426年)の大火で48の子院は焼失してしまいます。現在でもその姿をとどめているのは、三千院にある往生極楽院、1つだけとなっています。

来迎院のご住職、齋藤孝圓師にご案内いただき、来迎院や声明の魅力についてお話しを伺いました。

「このお寺を再興した聖応大師良忍は、愛知県のご出身で、13歳で比叡山延暦寺に上り、実の兄である良賀阿闍梨という大変優秀な学僧に従い比叡山の教えを学びました。しかし、良忍上人は23歳の若さで比叡山を下山し、大原に隠棲されたと言われています。

当初、良忍は勝林院に入り修行しました。勝林院は大原では一番古いお寺で1000年以上の歴史があります。そして、修行の後、晩年38歳にこの来迎院を再興しました。
当時、比叡山では声明の流派が7つに分かれていて、良忍は比叡山での修行時代にすでに、7つの流派をすべて習得していました。比叡山を下山し、大原に隠棲してからは、7つの流派を『大原魚山声明』と集大成し、一本化することに尽力します。天仁2年(1109年)にこの道場を建立して以降、良忍のもとで声明の修行をしたい多くの修行僧たちがこの来迎院へ集まり、49ものお寺ができあがったのです。以降、来迎院は声明の根本道場として発展していきます。

声明というと、葬儀や法要など、儀式の際に聞くものと思われますがそうではありません。声明の文化は都に伝わり、当時の流行り歌である今様に強く影響を与えます。白拍子による『今様』『浄瑠璃』『謡曲』『長唄』『小唄』『端唄』、さらに日本各地に伝わる民謡、最終的には演歌のこぶしになったと言われています。つまり京都大原の地に日本音楽の原点があると言っても過言ではないかと思います。」

「声明では楽譜と言わずに『博士(はかせ)』と言います。こちらの本堂に掲げているのが『総礼伽陀(そうらいかだ)』の博士です。『伽陀』という曲名です。梵語で言うと『ガーター』と言いますけれども、それを音写されたら『伽陀』という、このような字になったので訳してはいません。

この梵語のガーターという意味は、韻文、「短い言葉」という意味です。7文字7文字のたったの14文字ですが、これを声明で唱えるとだいたい20分はかかります。なぜそんなに時間がかかるのかと言いますと、すべての音をつなげて歌って唱えていくからです。

音と音の間に『塩梅(えんばい)』というものを使います。『塩梅』は地方に伝わると訛って『塩梅(あんばい)』になったと言われます。『塩梅』は最終的には演歌のこぶしになったと言われます。このことから声明は日本音楽の源流とされています。」
お話の後には、齋藤師による声明「我此道場如帝珠」を唱えていただきました。静寂な本堂に響き渡る声明に耳を傾けていると、時間が経つのを忘れてしまうほど不思議な感覚に包まれます。900年にわたって受け継がれてきた声明の原点がこの地にあったと思うと感慨深いものがありました。
「このように、続けて唱えますと、だいたいこれだけで20分かかりますね。これが声明という仏様になるための修行になります。だから仏様になるために一生懸命声を出して仏様がいらっしゃるように唱える、そういう修行ですね。

インドから生まれた音楽が中国に入りさらに強化され、高いレベルの音楽になったのではないかと思います。インドの高い文化に中国の高い音楽理論が合わさり、円仁によって一斉に日本に広まり、比叡山で流行っていったところを良忍が体系化しました。
良忍は比叡山の東谷で修行されていました。そこでの様子を見聞きする中で、あまりにも声明の流派が増えてしまうことを危惧されて、声明を統一されたことが、今日の声明にまで連綿と受け継がれています。」
大原の地の中心的な存在だった来迎院は、応永33年(1426年)の大火で、創建時の本堂に当たる薬師堂、阿弥陀堂、釈迦堂は焼失しました。室町末期の天文2年(1533年)になってようやく復興がかない、現在に至ります。

「来迎院の本堂は火災の難を免れて焼け残った「木造薬師如来坐像」「木造阿弥陀如来坐像」「木造釈迦如来坐像」の三像が安置され、いずれも国指定重要文化財に指定されています。

(左から)阿弥陀如来像、薬師如来像、釈迦如来像

正面に祀られていますのが昔の薬師堂のご本尊、薬師如来様です。
非常に優しい、気品に満ちたお顔をされています。平安後期の国風文化(藤原文化)の主流で、肩の線もなだらかで、胸の線もふっくらしています。曲線的で丸いというのが国風文化時代の仏像の特徴です。
薬師如来様は手に薬の壺を持ち、病気を治す仏様ですが、特に来迎院の薬師如来様は、“耳の薬師如来様”として、耳の病気にご利益があると言われています。

向かって左に鎮座される阿弥陀如来様は来世へ救いの仏様。『南無阿弥陀仏』と念仏を唱える人を極楽浄土へ導くという救いの仏様です。

向かって右に鎮座されるのは、インドの釈迦族の皇太子、釈迦如来様ですね。仏教はインドから始まりチベットを経て中国へ渡り、そして日本へ入ってきました。この釈迦如来様が出家し、本懐を遂げたことから仏教は世に出て、多くの人が仏教によって救われるということになります。

三尊は「過去・現在・未来」と本来は住む世界が違いますので、応永33年の大火以前は別の本堂に安置されていました。火災を逃れた現世を司る薬師如来様、来世を司る阿弥陀如様、過去を司る釈迦如来様が、ひとつの本堂に安置してあるというのが、現在の来迎院の特徴になっています。」
近年になって来迎院では、大きな発見が相次ぎ話題になりました。昭和35年(1955年)に国宝に指定された 『伝教大師度縁案並僧綱牒』は、伝教大師最澄が得度した後に、受戒されたことを示す公文書が、来迎院の如来蔵と呼ばれる土蔵から発見されました。そのほかにも、仏教説話集として知られる『日本霊異記』上中下巻の内、中下巻の2巻の古写本も見つかるなど、調査が進められています。

「この『伝教大師度縁案並僧綱牒』は巻物ですが、裏を返すと比叡山延暦寺の判子が非常にたくさん押されています。つまり元々は、延暦寺に保管されていたと推測されるのですが、なぜ来迎院にあるのかは今も謎のままです。来迎院は比叡山延暦寺(横川地区)にほど近い場所だったので、織田信長による焼き討ちの時に、大事な文書を避難させたと考えられます。いずれにしても国家が承認した当時の公文書が残っていることは、大発見です。

この資料から伝教大師が15歳の時に近江の国分寺で出家得度し、18歳の時には国が認可した得度の認可書が出ていることがわかります。それを逆算していくと、伝教大師の生年月日が766年ということがわかります。これまでの『叡山大師伝』を基とした生年は767年なので、1年違うことになります。最近では、『伝教大師度縁案並僧綱牒』が正しいのではないかという説が学会で非常に中心的な話になっています。

ただ、火災での焼失などを考えると、こうした国宝を一寺院で管理することの難しさも感じています。今は『伝教大師度縁案並僧綱牒』は東京国立博物館、『日本霊異記』は京都国立博物館に寄託しています。国の貴重な文化財を守っていくという思いからお預かりしていただいています。ぜひ機会があれば、実物をご覧になっていただけたらと思います。」

大原の地にひっそりと佇む来迎院。境内奥に眠られる聖応太師良忍の人柄が偲ばれるような隠棲した雰囲気を感じました。

参加大学生の感想

来迎院は三千院にほど近い場所にあり、以前から三千院と来迎院の関係性に興味がありましたが、齋藤ご住職のお話を聞く中で来迎院は三千院よりも昔から同地にあること知り、非常に驚きました。

来迎院は天台声明の道場として創建され、かつては大原一帯にたくさんの関連寺院がありました。お話を聞いているだけでもその規模の大きさが伝わってきました。声明と深い関係がある来迎院では、ありがたいことにご住職から声明を一節だけ聴かせて頂くことができました。独特で迫力のある声の出し方から、魚山(大原)声明の特徴を感じました。ご住職によると声明は日本歌謡の元となったそうで、日本の音楽に大きな影響を与えた声明を実際に聴かせて頂き、ご説明いただいたことはとても貴重な体験でした。

本堂は誰でも中に入って参拝できるようになっており、薬師如来・釈迦如来・阿弥陀如来の三像が安置されていました。お話によると、来迎院は⾧い歴史の中で何度か火災に遭い、その度に復興を遂げてきたそうで、本堂に三体の像が集められていることも火事が原因だと知り、信仰を繋いでいくための努力を体現しているように感じて非常に感慨深く思いました。また、本堂に三像が置かれているのもそうですが、本堂が常に一般の方に参拝いただくために解放されているというのも非常に珍しく感じました。
今回の訪問では、天台声明の道場としてだけではなく、全ての人に信仰と歴史を伝えていく場としても重要な役割を果たしてきたことを学ぶとともに、この来迎院の特別な魅力をもっと多くの人に知っていただきたいと感じました。

魚山来迎院
〒601-1242 京都府京都市左京区大原来迎院町537