京都御所の表鬼門を護る「赤山禅院」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

京都御所の表鬼門を護る「赤山禅院」を訪ねる

京都御所の鬼門の位置にあたり「方位除け」のご利益で知られるのが、比叡山の塔頭(別院)である赤山禅院です。お寺でありながら、境内に至る参道の入り口には大きな石造りの鳥居があり、ご本尊である赤山明神が祀られる本殿の手前には、神社で見られる拝殿があるなど、神仏習合が色濃く残るお寺です。

また拝殿の手前にはユニークな格好の狛犬が配されていたり、鬼門除けの動物として知られる猿神も拝殿の屋根に置かれるなど縁起かつぎの神使が祀られる境内に、ほっこりした気持ちになった参拝者も少なくないようです。中国の神様から仏様まで、様々な神仏が共存する日本の神仏習合のありようを今に伝える赤山禅院について、執事の植野圓俊師に境内を案内していただきながら、お話を伺いました。
「赤山禅院は仁和4年(888年)に第4世天台座主安慧(あんえ)によって創建されました。安慧は慈覚大師円仁の弟子にあたる人物で、このお寺は円仁の遺訓によって開かれました。
円仁は、比叡山の中興の祖と言われる立派な方で、30代の頃に延暦寺を整備するために尽力されますが、体調を崩されて伏せってしまいました。そこで、『もう先は長くない』と悟って写経をして最期に備えました。ところが徐々に健康を回復しました。これが、如法写経という行の始まりとされています。そして今度は、師の伝教大師最澄が果たせなかった天台密教を確立しようと決意し中国に向かいました。

当時、遣唐使船は九州の大宰府から出港していました。ところが、円仁の乗った船は黒潮に流され長安ではなく、朝鮮半島の西方にあたる山東省の赤山法華院と呼ばれる寺院の近くに漂着します。なかなか中国への上陸を果たせなかったところ、朝鮮の豪族だった張保皋(ちょうほこう)から滞在の許可を得ました。その場所こそ張保皋が法華経を講義していた赤山法華院です。

ところが、唐の皇帝・武宗は道教に傾倒し仏教を排斥します。『会昌の廃仏(かいしょうのはいぶつ)』と言われる時代で「自国の僧侶は還俗させなさい」「経典を焼きなさい」「寺は潰しなさい」と仏教に逆風が吹いていました。円仁が目指した五台山にたどり着くまでは苦難の連続でした。
結果的に最新の密教を学ぶことができましたが、今度は岐路で山賊に襲われ、五台山から持ち帰った宝物をすべて失ってしまいました。これにはさすがの山賊も同情して、円仁を最初に頼った赤山法華院まで送り届けました。しかし、すでに赤山法華院は排斥されて燃やされなくなっていましたが、残された人が「良く戻ってきた」と、日本に帰国する手助けをしてくました。
円仁が比叡山に戻るころには、すでに50歳を過ぎていました。当時の寿命を考えたら残された時間は長くありません。そこで比叡山に戻られて、五台山で学んだことを弟子に伝えたところで、伏せられました。

枕元にきた弟子たちに「私はもう力がないから、ここまでを教えたものの続きはこの者に教えてもらってくれ。私の書いた写経はここに納めてくれ」といった遺言を10ほど遺されました。
その1つに「私は約束が果たせなかったから、誰か志ある者がいたら赤山明神様をお祀りしてほしい」と言われたのが、赤山禅院の始まりです。
この遺志を継いだのが、円仁の弟子で赤山禅院の創建者でもある安慧でした。ただ決して大きなお寺ではありませんでした。大きな祠ぐらいのお堂に、円仁さんが中国へ行って使われた傘や杖などを納めました。

ところがその後、一度お堂が壊されてしまいます。それを復興させたのが、「回峰行の祖」とされる相応和尚(そうおうかしょう)です。
そのキッカケとなったのが、枕元に赤山明神が立たれて『私の社も壊されて居場所がない。そなたは円仁の弟子だろう。何とかしてくれないか』と仰ったそうです。そこで仁和4年(888年)に赤山大明神様が祀られるようになります。この本殿にご神体が入っています。」
赤山大明神は、円仁が、中国から勧請した陰陽道の祖神とされ、道教の泰山府君と同一とみなされている神様です。
中国では古くから寿命と生命をつかさどる神であり、仏教では地獄の十王閻魔の横で「閻魔帳」を持っている存在にあたります。この「閻魔帳」は中国では「禄命簿」と呼ばれ、寿命やその人の財産がどれほどあるかまで書かれてあり、延命する際には、この禄名簿を書き換えればいいとされています。そのことから、陰陽師として有名だった安倍晴明は願主の求めに応じて『泰山府君祭』を催し、祭文を詠みあげて祈願しています。今も「延命と寿命のご利益」を願う人の参拝が跡を絶ちません。

「本殿拝殿と並んで古くからあるのが、地蔵堂です。なぜお地蔵様かといいますと、赤山大明神の本地仏が地蔵菩薩様とされているからです。本殿の上を見ていただきますと、丸い額、扁額がかかっていますよね。あれはサンスクリットの「か」という字です。「か」という字は地蔵菩薩様を表すサンスクリットの字とされます。ですから、ここでお祀りしているのは赤山明神様、泰山府君様でありますが、本当のお姿は地蔵菩薩様です。

また縁と拝殿の手前の御神木の横には一対の狛犬がいます。狛犬は霊獣として、お参りに来た人間がもののけかどうか見分けることができるとされています。拝殿向って左側の狛犬は入ってくる参拝者を、右側の狛犬は遠くを見て常に見張っています。
屋根には、お猿さんもいます。陶器の猿神像で、そもそもなぜ、本殿の屋根に猿が乗っているのかと言えば、鬼門と大きく関係しています。

桓武天皇が都を京都に移された時に鬼門の位置にあたるのが比叡山でした。比叡山を護っているのが日吉大社です。日吉大社の縁起『耀天記』によれば、あそこの大山咋神(オオヤマクイ)は、猿の姿で天から降りてきたということから、神のお使いとして神社には猿が祀られています。

つまり鬼門を護る役割を果たしています。赤山もそうですが、京都の幸神社もしかりですし、京都御所も鬼門にあたる塀の北東側は窪みになっていて、角が削られたような形状になっています。これを『猿が辻』と呼んで、京都のお屋敷では、この猿が辻を取り入れている家も少なくありません。しかも赤山禅院の猿像だけでなく、御所の鬼門には御幣と神楽鈴を持った『神猿(マサル)』が配されています。」
廃仏毀釈により寂れてしまった無住の寺を再興させたのが明治時代に千日回峰行を遂げた叡南覚忍師です。比叡山にとって、赤山禅院は大事な修行の場でもありました。
千日回峰行のうち100日の間、比叡山から雲母坂を登降する「赤山苦行」と称する荒行があります。これは行者が、赤山大明神に対して花を供するために、毎日、比叡山中の行者道に倍する山道を高下する修行で、この任を託されたのが、覚忍でした。

弁天様を信仰していた覚忍は、拝殿と本殿、地蔵堂しかなかった赤山禅院の境内に弁天堂を建立。その後は代々、叡南姓を継ぐ僧侶によって、堂宇の整備が進められたといいます。
「今でこそ、いくつもの神仏が祀られるようになりましたが、昭和40年ごろまでは本当に何もない状態で、比較的新しいのが雲母不動堂です。
正面の御前立ちの奥には秘仏である180センチぐらいの立像のお不動様が祀られています。左右にいらっしゃるのが、不動明王像と役行者像です。

最近では御朱印を集めようと名古屋などから来る方もかなりいらっしゃいます。何かを信じて自分の気持ちが少しで良くなれば、それが仏教です。中には、一生懸命に拝みすぎてしまう方もいますが、お経というのは自分の息を一生懸命出して、悪いものが出ていくようにイメージして唱えてくださいとお伝えてしています。つまり、読むだけではなく、それをどう活かすかが大事です。」
最後に、今回訪問した学生に対しても心温まるメッセージを送っていただきました。

「現代を生きる方たちには『道心の中に衣食あり』という言葉を送りたいと思います。
意味としては、道を求めているときには食べるもの着るものは二の次でいい、結果的にその後についてくるので、まずは道を求めなさい、と言うことです。

食べ物とお金ばかりに執着しても、その先には何もないです。今は何でもお金がかかりますよね。洋服も携帯代も高い。生活していれば、他にもいろいろ欲しいものが出てきます。でもそれを満たしても新たな欲が生まれるだけです。隣の人と同じでいる必要はありません。まずは、自分の道を見つけて精進することが大事なのではないでしょうか。
『迷う』という字は「しんにゅう」に「米」が書いています。食べることばかり思って行くと迷ってしまいます。

自分が何をやりたいのか。職人なら職人でその道を行けばいい。何事も絶対に楽な道はありえません。目的も何もなく過ごすのではなく、何かやりたいことを見つけないといけないのです。とりあえず生きるための仕事は続きません。是非、皆さんにも自分が何をやりたいのかを見つけてもらいたいと思います。」

参加大学生の感想

紅葉のイメージがある赤山禅院。しかし、実際に行ってみると紅葉にとどまらない、非常に魅力ある寺院だと感じました。
寺院といいましたが、訪れて話をお聞きするまではお寺なのか神社なのか正直なところわかりませんでした。慈覚大師円仁の遺志を継いだ弟子の安慧が建立したという事実を字のままで受け取ると、れっきとしたお寺のように感じられます。

しかし、寺院の中に入ると本尊が赤山明神だったり、都七福神を祀るお堂の一つ福禄寿堂があるなど、神様との関係も深く感じられました。そんな興味をもった状態で訪問し、お話を伺いました。
お話の中で、慈覚大師が遣唐使船で唐に渡った際、その行程を守護した赤山大明神に感謝し、赤山禅院をつくることを決めたと植野執事はおっしゃいました。神へ感謝する気持ちがこの寺院が創建される根底にあると知り、感動するとともに様々な宗教の影響がみられる日本仏教を象徴するような寺院だと改めて実感しました。


赤山禅院は千日回峰行とも縁が深いとのことでした。千日回峰行とは7年間をかけて比叡山の峰々を巡って礼拝する修行の事で、命がけの荒行といわれています。千日回峰行の6年目には雲母坂を経て赤山禅院を往復するという修業が加えられ、赤山苦行とも呼ばれているそうです。最難といわれる修行の舞台の一つとなる、この赤山禅院は天台宗において不可欠な役割を果たしていることを学ぶとともに、赤山大明神への感謝の気持ちが現在にまで受け継がれているという事実に感じ入りました。

寺院内を見学させていただく中で、雲母不動堂の沿革に興味を惹かれました。雲母坂にあった雲母寺が廃絶された際にこちらに本堂と本尊が移されたそうで、他のお堂とは違った趣がありました。本尊の不動明王像には気迫があり、経た歴史や信仰を集める所以をまさに体現しているようで、不思議と見入ってしまいました。
訪問の最後、私は植野執事に「やりたいことを見つけなさい」と助言を頂きました。これは就職活動中の私にとって大事な言葉で、大切な考え方でした。慈覚大師が大切にしていたものが元となって建てられた寺院で、自身にとって大切な言葉を頂けたことは感謝しかありません。
赤山禅院
〒606-8036 京都府京都市左京区修学院開根坊町18