声明の里「三千院」を訪ねる(前編)
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いろり端

探訪「1200年の魅力交流」

声明の里「三千院」を訪ねる(前編)

伝教大師最澄1200年魅力交流「大学コラボプロジェクト」では、学生たちによる天台宗寺院の訪問を続けてきました。回を重ねる中で、仏様の前で住職が経文や真言を詠みあげる「声明」を直接聴く機会に恵まれるようになりました。どこか、懐かしくも癒される声明に耳を傾けると、ざわついていた心の動きが落ち着き、背筋が伸びていることに気づかされます。

天台宗では、主要な葬祭行事や儀式で、唱えられる声明ですが、日本における発祥の地として知られているのが、三千院門跡のある京都・大原になります。グレゴリオ聖歌と並び単旋律の宗教音楽としても高く評価されていますが、なぜ大原に声明の道場ができたのか? その後、浄土信仰の聖地として、長きにわたって隆盛を誇ったのも決して無関係ではありませんでした。



伝教大師最澄の草庵から始まり、応仁の乱を経て、大原の地に根を下ろした三千院門跡。その四季を感じる広大な境内の静寂とは、あまりにも対照的な波乱の歴史について、執事長 穴穂行仁師に案内していただきました。穴穂師は京都の亀岡にある「西国三十三所」の21番札所にあたる「穴太寺」の住職でもあります。

「私が三千院の執事長を拝命して、4年が経過しました。まだまだ新参者ですね(笑)。実は、三千院の執事長を務めるにあたり不思議なご縁を感じております。
といいますのも穴太寺の住職をする以前は、京都府の南丹市にある池上院大日寺というお寺におりました。このお寺を創建したのが平安時代の終わりに活動していた『谷の阿闍梨』とも呼ばれた皇慶(こうけい)という密教僧です。元々は比叡山で修行をしまして、後に密教の谷流を興して、覚超(かくちょう)が開いた川流と並び、台密十三流の祖と言われています。その皇慶に教えを乞うために、わざわざ大原の地から来て灌頂を授けられた良宴(じょうえん)という僧がいたそうですから、昔の話とはいえ、池上院の住職をしているものが、このように大原の地に来させていただいているのは、目に見えないつながりがあったのかなと思います。」
天台宗三門跡の一角を占める三千院門跡ですが、その名称が定まったのは、明治になってからのこと。皇族や貴族とゆかりの深い門跡寺院は歴史的な経緯から、名称変更や所在地が移転するケースは多々ありますが、三千院のように目まぐるしく変わってきたのは、歴代の門主を皇族の出身者が数多く占めてきたこととも無縁ではありません。

「そもそも三千院というのは、明治4年以降の呼び名で、このお寺の一番新しい名称です。
江戸時代には、三千院は『梶井の宮(門跡)』と呼ばれていました。ところが、明治に入ると、門跡号は廃止され、門跡の門主だった昌仁法親王は、還俗し『梶井宮守脩親王』と名乗ります。法親王がおられなくなった後は、三千院と名称を変え、現在に至ります。お寺の境内にある文化財の収蔵施設を『円融蔵』と呼んでいますが、元々は、伝教大師最澄が、延暦寺建立の際に、東塔の南谷に大きな梨の木があって、その傍らに草庵を結び、『円融坊』と名付けたことに由来しています。
円融坊は場所柄、『梨(の)木坊』とも呼ばれた時期もあったようですが、その後、時代によって、比叡山の麓にある坂本に下りて、里坊として『圓徳院』などと名称を変えていきます。室町時代には、幕府との親密な関係もあり、京の都にほど近い船岡山あたりに移転して、かなり栄えていたようです。大きな転換点となったのは応仁の乱。京都の街は焼け出されてしまい行く場所がなく、しかも街中は戦乱です。そこで選ばれたのが、大原の地でした。


大原の地は、かつて三千院の寺領でした。この場所は、延暦寺が政所(寺院の資産や荘園を管理する機関)を置いた場所だったので、そこに移ったわけです。江戸時代になり天下泰平になりますと、お公家さんも数多くいらっしゃいましたし、徳川綱吉公の頃には、現在の京都府立病院の敷地のあたり一帯を京都府上京区梶井町と呼んでいますが、寺領を与えられて『梶井の宮』として、移したと言われています。

三千院の寺紋に「梨菊(なしぎく)」がありますが、皇室ゆかりの菊の紋です。還俗された梶井宮守脩親王は、明治3年に梶井宮から改称した名前が、『梨本宮』だったことからも、最澄に由来し寺号に用いられた『梨本』という名称に対し、非常に特別な思い入れがあったようです。
結果的に、梶井宮守脩親王は還俗の際に、仏具一切をお返しになられたのが、それをお祀りする場所が必要でした。そこで選ばれたのが三千院です。ただ、『梶井の宮』の名称は使えないので、新たな寺号をつけなければいけなかった。その矢先、梶井の宮のお屋敷内の持仏堂にかかっていた扁額(へんがく)に『三千院』と記されていた。そこで、明治になり門跡号はなくなりましたが(明治18年に復活)私称として『門跡』を冠して、三千院門跡と呼ぶようになりました。
三千院門跡は、お山(比叡山)から、坂本から洛外の大原に出て、また洛中に戻り・・洛中とは言いませんね‥‥また、大原に戻ったという事なのですね。その中で呼び名も変わったという事になります。」

続けて、三千院の儀式の中でも最重要とされる「御懺法講(おせんぼうこう)」についてお聞きしました。

御懺法講は保元2年(1157)に、後白河天皇が宮中で行った「宮中御懺法講」を起源として、本来は天皇家の回向法要として開かれていたものです。現在では、諸悪の行いを懺悔し、心の中にある毒を取り除き、清らかにする天台宗の最も重要な法要として、広く認知されています。
「御懺法講は一言でいうと、宮中で行われていた仏事で、三千院はその一翼を担っていました。実は江戸時代まで、宮中の仏事は、一部神道があったかもしれませんが、大部分は仏教式で行われていました。皇族のご陵墓については、多くは京都にある真言宗の「御寺 泉涌寺」に葬られていますが、同様に天台宗でも「御寺」のような皇室と関係の深いお寺がありました。それが今出川にあった『般舟三昧院』です。

今、一般のご家庭でもお亡くなりになったら、『お逮夜』をするのはご存じですか?
かつて、皇族が亡くなった場合にも、初七日から数えて、四十九日まで、1週間ごとにお経を詠んでいました。その役割を担っていたのは、般舟三昧院でした。

四十九日はもとより、それ以外の一周忌や三回忌とかの年回法要で『御懺法講』が行われていたのです。端的に言えば、天皇様、若しくは皇后様そういった皇族の方のご年回の法要をしたのが御懺法講です。その導師の役割を代々三千院の門主が務めていた時代が長く続いていたのです。
では御懺法というのは何かというと、仏様に懺悔をして法華経を詠む『法華三昧』と、阿弥陀様に往生をお願いする『常行三昧』を行います。この2種類の法要を通じて、『六根清浄』と言いますが、生きている間に色んなことをして、知らず知らずのうちに作ってしまった罪を懺悔するーー。さらに言えば、その懺悔の功徳をお亡くなりになった人に回向するというのが『御懺法講』です。
御懺法講は、宸殿で行われます。雅楽が演奏され、後白川天皇の肖像を特別な作法でお辞儀をします。仏教では、仏様に対する礼拝で一番丁寧なのが五体投地ですが、天皇に対しては、片膝を立てた独特の作法で礼拝をいたします。法要の最中には、声明が絶えず唱えられていますが、きちっと譜面を見て御経を唱える場合と、(音)楽がお経の譜面と同じようにお坊さんと一緒に唱えるのと2種類あります。どちらにしても声明が上手な方ではないと苦労する法要が御懺法でしょう。
今では毎年5月30日に開催していますが、本来は、天皇や皇族の年回時にやる儀式でした。明治になり宮中の仏事が一切ダメになって以降は、伝統を護っていこうということで、三千院が願主となって続けていくことになりました。現在のように毎年5月30日に開催されるようになったのは、昭和55年(1980年)で宮中の伝統を今日まで受け継いでいます。
ただ、新型コロナウイルスの蔓延で、いくらマスクをしていると言っても、御懺法講は簡略的にしてもトータルで一時間半ほどかかります。常に誰かがずっと声に出しているのは感染のリスクがあるというので、去年と今年は、声明のない形式でお勤めをさせていただきました。」
天台声明の発祥地である大原の地では、古くから声明の聖地としても多くの修行僧が、この地を訪れました。平安中期から後期にかけて大原声明を確立した良忍上人など、長く隠棲して、修行した僧侶は、宗派を問わず数知れず。平安中期から後期にかけての最盛期には「声明成仏」と言われたほど、声明修行の中心地として発展してきたと言います。

「お経に旋律をつけた『声明』というのは日本の各宗派それぞれに独自の声明があります。特に有名なのが天台声明です。唐から帰国した慈覚大師・円仁さんが中国五台山から声明を伝えたのがその始まりと言われています。中国では三国志時代に、魏の国の王子だった曹植(そうしょく)が、中国の魚山という小さな丘があって、そこで梵天の音を聞いて、その音を真似たことから声明が生まれたとされていて、天台宗では、その故事に倣って、大原の地を、中国の魚山と重ね合わせ、『魚山』とも呼んでいます。天台声明を魚山声明とも言われるのは、そういう故事から来ています。
同じ天台宗でも三井寺さんもありますが、寺門(派)と山門(派)では声明がちがいますから聞き比べて頂いたらわかりますね。寺門はアクセントが強い怒り節で、山門の声明はアクセントというかリズムがゆったりしている泣き節です。同じ曲でもイメージが全然違います。興味がわいてきましたら、それぞれの宗派の声明を聴き比べてもいいかもしれません。」



門跡寺院として、皇族の信仰の拠り所となっていた三千院門跡。その有形無形を問わない皇室の公家の伝統を今に伝えています。

参加大学生の感想

声明の里ということで、どうしてもそれが聞きたくて次週もう一度個人的に三千院を訪れ、お彼岸の中日の「彼岸会」を外から見学させていただきました。10人弱の僧侶が宸殿の内陣にて散華を散らし、人の声と自然の声を共鳴させる。二年前に坂本の律院で臨席した朝のお勤めとはまた一味違う、悠久の時の流れを思わせる声明でした。穴穂さんは「一念三千」という言葉の意味を私が伺ったときに、中々言葉では説明できるものではないとおっしゃったが、この法要は誰かが私に「頭で理解するのでなく、心と体で感じ取ってごらんなさい」とわかりやすくヒントを与えてくれたような気がして、空気が入れ替わったような心持がしました。

後編では、「京都の隠れ里」としてのお庭や仏像の魅力に迫ります。

後編はこちら

京都大原 三千院
〒601-1242 京都府京都市左京区大原来迎院町540