「三千院」を訪ねる(後編)
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探訪「1200年の魅力交流」

「三千院」を訪ねる(後編)

都の郊外に位置する三千院門跡と言えば、やはり苔むす庭園と国宝や重文も数多く拝観できる仏殿の魅力も見逃せません。特に、四季を味わいながら様々な表情を見せる境内の景観は、山門にあたる御殿門が日常との「結界」になっているような静寂さに包まれています。三千院を訪問した2021年の9月中旬は、まだ夏の名残があり、緑の木立と苔に覆われたお庭が描く「緑の世界」に、しばし目を奪われます。
現在、三千院には、江戸時代初期に作庭された2つのお庭が「三千院有清園庭園及び聚碧園庭園」として、京都市指定名勝になっています。まず、正面の客殿の周囲に広がっているのは、「聚碧園(しゅうへきえん)」。江戸時代初期の庭師・金森宗和が修復した日本屈指の庭園としても有名です。特に、客殿から眺めるお庭の借景は絶景です。客殿から見て向かって左手には円形とひょうたん型の池がある一方、向かって右には二段上下式の庭となっていて、眺める場所によって全く違う表情が、うかがえるのも魅力の一つでしょう。

そして、客殿から往生極楽院に向かう石敷きの道程から臨めるのが有清園(ゆうせいえん)です。大きな池泉には三段式の滝から水が注がれています。秋には、紅葉が庭一面を埋め尽くすことから絶景のフォトスポットとしても人気を博しています。また原点池脇にはお庭と一体になって苔むしている「わらべ地蔵」にシャッターを押す観光客の姿も数知れず。昨今ではインスタ映えという言葉にもあるように、「かわいい仏様」として信仰を集めているようです。

さらに、有清園横の道を抜けて、観音堂に向かう途中にあるのが、平成9年(1997年)に作庭家の中根史郎さんによって作庭された「慈眼の庭(じがんのにわ)」もあり、散策に事欠きません。
続いて、三千院の中で一番古くに創建され、国宝の阿弥陀如来像をご本尊とする「往生極楽院」をご案内いただきました。
「まずこのお堂ですが『往生要集』を著した恵心僧都源信が父母のご供養のために建立したと伝えられています。お堂の中心に祀られていますのが、国宝の阿弥陀如来像です。こちらの阿弥陀様の大きさに注目してください。座っておりますが丈六仏と言われている仏様です。1丈6尺、つまり立ったお姿で4メートル80センチになることを想定されて造られています。この丈六の仏様は、観無量寿経(経典の一つ)に出てきます阿弥陀如来の等身大の身長です。亡くなったときもこの大きさで、阿弥陀様がお迎えに来くるので安心して極楽に行くことができます。そして、向かって右手に鎮座しているのが、阿弥陀如来の一番目のお弟子さんの観世音菩薩です。思いやり慈悲の菩薩様と言われています。向かって左手の仏様が2番目のお弟子さんの勢至菩薩様です。知恵の仏様と言われていて頭の上に宝冠を戴いています。この宝冠の中に知恵の水が入っております。一般的には三体併せて『弥陀三蔵』とに言われております。仏様の配置というのは、中央の如来様に対し、一対のお手伝いの菩薩様というように、三体で祀られている場合が多い。これを『三尊形式』と言います。三千院の宸殿でしたら、ご本尊として薬師如来がいらっしゃり、脇侍として左右に日光菩薩様と月光菩薩様がいらっしゃいます。
往生極楽院には注目していただきたいポイントが3つあります。まず一つ目は仏様の座り方です。中央の阿弥陀様の両側の仏様はいずれも大和座りという座り方をしています。一見すると、正座のような座り方をしているのですが、正座にしては少し足が開きすぎているように見えませんか? 実は、仏様の足の裏側が外に開いているような状態になっているのです。例えていうと、女性が正座をする際に、よくペタンとおしりを床に付くような感じで座る座り方がありますよね。それに近いものがあります。また仏様ご自身が前かがみでお辞儀をしているようにも見えると思いますが、実際には腰を10cmくらい浮かしている体勢になっています。

なぜこのようなお姿なのかというと、亡くなられた方を、今まさにお迎えにあがろうされているからと言われています。座っていた仏様が『よっこらしょ』と立ち上がらんとする瞬間といったらいいでしょうか。この仏様が造られたのが、約870年くらい前の1148年の銘が残っています。その当時はまだ日本には正座という文化がなく、室町時代のお茶の文化の到来を待たねばなりませんでした。つまり、平安時代のその昔の座り方を称して『大和座り』といい、日本最古の座り方と言われているのです。

二つ目は天井です。この建物の天井中心部は両端より高くなっていて『舟底型天井』と呼ばれています。その名の通り、舟の底をひっくり返した形に見えるところから、その名前がついていますが、珍しいのは天井の形ではありません。この天井は、黒く煤けて目視するのは難しいですが、1150年ごろに描かれた極楽浄土の絵が残っています。わかりますか?
当時は、極彩色の色使いで、極楽浄土が鮮明に描かれていたようです。ただ現在でも一カ所だけ少し見える部分があり、そこには雅楽で使われる笙の楽器の一部が描かれているそうです。こことは別に、もう一カ所だけ専門家に頼んで黒い煤を落としていただいた箇所がありますが、『宝相華』とよばれる極楽浄土にしか咲いていない華が描かれています。このように、今となっては黒く煤けている天井ですが、平安時代から現在まで一切手が加えられておりません。そのままの状態を保っていられるというのが、とても珍しいと言われています。
中には、『黒い煤を専門家に頼んで落としてもらってはどうか?』という意見もございます。確かに昔の色彩に近く再現はできるようですが、こと歴史遺産の保存という点では、この建物を今の状態で保ちにくくなってしまうそうです。
平安時代の頃は、比叡山のお坊さんがこのお堂で修行をしていました。お線香やロウソクをお供えし、また、護摩の修行をしていていたため、その煙がモクモクと上に上がって墨のような状態で、煤がつきました。煤というのは虫が寄ってきませんから、お堂の維持保全に優れているのです。

極楽浄土を描いた天井画は、平成18年(2006)に約850年の歳月を経て再現され、三千院の「円融蔵」に展示しています。まるで青空を思わせる水色の地面に蓮の花びらが舞い散り、4体の天女が雅楽を奏しています。また四十六体の菩薩も描かれ、極楽浄土の様子を描いていると言われています。
阿弥陀堂の建築については、時代による変遷があったようです。創建当初は、高さが均一な普通の天井だったようですが、お坊さんがここで修行をするようになり『弥勒三蔵』をここに納めようとなった際に、丈六仏が入らなかった。そこで、天井を盛り上げた可能性があるとされ、そこで舟形底天井になったと言われています。つまり当時のお坊さんによるアイディアの産物だったようですね。


最後3つ目は、お堂の壁を取り囲むように、びっしりと木の板に描かれている阿弥陀様です。ご覧の通り、すごく細かいですね。元々、この往生極楽堂の正面を除く壁三方に掲げられていたものです。この阿弥陀様も調べてもらったところ一片で約一千体の阿弥陀様、トータルで三千体の阿弥陀様が描かれていたそうです。だからと言って、これが三千院の由来ではありません(笑)。
この3つがわかれば、このお堂全体で、極楽浄土そのものを表現しようと意図されて、造られているということがわかります。

『往生極楽院』の名前の由来は、極楽往生を願うのではなく、このお堂に入った時点で極楽にいるとお考え下さい。
つまり、お堂の結界より内陣に入れば、極楽浄土の中にいるっていうことになりますからお堂の敷居が、往生際ということになります。本来なら、なかなか内陣まで入って、拝観する機会はないかと思いますが、このお堂では座って拝観することができます。正面の中央に座って阿弥陀様にお参りして頂くと、ちょうど阿弥陀様と目線が合うように造られています。ぜひみなさんも中央で阿弥陀様と親交を深めてください。」
国宝である阿弥陀如来像については、昭和になり、銘文が発見されたことから恵心僧都源信の作ではないかとの説も出るなど、平安時代における浄土信仰の教えを伝えていた拠点であったようです。

「実は、大原の地は、比叡山延暦寺と地理的にとても近いのです。この三千院の周辺の山を魚山と言いますが、山頂に向かっていきますと、尾根伝いに比叡山延暦寺の横川にたどり着きます。この地域に寺院ができたのは、10世紀終盤からですが、特定の宗派に属さない念仏行者である聖(諸国を回遊した仏教僧)が、ここで修行をしていたようです。
古くから大原には、隠遁の地というイメージがあったかもしれません。この地には、平安時代の中期に在位していた文徳天皇の第一皇子でありながら、政争に敗れ、世を避けて仏門に入った惟喬親王のお墓もあります。京の都からこちらに来ると、狭い道を越えて、一気に視界が開けて大原の地に到着する。想像するに皇位継承争いから逃れた惟喬親王が、この地に着いて生まれ変わったような印象を持ったのかもしれません。都に近くもありながら自然豊かな景色が広がる田舎の土地。そんな地理的な距離感が、この地で仏教が栄えた理由かもしれません。」

 次に、前編で紹介した毎年5月30日に開催される「御懺法講」の場所となっている大正15年(1926年)に建てられた宸殿をご案内いただきました。やはり門跡寺院特有の建物ですが、とりわけ格式が高く、最も重要な建物としてその威厳を保っています。
「こちらの厨子の中にいらっしゃるのが、伝教大師作と言われるご本尊の薬師瑠璃光如来です。平成14年(2002年)に一度、ご開帳されて多くの方に拝観していただきました。ご本尊の横に祀られているのはお内仏です。

中の間には霊元天皇によって書かれたとされる『三千院』の扁額が掲げられています。こちらは元々、梶井の門跡にあったものです。また天皇閣下をお迎えする場所である虹の間には、下村観山の最晩年の大作の虹の襖絵の模本があります。この虹の襖絵は東洋磁器を研究していたサー・パーシヴァル・デイヴィッドさんが依頼したもので、近年の劣化で退色してきていたので、スキャナーで読み込ませ、プリントアウトをし、模本にしました。内側と外側の配色を逆にして二重の虹を、自然の摂理を見事に再現しています。

他にも宸殿を建てた際に、京都画壇に襖絵を依頼しました。上の間の襖絵は菊池芳文の『茅ケ崎海岸図』が、御座の間には竹内栖鳳による『御殿場暮景図』など、筆を競ってもらいました。今は書院に保管されていて拝観はかないませんが、季節ごとに一面ぐらいは、展示するようにしています。実際に、座敷の襖に入っていてお客様が座られる視点で見てもらうのが一番いいですが、保存の問題などもあり今は展示していません。明治大正昭和の時期、近世の日本画というのは私のお気に入りというか、三千院は隠れた宝庫かもしれません(笑)。」
門跡寺院ならではの格式とどこか厭世的な佇まいから、多くの人を惹きつける三千院。伝統を守りながらも格式を高める歩みを止めない姿勢が、多くの観光客からも親しまれている理由かもしれません。


参加大学生の感想

三千院門跡を訪問し、御懺法講や門前の堅牢な穴太衆積みや伽藍などから感じられる門跡寺院としての威厳や格式高さを体感する一方で、季節の花々が咲きほこる境内や多くの人々を魅了するわらべ地蔵、極楽往生院周辺の自然と調和した景観などから感じられる参拝客を包み込むあたたかくやわらかい雰囲気を体感しました。両者が絶妙に混ざり合うことで、三千院門跡独特の雰囲気が生み出され、古来より多くの人々が三千院門跡に魅了され続けてきたのだと思いました。

三千院の境内には大きな木々が建ちならび、地面は苔に覆われ、厳かな雰囲気が漂うが、庭園や建築の美しさもあいまって、さながら極楽浄土のような景色を楽しむことができました。信者の方たちから寄進されたという童地蔵などの石仏は写真映えもして若い人たちにも魅力が伝わりやすいのではないでしょうか。境内を散策するだけでも心が洗われるようで、都会の喧騒から離れた大原の地の性格もその魅力を高めていると思います。
三千院には門跡寺院としての伝統と貴重な文化財、魅力ある景色と様々な魅力が詰まっていて、三者三様の楽しみ方ができるお寺だと感じました。

前編では、『御懺法講』について迫ります。

前編はこちら

京都大原 三千院
〒601-1242 京都府京都市左京区大原来迎院町540