逸見万寿丸生誕七百年を祝う「道成寺」を訪ねる
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いろり端

探訪「1200年の魅力交流」

逸見万寿丸生誕七百年を祝う「道成寺」を訪ねる

道成寺は、和歌山県日高郡日高川町に位置するお寺です。2021年秋、地元の有力者である逸見万壽丸源清重(へんみまんじゅまるみなもとのきよしげ)の生誕700年にあたり道成寺や周辺地域では様々な催し物が行われています。また、本堂の北側におまつりされている秘仏千手観音像がおよそ16年ぶりに御開帳されるとのことで、訪問させていただきました。

道成寺は、文武天皇の願いにより、今からおよそ1300年前の大宝元年(701)にお寺の歴史が始まったと伝わっています。この文武天皇の願いをうけ、紀大臣道成が文武天皇の后であった藤原宮子の生誕の地にお寺を造立したことから、道成寺と名付けられたといわれています。





お寺としての歴史だけでおよそ1300年もある道成寺は戦火や自然災害の被害が非常に少ないお寺とも言われています。昭和63年から平成3年にかけて本堂の解体修理が行われましたが、本堂の敷地が1300年間にわたり一度も雨風にさらされていないことが確認されました。また道成寺は逸見万壽丸が一世代三十数年間支えてくれた以外は特定の氏族ではなく地域の方々により支えられ、建物が痛むたびに解体し、仏様を本堂に集めて護り、現状のような姿になりました。


驚くべきことに、道成寺が位置する土地は、お寺が開かれる以前から祈りを捧げる場所として認識されていたそうです。このことを如実に示しているのが、境内の宝仏殿に展示されている大きな銅鐸です。この銅鐸は、道成寺門前付近から出土したと伝わり、弥生時代後期ころの制作とされています。日高川沿いに位置し周辺をたくさんの人々や物資が行き交うなかで、道成寺が位置する土地は、さまざまな人々が集う大切な場所と認識されていたのかもしれません。
古来よりたくさんの人々が集っていたであろう道成寺、その名を一躍有名にした説話が今日まで伝わっています。延長六年(928年)に起こったと伝わる安珍と清姫の物語です。熊野詣を行っていた安珍を慕うあまり、最後には大蛇の姿となり道成寺で安珍を焼き殺し、自身も日高川に身を投げ、命を絶つという話は、後の時代に様々な演芸の題材となりました。境内の縁起堂では、お寺の方々による縁起の絵解き説法や歌舞伎や能楽、人形浄瑠璃で使用される道具類を見学することができます。

宝仏殿では、道成寺が創建された奈良時代から現在に至るまで、大切に守り伝えられてきた仏像がおまつりされています。ご本尊の千手観音立像並びに脇侍の日光菩薩・月光菩薩像は平安時代初期頃に制作され、国宝に指定されています。像高が3メートル近いご本尊に圧倒されるとともに、やさしく穏やかな表情から親しみを感じます。




ご本尊以外にも、奈良時代や平安時代に制作された四天王立像、鎌倉時代に制作され2メートル以上の巨像である釈迦三尊像、平安時代に制作された十一面観音像や毘沙門天立像へ参拝することができます。また、今回の御開帳期間では、普段は東京国立博物館に寄託されている毘沙門天立像も里帰りされているそうです。安珍と清姫の物語に限らず、道成寺は、長い年月のなかでたくさんの戦乱や火災に巻き込まれましたが、そのたびに人々が仏像や宝物類を守り伝えてきました。宝仏殿に入ると、尽力された人々の祈りや願い、気迫を肌で感じました。



本堂の中に入ると、奈良時代に造立された千手観音像が南向きにおまつりされています。このお像は、本堂の修復工事に当たり、今回御開帳されている千手観音像を移動させようとしたときに、内部から発見されました。発見された当初は、ひどく破損していたそうですが、何年にもわたる修復を経て、造立された奈良時代ころと同じように私たち参拝者を見守っています。
本堂の後堂へ足を進めると、今回御開帳されている千手観音像が北向きにおまつりされています。制作された時期は本堂と同時期の南北朝時代とされています。奈良時代造立の千手観音像をこのお像で覆い、後世へ守り伝えるために逸見万壽丸源清重が本堂とともに造立させたと考えられているそうです。

道成寺の境内は、長い歴史や伽藍から感じられる威厳だけでなく、参拝の方々を包み込むあたたかくやさしい空気に満ちていました。およそ1300年の歴史を有する道成寺。いつの時代も道成寺を愛しているたくさんの人々の手によって今日までお寺が守り伝えられてきたのだと感じました。
文:大学コラボプロジェクト参加大学生
道成寺
〒649-1331 和歌山県日高郡日高川町鐘巻1738