いろり端
探訪「1200年の魅力交流」
近江・甲賀 日本最大坐仏いちいの観音「櫟野寺」を訪ねる


そこで、最澄が霊夢を感じた櫟の樹木から造られたと伝わるのが、こちらのご本尊で像高3.12メートルを誇る日本最大坐仏「十一面観音菩薩像」です。総高は5.3メートルというスケールの大きさで、秘仏となっており普段は漆黒の厨子に納められ、そのお姿を拝見することはできません。33年に一度の「ご開帳」と、近年は春と秋に特別公開されているだけです。後に、「いちいの観音」と呼ばれるようになったのも、伝教大師最澄によるこのエピソードが由来となっています。

いずれも国指定重要文化財で、他にも櫟野寺は「平安仏の宝庫」と言われているだけに、20体を超える平安仏と本堂奥の宝物殿でお会いすることができます。それにしても、なぜこんなに多くの貴重な仏様が、櫟野寺に残されているのかをお聞きすると、歴史的な経緯から櫟野寺の周辺にあった末寺などが廃寺となり、安置されていた仏像の多くがこちらに移されたのではないかとお話しいただきました。

静かな本堂を参拝して、三浦密照住職にお話をお伺いしました。


ご本尊の十一面観音は、一木造りで頭と胴体がひとつの木で作られています。日本古来から木、石、山などに神様が宿るという自然崇拝の信仰があります。この地にも仏教が入る以前から霊木、立木信仰があり、木材を切り出して都に運んでいた杣人達が信仰していた櫟の木に霊夢を感じ、伝教大師様が彫ったといわれていますが、専門家の見解では、10世紀の作といわれています。
いわば、この十一面観音は奈良仏教から比叡山の仏教へと変わっていくシンボリックな仏像として祀られたのではないかと思います。10世紀は、比叡山が復興する時代。この頃に、甲賀地域が重要な木材の供給地になって整備され、天台仏教が栄華を極めたのではないかと推測されます。
いわば、この十一面観音は奈良仏教から比叡山の仏教へと変わっていくシンボリックな仏像として祀られたのではないかと思います。10世紀は、比叡山が復興する時代。この頃に、甲賀地域が重要な木材の供給地になって整備され、天台仏教が栄華を極めたのではないかと推測されます。


仏師は、国家の安寧のために頼まれて作るというのもあったんでしょうけど、やっぱりその仏師の思いというのがあったからこそ、今も人々を感動させるのでしょう。
当時の甲賀地域は、善水寺や櫟野寺が比叡山の拠点として、役割を担っていたんだろうといわれています。甲賀、湖南地域には野洲川という川が流れていまして、川の北側が善水寺系統の仏像、南側が櫟野寺系統の仏像が伝わっているといわれています。ご覧いただけると作風の違いがありますのでぜひ、そうしたところもご覧になられるのもいいかもしれません。
当時の甲賀地域は、善水寺や櫟野寺が比叡山の拠点として、役割を担っていたんだろうといわれています。甲賀、湖南地域には野洲川という川が流れていまして、川の北側が善水寺系統の仏像、南側が櫟野寺系統の仏像が伝わっているといわれています。ご覧いただけると作風の違いがありますのでぜひ、そうしたところもご覧になられるのもいいかもしれません。
仏像ファンには知られていた櫟野寺が、全国的にクローズアップされるきっかけとなったのが、2016年9月から翌17年1月まで、東京国立博物館で開催された「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」でした。本堂、宝物殿の修繕にあわせて、ご開帳事業の一環として開かれた特別展は、会期3カ月から約1か月延長されるほどの人気を博し、21万人を超える観客を動員し話題となりました。寺院護持、文化財の保存継承には多額の維持費が必要なことから、悩みが尽きない古刹にとって、新しいモデルケースとして、注目を集めましたが、そこに至るまでの苦労は並大抵ではなかったようです。

お寺にとって、文化財の保存、継承というのは大きな問題です。収蔵庫は昭和40年(1965年)に建ちまして、ちょうど半世紀のタイミングで修繕しました。収蔵庫は国、県、市の補助により所有者負担も軽減されますが、寺として修繕費用も無く、地域の信徒の皆さんからの寄付に頼るしかありませんでした。
特別展も開催するまでは綱渡り状態でした。特別展は、仏像の搬出や輸送、宣伝費など莫大な費用がかかりますので、スポンサーがいないとできないものです。スポンサー探しも自治体では限界がありますので、自ら動くしかありませんでした。この収蔵庫の修繕費よりも搬出など輸送費用の方が高いほどです。会場となった東京国立博物館さんとは、以前から仏像を寄託しているご縁もありましたので話を重ねていました。そこに読売新聞東京本社さんが、興味を持ってくれました。でも読売さんにすれば大きな賭けですよね。京都や奈良の有名な社寺だったらまだしも、仏像好きしか知らない滋賀県のお寺を取り上げてくれたのはありがたいですね。

実は、このお寺の維持費の大半は、この地域の方々から頂戴している護持費が主となっています。拝観料は全体の収入の中でも一部となっています。これは京都や奈良の有名な寺院以外はどこも似ているのではないでしょうか。
お寺というのは、地元密着型で、地域が人口減少などで衰退すればお寺も存続が困難になります。仏教には「諸行無常」という言葉がありますので流れに任せるしかありませんが、私自身、この地で生まれ育ってきましたし、昔から地域で守っていただいているので、なんとか次世代につなげたいという思いからご開帳事業に取り組みました。
特別展の翌年(2018年)は、33年に一度の「ご開帳」を控えていましたので、この機会に報道で取り上げてもらえるよう知名度アップを図りました。次の50年、100年先、この寺がどうなっているかわかりませんが、今できることを精一杯することで、なんとか生き残れる道があるんじゃないかと模索している最中です。
次世代へのバトンタッチは、文化の継承のみならず、伝統ある寺院にとっても、共通する悩みであり、各寺院が試行錯誤していく中で、櫟野寺の試みは注目すべきことかもしれません。
お寺というのは、地元密着型で、地域が人口減少などで衰退すればお寺も存続が困難になります。仏教には「諸行無常」という言葉がありますので流れに任せるしかありませんが、私自身、この地で生まれ育ってきましたし、昔から地域で守っていただいているので、なんとか次世代につなげたいという思いからご開帳事業に取り組みました。
特別展の翌年(2018年)は、33年に一度の「ご開帳」を控えていましたので、この機会に報道で取り上げてもらえるよう知名度アップを図りました。次の50年、100年先、この寺がどうなっているかわかりませんが、今できることを精一杯することで、なんとか生き残れる道があるんじゃないかと模索している最中です。
次世代へのバトンタッチは、文化の継承のみならず、伝統ある寺院にとっても、共通する悩みであり、各寺院が試行錯誤していく中で、櫟野寺の試みは注目すべきことかもしれません。
三浦密照ご住職からのメッセージ

櫟野寺は観光地化できる規模の寺院でもありませんし、限界があります。特別展を開催したのも、あくまでお寺や観音様の存在を知ってもらうというきっかけにすぎません。むしろ、大事なことは、このお寺に来て下さった方がどう感じてくださるかですね。やはり観音様と出会っていただき、「この観音様に手を合わせたら生きる力がわく」とか「私に似ているなあ」とか親しみを持ってもらい、何度も足を運んでもらえればうれしいと思っています。これからのこの地域も過疎化が進みます。そうした中で、お寺を存続させていくためには、若い方に限らずお寺に来てもらえるきっかけづくりが必要ですね。若い人に来てもらいたいと思っても、お寺という場に用がなければ、その場限りで終わってしまいます。人間って、必要でないものには興味もないでしょうし、普段の生活で神仏にすがらなくても平気な人もいれば、お金があればいいという人もいるでしょう。

最後に三浦密照さんご自身にとっての「一隅を照らす」をお聞きしました。

住職になると、お寺を維持するのが一丁目一番地になってしまいます。今は次世代にいかに継承していくか、というのがあって、ご参拝に来られた全ての方とお話をするというのがなかなかできないですが、まずは、きっかけは何であれ、お寺に足を運んでもらえるように取り組んでいきたいですね。
福生山 櫟野寺
〒520-3412 滋賀県甲賀市甲賀町櫟野1377
〒520-3412 滋賀県甲賀市甲賀町櫟野1377

人から人へと紡がれてきた
大切な想いや魅力について語り合う
地域で育まれてきた歴史や文化を語り合い、
新しい価値と出会います