日本仏法最初の官寺「和宗総本山 四天王寺」を訪ねる
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いろり端

探訪「1200年の魅力交流」

日本仏法最初の官寺「和宗総本山 四天王寺」を訪ねる

 和宗総本山 四天王寺へお伺いして、昨年復興された伝教大師像と堂宇である一乗院を拝見いたしました。
 大阪府民にとっては馴染みの深い寺院のひとつである「四天王寺」。その名の通り、天王寺区の地名の由来にもなっているほど、周辺にも多くのゆかりの寺院を擁しています。聖徳太子によって創建されたのが593年。飛鳥時代に、これほどの規模の寺院が建立されたというのは、実に驚きです。2022年には、聖徳太子が薨去(こうきょ)されてから1400年を迎えるということで、「聖徳太子千四百年御聖忌」として大規模な修復工事と整備を進めている最中です。
 現在は独立した宗派として、聖徳太子の「十七条の憲法」の有名な第一条「和をもって貴しとなす」からとって、「和宗」と称していますが、本来は仏教伝来直後に創建されたことからもおわかりのように、特定の宗派に分かれる以前の仏教の伝統を今も守り続けています。

 境内の入り口には、重要文化財の石鳥居が出迎えてくれます。威風堂々としたその佇まいは神仏習合の時代をほうふつとさせるのに十分といえるでしょう。敷地に一歩足を踏み入れれば、都会の喧騒を離れた空間に、深呼吸する人も少なくないでしょう。周囲には高層建築もなく、散策するだけでも心が落ち着きます。

 境内の東重門ほど近い場所に昨年(2020年)3月に建立されたのが、伝教大師最澄を奉安している一乗院。最澄自身が遣唐使で天台宗を修めたのち、帰国して向かったのが四天王寺の太子殿と言われています。そこで、聖徳太子の教えを広めるという誓いを立てたことから天台宗との関係も深まり、戦後までは天台宗の寺院として知られていたほどです。今でも最澄の命日である6月4日には法要が行われるなど、ゆかりの深いお寺として多くの人の参拝を集めています。

ここで、案内役の四天王寺の方にお話をお伺いしました。

――最澄像を造るのは大変でしたか?
 最澄像を造るのには苦労しました。普通でしたら、古くからあるお寺のお堂を尋ねて参考にさせていただくのですが、なかなか思う様なお像が見つからない。
 そこで「(伝教大師像を)造ろうか」ということになったんですが、先ほども申しましたようにお手本になるような、伝教大師像というのがなかった。弘法大師さんはたくさんあるのですが、伝教大師さんは、ほとんどないのです。
 そこからは手探りの連続です。いろいろ話を聞くと、伝教大師像は非常に大切にされているので、しかるべき場所に納められてきちんとお大師さんを拝まれているのが実際のところでした。
 四天王寺も戦前までは伝教大師像がありました。ただ、戦時中の金属回収令で供出されてしまったんですね。結果的に、以前の伝教大師像はそのまま復元することはできなかったですが、最澄さんの伝記である「叡山大師伝」の中に伝教大師のお弟子さんであった光定(こうじょう)が、最澄さんの発した言葉をまとめた「伝述一心戒文」という書物が残されています。そこで出てくる逸話ですが、伝教大師が、聖徳太子が大事にした法華経を元に、天台宗を興す際に、聖徳太子がお祀りされているところに参詣したという史実が残っています。その時の様子を再現して作られたのが、先代の伝教大師像ということになります。
 天台宗の一宗派として最澄さんを祖師として祀るという感覚ではなくて、四天王寺、ひいては聖徳太子と最澄さんとの関係性というのをきちんと伝えていきたい。「聖徳太子千四百年御聖忌」という契機で、我々も忘れてはいけないということから最澄さんを祀るということになったのですね。
 聖徳太子、伝教大師と法華経を大切にされているところから、今の四天王寺も法華経が基本経典となっているということです。

 古代からの寺院の様式を今も受け継ぐ四天王寺は、新旧の建築が調和されているのも魅力のひとつ。その伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」といわれ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂が一列に並んでいます。その建物群を回廊が囲む形式で、最も古い建築様式であるとされています。
 漆の朱が華やかな中門は、別名仁王門と呼ばれ、松久朋琳・宗琳両師の仁王像に圧倒されます。実は、この中門も昭和9年(1934年)の室戸台風により倒壊。その後、復興されるなど、自然災害により、大きな被害を受けています。
 また戦中の大阪大空襲で境内の主要な建物のほとんどが焼失するなど、たびかさなる苦難にも見舞われてきました。にも関わらず、今も古の時代の空気を感じさせるのは、数多くの方の信仰を集めてきたからに他ならないでしょう。

 伽藍内に入ると、四天王寺を象徴する荘厳な五重塔が出迎えてくれます。数多くの受難を乗り越えたといわれるこの五重塔は、これまでに実に7回も損壊し、現在は1959年に建てられた8代目を拝することができます。真っ青な空と朱のコントラストにしばし、時間を忘れる参拝客も少なくありません。

 奥に進むと、金堂があります。聖徳太子が信仰した金銅の救世観音をお祀りしているほか、その周囲を取り巻くように、お寺の名前の由来でもある四天王が配されています。

 聖徳太子がお祀りされている太子殿は、正式には聖霊院と呼ばれ、奥殿には秘仏の太子四十九歳像が祀られています。この場所こそ、かつて最澄が法華経による信仰を誓願した場所になります。このように長い歴史を誇る四天王寺は宗派を超えた様々な遺構が今も受け継がれているのです。
 中でも境内の北側は、毎日の諸礼賛に使われ、重要文化財でもあり、最澄が1日に6回勤行をするために建てたとされる六時礼賛堂や、天台宗中興の祖でおみくじを始めたともいわれる元三大師を祀った元三大師堂など、大阪大空襲の災禍を逃れた建物が今も参拝できるだけに、江戸時代建立当時の息吹を感じることができるでしょう。

最後に、今回のコロナウイルスでの影響について興味深いお話をお聞きいたしました。

 四天王寺は観光でこられる方よりも、昔からの信者さんが我々にとって一番大切なんです。以前に大阪の観光局の方が府の職員と一緒に来られて、インバウンドによる意見を交換しました。ただ、「我々は観光客受け入れをそんな風に大々的に宣伝するつもりはない」と話をしました。昔から四天王寺は、近隣の信者さんのためのお寺として、皆さん方からずっとお参りされて、お賽銭を入れて参拝してくださっています。それで、五重塔が建って石畳を敷くことができる訳です。その人達を裏切って観光客を無尽蔵にいれて見せ物にするのは本末転倒です。その観光客のために全部やり変えていうことまでは我々にはできません。
 コロナ禍でも「外に出るな」「お寺に行くなんてもってのほか」という風潮があって、日本中のお寺の門が閉められた状況になりました。我々もお堂は閉鎖していましたが、参詣者は来られます。お堂の外からお参りされる方は、かなりいましたね。正直、多かったです。
 すると口コミで参拝する方が、徐々に増えて参りました。最終的に、5つの山門を閉鎖せざるを得ない事態になりました。完全閉鎖は四天王寺創建以来、初めてのことでした。
 天変地異や自然災害、戦さ等の時代によって、良かったり悪かったりにしても、お堂は閉めるけど、境内はだれもがお参りできるようにというのは、元々のお寺のあるべき姿です。
今回、コロナで山門を閉めたのは創建以来初めてです。従前のように開門した今はお参りがメインで来る人が多くなりました。以前は、境内で飲んで食べて、「こんな公園のようなところがあるんや」と言って入ってくる人が以前は多かったのですが、そういう人は少なくなりました。
 外に行ってコロナを患う可能性よりも、お寺だったら大丈夫でしょみたいなと安心感があるのかもしれません。家族連れの方が多いですね。普段着で来る方も多くなって。でも、きちんと感染対策は忘れないでほしいですね。

当山も祈りの場としてのお寺の在り様が改めて見直されているのではないでしょうか。
和宗総本山四天王寺
〒543-0051 大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18